2026年04月04日

デジタイズ揖斐線・岐阜市内線

なかなか進まないデジタイズスキャンだが、今回、揖斐線と岐阜市内線を記事に来出るだけの点数がそろった。
メインになるのは、時期的にはスカーレット化が完了し、本揖斐、谷汲、長良北町への路線が健在であるときだから昭和53年から昭和63年までの間ということになる。
一部その前後の写真も含んでいる。

本揖斐駅から。
近鉄養老線で、終点からバスを利用していったこともあるが、たいていは岐阜駅前から急行に乗って本揖斐へ向かった。
この急行が好きだった。
本揖斐に停車するモ513。
名鉄揖斐線本揖斐513斜め.JPG

こちらは真正面。
名鉄揖斐線本揖斐513正面.JPG

モ511が停車している。
転換クロスが見える。
名鉄揖斐線本揖斐ホーム側511.JPG

モ524が発車していく。
必ず510形と520形のコンビだった。
名鉄揖斐線本揖斐524後追い.JPG

モ524と、510形のほうは何号だろうか。
如何にも古く見える510形だが、実は520形のほうが古い。
510形は初期鋼製車で、520形は木造車に鉄板を貼ったニセスチール車といわれる作りだ。
名鉄揖斐線本揖斐510形・522.JPG

転換クロスに座って、古い小型電車が時速70キロで、レールジョイントもせわしく突っ走る楽しい路線、それが揖斐線だった。
この2形式はもともとは美濃電気軌道の車両で、揖斐線の市内線乗り入れ急行運転開始時に大幅な性能向上とアコモ改良を行って就役させた電車だ。
ただし、4個モーターにして出力を強化したのは510形のみで、520形は2両連結の際にはT車扱いとなって、単行で走るときのみ、自車のモーターで駆動していた。

黒野駅の750形モ758、ここに来る前は瀬戸線にいた電車で、旧名古屋鉄道郡部線の出自。
名鉄黒野758.JPG

尻毛駅。
急行停車駅だった。
名鉄揖斐線尻毛駅.JPG

軌道と鉄道の結節点だった忠節駅の様子。
広電西広島・己斐を思わせるが、かなり長閑な感じだった。
市内線電車は結構本数があった。
揖斐線も急行と普通合わせて毎時4回と本数は多かった。
揖斐線急行のモ523と市内線のモ562が出会う。
名鉄揖斐線忠節523・562.JPG

こちらはモ513。
名鉄揖斐線忠節513.JPG

軌道線572が停車する。
名鉄揖斐線忠節572.JPG

モ524、本揖斐行き急行。
名鉄揖斐線忠節524.JPG

急行新岐阜行きモ523の後ろを渡る高校生諸君。
名鉄揖斐線523と高校生.JPG

軌道線モ564。
名鉄揖斐線忠節564.JPG

こちらは軌道線でも大型のモ573。
名鉄揖斐線忠節573.JPG

普通列車のモ702とモ752が並ぶ。
名鉄揖斐線忠節703・752停車風景.JPG

大手私鉄というより地方中小私鉄の趣だ。
名鉄揖斐線忠節703・752小.JPG

そのモ752のアップ。
名鉄揖斐線忠節752小.JPG

市内線軌道へ進む新岐阜行き急行モ512。
名鉄揖斐線忠節512.JPG

軌道線から入ってきたところで、モ512。
谷汲行き急行だ。
名鉄揖斐線忠節512道路上.JPG

市内線に入る。
乗っているのはたぶん、550形あたりか。
徹明町の忠節より。
名鉄岐阜市内線徹明町後方車窓.JPG

金宝町、この車内からの場所の特定は名鉄ファンの方にご教示いただいた。。
名鉄岐阜市内線金宝町後方車窓558.JPG

新岐阜、忠節からの小型車のモ558。
名鉄岐阜市内線新岐阜558.JPG

岐阜駅前(国鉄岐阜)、地下道から入れる歩道が整備されていた。
モ513だ。
この電車は今も岐阜駅前で保存されている。
名鉄揖斐線岐阜駅前513小.JPG

モ524が停車中、車掌の乗客への対応。
名鉄揖斐線岐阜駅前524.JPG

長良北町行きモ552。
名鉄岐阜市内線岐阜駅前552大_01.JPG

この頃の岐阜城址へは行きやすく、何度か登ったものだが、市内線廃止以降は全く行けていない。

さて、この時以外の様子を少し。
伊自良川、少し後の時代だと思う。
新型770形の急行電車、モ771。
名鉄揖斐線伊自良川771.JPG

モ752、それでもまだまだ旧型電車が元気だった。
名鉄揖斐線伊自良川752.JPG

ク2326、瀬戸線にいた車両だが、出自は現名鉄の名古屋豊橋間などを構成する愛知電気鉄道で、初期鋼製車、かつてな超特急としても走った名車だ。
瀬戸線から700・750形とともに揖斐線へやってきて、活躍するようになった。
名鉄揖斐線伊自良川2326.JPG

ワタシが初めて岐阜の電車に触れた時の写真の一つ。
空の広い岐阜駅前をモ515が520形を連れてのんびり走る。
名鉄岐阜駅前515.JPG

ワタシが最後に新岐阜を訪問した時。
真っ赤だった770形は明るいスリートーンに変更されていた。
この時はまさか、この路線が廃止になるとは夢にも思えなかったのだが。
名鉄新岐阜揖斐線772.JPG
posted by こう@電車おやじ at 21:09| Comment(0) | 名鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月08日

北陸地方の電車を見て回ったころ(その2)北陸鉄道・福井鉄道・京福電鉄サブカメラ。

サブカメラ、OLYMPUS XAのデータが続く。
北陸鉄道を訪問している。

一枚だけ、浅野川線北鉄金沢駅の写真があった。
写っているのは、かつて加南線にいたモハ3563だ。
北陸鉄道野町3563.JPG

金沢の町はずれにあった野町駅。
快速電車運転の看板が目立つ。
既に白山下方面は廃止された後だ。
北陸鉄道野町駅.JPG

野町に停車するモハ3744、準急の看板をつけている。
この頃の石川線は準急の種別が数種類あり、よそ者にはなかなか難しく感じだ。
この車両は名鉄瀬戸線で走っていたものだ。
北陸鉄道野町3744準急.JPG

モハ3744の車内。
瀬戸線特急車の雰囲気がそのままだ。
北陸鉄道3744車内.JPG

この電車に乗って鶴来まで行ったようだ。
鶴来駅。
北陸鉄道鶴来駅.JPG

ここには車庫・工場があり、周囲を回ってみた。
モハ3751とモハ3772が並ぶ。
3772は、愛知電鉄が製造して超特急「あさひ」などに使われた名車だ。
3751は加南線にいた電車。
北陸鉄道鶴来3751・3772.JPG

モハ3772の全景。
北陸鉄道鶴来3772.JPG

交換風景、モハ3751と3761が並ぶ。
北陸鉄道鶴来3752・3761.JPG

モハ3761。
こちらも加南線にいた電車だ。
北陸鉄道鶴来3761.JPG

クハ1722、こちらも名鉄3300系が前身。
北陸鉄道鶴来1722.JPG

ネガデータは福井鉄道へ転じる。
福井駅前に停車する200形の威容。
福井鉄道福井駅前202.JPG

福井鉄道の車内補充券。
福井鉄道車内補充兼.JPG

武生新駅に到着。
福井鉄道武生新200形.JPG

武生新駅に140形が到着。
福井鉄道武生新140形到着.JPG

140形の車内。
福井鉄道140形車内.JPG


140形は京阪1550形(のちの600形で日本最初のロマンスカー)を昭和末期に復活させたような外観、車内だった。
元は名鉄900形と長電300形、福井40形を整備して登場した電車だった。
福井40形が入った第三編成だけは顔が異なる。


福井新駅(今の赤十字前駅)。
福井鉄道福井新駅.JPG

南越線も写っていた。
130形、粟田部付近にて。
福井鉄道粟田部130形.JPG

京福電鉄福井支社、時間がなかったのか、この時は福井駅でだけ撮影している。
モハ2001・モハ3001、いずれも南海出自の車両で、2001は南海1201形、3001は南海11001系だ。
京福福井2001・3003.JPG

モハ1002、名鉄3800系に似ているが、自社発注車。
京福福井1002.JPG

モハ2016、南海1201系の気品が漂う。
京福福井2016.JPG

モハ3008、南海11001系の初期車で一編成のみ譲受した車両。
京福福井3008.JPG

駆け足旅行は今も変わらないが、いまはこの当時よりはもう少しゆっくりと腰を落ち着かせるようにしている。
焦りは若さの特権ともいうが、もう少し慎重に見て回ってほしい・・当時の自分へ。
posted by こう@電車おやじ at 11:55| Comment(0) | 私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年02月25日

北陸地方の電車を見で回ったころ。(その1)富山の鉄道サブカメラ

ずっと以前に簡易スキャナーでスキャンしていたネガデータを見ていると、いまだ公開していなかった北陸路の写真が出てきた。
何回かに分けて撮影したものだが、きっかけは友人たちとの立山への旅行、それに続いて自分で回った北陸3県、さらには友人O氏と一緒に回った時のもある。
これは画質を見る限り、サブカメラOlympusXAでの撮影のようだ。
小型軽量で明るいレンズが付いていたが、開放での画質はかなり甘い部分があった。

これ以前のOlympus35EDは、画質の面では何の問題もなかったが、シャッター速度を自分で決められず、その点が不満だったのでXAは重宝したが画質の甘さが今に残る。
(XAは絞り優先機で、シャッター速度は自分で決められないが絞りをコントロールすることである程度の自由度はあったし、シャッター速度がファインダーに追針式で表示されるのがありがたかった)
フィルムはすべてKodakトライXで、現像処理はD76、今に至るもフィルムそのものの劣化は見られない。

さて、この方面の旅行といえば神戸や加古川に居住していた自分としてはまず、「きたぐに」「立山5号」などの夜行列車となる。
「きたぐに」で糸魚川についたところからネガの一つは始まっている。
下車したホームの向こうにキハ58が留置されていた。
キハ58一党の最終グループの形態で、しかし冷房が搭載されていない、原型だったようだ。
番号はよく読めない、1504だと新潟所属だから急行「ひめかわ」の車両だろうか。
糸魚川キハ581004.JPG

折り返しで乗った電車は419系だったようだ。
写真は魚津駅で。
登場したばかりの、特急型から近郊型への改造電車。
魚津419系.JPG

その車内、ほんと、簡易改造という言葉がぴったりとあてはまる。
糸魚川419系車内.JPG

魚津駅で降りて富山地鉄へ向かったようだ。
電鉄桜井駅まで乗ったのだろう。
14753とたぶん、14720形あたりか。
ツリカケとカルダンの連結部だ。
富山地鉄黒部電車連結部14753.JPG

14721の車内、この電車に乗ったのだろう。
富山地鉄14721車内.JPG

その編成の写真。
電鉄桜井駅の不思議な構造もわかる。
富山地鉄黒部14753.JPG

反対方向の14791が入ってきた。
最初にこの電車に乗ったのが冬前で、当時はまだ窓の更新前、隙間風に震えた。。
富山地鉄14791・黒部.JPG

14721と、反対方向の172が並ぶ。
富山地鉄黒部14721・172.JPG

南富山、市内線7019。
富山地鉄南外山7019.JPG

南富山にて、除雪車に使われていた3533・3534が留置される。
富山地鉄南富山3533・3534.JPG

こちらは友人たちと立山に行った折のこと。
早朝の電鉄富山駅で青い電車が停車していた。
15という控えめな番号だが14710形のクハで、元は名鉄の3800系だ。
立山までの特急列車だ。
富山地鉄富山15特急立山.JPG

向かいのホームにも同じ形の電車が停車していた。
こちらは11号。
富山地鉄富山11.JPG

二本の電車が並ぶ様子。
富山地鉄富山11・15.JPG

立山行きの特急に乗った。
その車内、写っているのは同期の友人E君だ。
変則的な固定クロスシートが特徴だった。
富山地鉄15車内.JPG

立山駅での電車、14717。
富山地鉄立山14717.JPG

立山駅から美女平へのケーブルカー。
貨車が連結され、さらに後ろに小さな車掌室が。
立山ケーブル立山.JPG

交換所にて。
ケーブルカーの様子。
立山ケーブル室堂.JPG

美女平の景色、室堂方面へのバスが待機していた。
立山とバス.JPG

氷見線にも行っている。
氷見駅に停車するのはキハ23だ。
氷見線氷見駅キハ23.JPG

氷見駅外観。
氷見線氷見駅外観.JPG

富山の鉄道については過去ログもご参照ください。
早月川と常願寺川
富山地方鉄道=地鉄電車
LRTへの道。富山の鉄道
富山の国鉄→JR
posted by こう@電車おやじ at 22:26| Comment(0) | 国鉄・私鉄双方の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年01月29日

直通特急運転開始から28年:阪神・山陽電鉄

平成10年、1998年2月15日に阪神・山陽領電鉄が神戸高速鉄を介して直通特急を運転開始して28年になる。
このブログ記事としては比較的新しい部類に入るが、地元のことでもあり、ぼちぼちと思いかえしてみたい。
写真は阪神9000系、原型時代。
直特阪神9208.JPG

神戸高速鉄道は昭和43年(1968年)4月7日に開業し、神戸市内の阪急・阪神・山陽・神鉄の各路線を結び、新開地に集めることで神戸市内の交通の大変革を成し遂げたが、開業時からはんきゅ・阪神は須磨浦公園まで、山陽は阪急六甲・阪神大石までの乗り入れをそれぞれ自社乗務員で行っていただけで、神戸市内を東西に結ぶ乗客には必ず乗り換えが必要となり、繋がっている線路を有効に活用することはなかった。

事態が一変したのが平成7年(1995年)1月17日の兵庫県南部地震=阪神淡路大震災だ。
阪神・阪急・山陽の各社は復旧までに半年を要し、さらに神戸高速鉄道の復旧は2か月もずれ込んだ。
(まだ大開駅は通過扱いだった)

おなじ震災被害でも、JR西日本の動きは速く、崩壊した高架橋の復旧に際して、橋桁は再生利用、橋脚のみ建て直すという方法を用いて迅速に復旧、早くも4月1日には全線復旧(ただし新長田駅は通過扱い)し、その日から一部徐行区間はあれど震災前のダイヤに私鉄未開通分の乗客の受け皿にと一部増発まで行い、神戸市内を東西に結ぶのはJRだけになった時期が4か月もあった。
私は当時、垂水・大阪間を通勤していたこともあり、このJRの早期開通で非常に助かったのだったが、これまで関西では私鉄の地元では私鉄が強く、国鉄=JR西が苦戦を強いられてきた地域でもある。
結果としてJR独り勝ちとなり、阪急・阪神は一気に乗客の減少をきたし、神戸高速復旧後も乗客数が戻ることはなかった。

山陽電鉄ではもともと国鉄→JR西にかなり差をつけられていたから事態は深刻だった。
だが、地道な駅や線路の改良が実を結んできていた。
ホームの延長、曲線の緩和、軌道の重軌道化、最高速度の大手なみへの向上。
震災以前から一部特急では6連運転が開始され、さらに震災前に発注していた6連化用の中間車両も震災後に落成している。

後の報道では直通特急の運転の打診は山陽から阪神にあったとされている。
阪神もまたJRの影響を受けて乗客が激減していたから、この話は渡りに船だったのだろう。
甲子園での阪神山陽の出会い。
阪神8230・山陽5608甲子園.jpg

ただ、阪急は結果としてこの直通に入らず、新開地以東の運転にまとめ、その代わり全列車の8連化をするということになったのだが、私の知る阪急内部の人たちにはこの決定を非常に残念がる傾向がうかがえた。
山陽側でも阪急からの乗り入れ最終列車は静かに見送るだけで特に何のイベントもしなかった。
「阪急さんにまた帰ってきてほしい」という思いだったと、当時の山陽社長はインタビューに答えている。
写真は登場時に阪急から乗り入れた8000系、須磨浦公園にて。
H5阪急8120須磨浦公園.JPG

かつて六甲での事故で阪急は山陽を嫌うようになったと、さも見てきたかのように知ったかぶりをする鉄道ファン諸氏があるが事実は全くそんなことではなかった。
震災後、8月の神戸高速鉄道復旧に伴うダイヤ改正では、例外なく各社とも直通列車を増やしたり、接続を改善する方向だった。
また話を戻すと、六甲事故直後から私は、板宿・阪急六甲間を通勤するようになったが、ダイヤ改正のたびにスピードアップや直通列車の増発、乗り換えの接続改善が行われ、どんどん便利に通勤が楽になっていったのは今、思い返しても良い思い出だ。
自分は鉄道ファンではあるが、時に鉄道ファン諸氏の思考が嫌いになり、その行動を否定的に思うことともしばしばである。

さて話を直通特急に戻す。
車両は阪神では8000系と9000系、山陽では5000系と新車5030系と決まった。
乗務員は高速神戸で交代する。
関東私鉄で行われてきた本来の直通運転が阪神・山陽両社で実現することになった。
下りには「姫路ライナー」上りには「大阪ライナー」という愛称までつき、副票が掲出された。
山陽5030系、同社初のVVVF制御で3列シートだ。
直特山陽5632塩屋.JPG

停車駅は、梅田・西宮・芦屋・御影・三宮・元町・高速神戸・高速長田・板宿・須磨・垂水・山陽明石・東二見・高砂・大塩・飾磨・姫路で、運行頻度は日中毎時2本、最速列車は梅田~姫路間88分で走ったが、これは両社の特急列車の所要時間を素直に足したものだった。
ただ、この当時、JRでは新快速のスピードアップが激しく、大阪・姫路間では何と59分にまで達していた。
これは平成17年(2005年)福知山線尼崎脱線事故への反省から余裕時分を持たせたものとなり、現在では同区間で昼間は61分程度の所要時間だが、私鉄を圧倒する高速運転であることに違いはない。

直通特急を運転しても、姫路・梅田という全区間で所要時間の面から私鉄側を選ぶ乗客は極めて少数だろうが、飾磨や高砂、東二見から、梅田いや、西宮や御影を目指す人にとっては大きな利便性の向上になるわけで、その期待は大きかった。
藤江付近を行く阪神赤胴車。
直特阪神8235.JPG

走り出した直通特急には両社で違いがあった。
阪神は「赤胴車」で急行用ながら、ラッシュ輸送と短距離乗車を考慮してのロングシート車、山陽は乗車距離が長いことから特急列車のクロスシート化を推し進めていたことで全車両がクロスシート車で、自社距離の長い山陽の車両が全体の6割以上の運用に入った。
阪神でもクロスシートは必要と認識されたことで、やがて増発用の9300系や、リニューアル工事をされた8000系は編成中にクロスシート車を備えるようになった。
地上時代の西新町にて山陽5000系5016F。
直特山陽5016.JPG

山陽5000系5510の車内。
1107山陽5014F5510車内.JPG


平成13年(2001)3月、ダイヤ改正が行われ、直通特急は毎時4本となった。
阪神ではクロスシート9300系の登場である。
0824別府阪神9502.JPG

阪神9300系の室内。
阪神9300車内.JPG

ただし、尼崎・魚崎に全列車が停車し、阪神線でのスピードダウンが行われ、さらに増発分の列車は神戸高速線内、西元町・大開にも停車するようになり、起終点間の所要時間は95~110分にもなった。
この停車駅を増やした要因は山陽と阪神の運転ヘッドの違いで、山陽15分毎、阪神10分毎を停車駅の差と運転調整で5分の隙間を生み出し、それぞれ相手の路線に合わせるというものだ。
また朝の上りと夕の下りは滝の茶屋にも停車。
JRのスピードへの対抗としてはかなり後退である。
この改正から「大阪ライナー」「姫路ライナー」の愛称が消えた。
また、三宮から高速長田まで各駅に停車する直通特急は両社で種別表示を黄色に統一し、利用者やファンから「黄直特」とよばれるようになった。
従来の直特は種別表示が赤なので「赤直特」と呼ばれている。


この後、甲子園にも朝ラッシュ上り以外は停車し、月見山を停車駅に追加、西元町・大開停車列車は、西代・東須磨・須磨寺にも停車、ラッシュ時に限り荒井、さらにラッシュ時のみ白浜の宮と停車駅を増やす。

(なお現在では山陽では東須磨・須磨寺を停車駅から外しているが、最近、別府(べふ)に全列車が停車するようになった。
平成21年(2009年)阪神なんば線が開業し、近鉄と阪神が相互乗り入れをするようになり、近鉄と山陽の電車が顔を合わせるようになった。
大石にて。
雨山陽5603・近鉄1027.jpg

団体列車として乗り入れた近鉄特急車両と山陽の出会い。
西灘にて。
0329西灘山陽5606・近鉄22805.JPG

現在では梅田・姫路間は99分~110分の所要となり、登場時から比べればかなりスピードダウンしている。
ただ、本数は多く、朝夕12分ヘッド、日中15分ヘッドを維持し運転時間帯も5時台から23時台と(区間運転含む)もはや、生活列車とでもいえる存在になっている。
また、阪神線内のラッシュのみならず、山陽側でも特に朝の下り方向へのラッシュ輸送に問題があり、各編成の梅田側をロングシート車としたほか、最近では5000系が不足していることからロングシート車6000系の代走運用もよく見られる。
なお、阪神では最近、8000系の中でクラシック阪神とよばれる8502も直特運用に加わっている。
阪神8000系の第一編成だった8502と山陽6000系直特の出会い。
0306大塩山陽6107直特・阪神8502直特.JPG

また5000系のリニューアルにあたっては各編成のうち2両のみがクロスシートとなるようにしている。
山陽5703編成。
1128垂水山陽5703.JPG

不幸なことに阪神車庫内で山陽車両を損傷する事故が発生していて、以降数年間は阪神が山陽の運用一本分を肩代わりすることになっている。
(阪神工場内でリニューアルした山陽車両を阪神の過失で車庫の側壁に衝突させた事故)

100キロ近い距離を2時間弱かけて走る列車である。
もう少し車内設備に気を使っても良いのではないかと思うのは私だけではあるまい。
例えばJRに必ずついているトイレも必要だろう、またJRは全車がクロスシート車だ。
所要時間の短縮には、昼間だけでも良いから停車駅を絞った速達列車の設定をできないだろうか。

あるいは、阪神が導入するとされる座席指定車両を全列車に連結して、時間がかかる分、ゆったりと時を過ごしてもらえる工夫もあっても良いのでは。
一度、姫路から梅田までずっと乗りとおす女性に話を伺うと「JRは速すぎて怖い」とのこと、こういう人もあるのだ。

それにしてもだ、せめて名鉄2200系並みの専用車両が欲しいと願うのだが。
一般車の車内は名鉄2300のコピーでもよいだろうし、特別車(座席指定車)も名鉄2200を参照にできればと思う。
名鉄2300系一般車の車内。
010610内海名鉄2200車内2.JPG

2200系特別車の車内。
0606岐阜名鉄2200系車内.JPG

夜の闇が迫る・・山陽6000系の直特、その後ろ姿。
0417芦屋山陽6107直特後追い夕景.JPG

近鉄と阪神を結ぶ快速急行が表示は大げさな割に20分ヘッド、しかも夜間は大幅に本数を減じるのだけれど、阪神・山陽の直特は終日、頻発運行される。
真に乗客が求めている列車であるのはその運行のやり方を見てもわかる。

最近、阪神は引退が近い8000系をもとの赤胴に戻すと公表した。
1128垂水俯瞰阪神8213赤胴_01.JPG

どうか直通特急に未来あれ。
阪神・山陽両社に輝きあれと念じたい。
0911直特5609.jpg

posted by こう@電車おやじ at 22:19| Comment(2) | 私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年12月29日

東播磨・北播磨における鉄道の衰退に思う。

昭和50年代から国鉄再建法による鉄道路線の廃止が全国で進んだが、ここ播磨でも例外ではなかった。
特に、戦前に播州鉄道→播丹鉄道より開業した区間や、それら路線に関わる区間において、これ以降は、まさに鉄道の衰退といえる状況を呈してしまう結果となった。
写真は在りし日の西脇駅。
西脇駅S53.JPG

播州鉄道は繊維産業の盛んな加古川流域や、播磨灘沿岸の工業地域の加古川と結び、物資や人の流れを支え、地域経済を興していくことを目標に敷かれた鉄道路線だった。

軽く歴史的経緯を箇条書きにしていく。
先ずは開業篇。
写真は加古川総合文化センターで展示された、播丹鉄道の列車。
1109加古川総合文化センター展示播州鉄道高砂線 (2).JPG

1913年(大正2年) 4月1日 播州鉄道、加古川町・国包(のちの厄神)間開業
           8月10日 国包・西脇間開業
           12月1日 高砂線加古川町・高砂口間開業
1914年(大正3年) 9月25日 高砂線、高砂口・高砂浦間開業
1915年(大正4年) 5月14日 加古川町駅を鉄道院線加古川駅と統合
           3月3日 北条線、粟生・北条町間開業
1916年(大正5年) 11月22日 三木線、厄神(国包を改称)・三木間開業
1921年(大正10年) 5月9日 西脇・市原間開業
          9月3日 別府軽便鉄道野口線開業
1923年 (大正12年) 5月6日 市原・鍛冶屋間開業
          3月18日 別府軽便鉄道土山線開業
          12月1日 播州鉄道の経営が播丹鉄道に譲渡される
1924年(大正13年)12月27日 加古川線、野村・谷川間開業
       以後、加古川・谷川間を加古川線、野村・鍛冶屋間を鍛冶屋線とする。
1928年より播丹鉄道全線において順次気動車の運行を開始。
       国有鉄道買収時点では19両もの気動車「レカー」が使われていた。
1936年(昭和11年)12月28日 三木電気鉄道、鈴蘭台・広野ゴルフ場前間開業
       電化工事が間に合わず播丹鉄道の気動車を借り入れて運行したという
1937年(昭和12年)4月15日 三木電気鉄道全線電化
         12月28日 三木電鉄広野ゴルフ場前・三木東口間開業
1938年(昭和13年)1月28日 三木電鉄三木東口・三木福有橋間開業
1943年(昭和18年)6月1日 播丹鉄道の全路線が国有化される
             鉄道省、加古川・高砂・三木・北条・鍛冶屋線となる。
         10月1日、播丹鉄道の路線バス事業が神姫合同バスに譲渡
1947年(昭和22年)1月9日  三木電気鉄道、
              神戸有馬電気鉄道と合併、神有三木電気鉄道に
1949年(昭和24年)4月30日 神有三木電気鉄道、神戸電気鉄道に社名を変更
1951年(昭和26年)12月28日 神戸電気鉄道、三木福有橋・電鉄小野間開業
1952年(昭和27年)4月10日 神戸電気鉄道、電鉄小野・粟生間開業

日本の繊維産業の中でも大きなシェアを誇っていたのが加古川流域であり、戦前はそ
こへの人口集積も大きかった。
中国・四国・九州地方などから連れてこられた学校を卒業したばかりの少女達には、
彼女たちの故郷と等しい、あるいはもっと長閑な景色が車窓から見えるのを警戒し
て、列車の北向き進行方向左側鎧戸あるいは幕をおろして、少しでも人家の多い右
側、川側の景色しか見せなかったという逸話も伝わっている。
青野ヶ原付近。
加古川線キハ23・35青野ヶ原.jpg

戦前にあって播丹鉄道の運行は活発で、加古川町に近いところや高砂線では30分へ
ッドの高頻度運行もされていたという。

だが、栄光は長く続かない。
日本の産業構造が変化すると、繊維業界はその優位性を失い、これら鉄道群は輝きを
失っていく。

繊維から離れた海岸部重化学工業の輸送機関であったのは高砂線と別府鉄道土山線で、いわゆる臨海鉄道の雰囲気を有していた。
しかし、これも国鉄改革による激変に晒されることになる。
高砂線には沿線大工場群とともに、国鉄高砂工場の存在もあった。
高砂線貨物.jpg

ワタシが写真を撮影し始めたころ、加古川線、高砂線、別府鉄道はいわば地元の鉄道であり、中坊の頃からよく自転車で見て回った記憶がある。
別府鉄道のもう一つの顔だった白砂青松の海岸への観光客(就中、海水浴客)輸送は、巨大な神戸製鋼の出現によって過去のものとなっていたが、高砂線や別府鉄道土山線の貨物列車が活発で、これを見るのは楽しいことだった。
別府鉄道土山線の混合列車。
別府鉄DBハフハフ.jpg

高砂線の長編成貨物列車。
高砂線DD13・ワム貨物.jpg

加古川線は乗客が多く、朝夕には長編成が走り、小気味よくまとまり、整備の行き届いた美しいキハが今と変わらぬ頻度で走っていた。
神野・厄神間にて。
加古川線キハ35・30・23など5連神野.jpg

支線の中でも三木線は乗客が多く、3両編成も見られた。
加古川都市圏に相当する厄神以南の列車本数を確保する意味からも加古川から三木への直通は利用者、国鉄双方にメリットがあったのだろう。
街はずれとはいえ、三木駅にはいつもそれなりの人がいた。
国鉄三木駅夏.jpg

鍛冶屋線も沿線に北播磨の中枢都市、西脇市の中心部を抱え、西脇駅はいつも人であふれ、駅前からのバスターミナルもにぎわっていた。
西脇以北は列車の大半が加古川直通というのもあるのだろうか、利用者もそこそこにあり、閑散線区という印象はない。
鍛冶屋で発車を待つ加古川行きの荷物兼用気動車、キハユニ15。
加古川線鍛冶屋線鍛冶屋キハユニ15発車.jpg

北条線は、このグループ線区の中で、一番大人しく感じる路線だった。
淡々と2両編成のキハがのんびり走るというイメージだ。
ここだけは、現在の北条鉄道による賑わいを三セク転換時に誰が予想しただろうか。
北条線キハ20.jpg

だが、国鉄改革とともに悪魔の足音が忍び寄る。
本来、地域インフラであるはずの鉄道に無理に単独収支など求めなくてもよさそうなものだが(収支を求めるなら地域経済全体で見たいといけないだろう)各線区の単独の収支決算がなされ一定の数字をこなせないところは脱落させられていく。

1981年国鉄第一次廃止対象線区として、高砂線、北条線、三木線がやり玉に挙げられる。
三木線と北条線の沿線協議会は第三セクター化を選ぶが、本来、人口稠密地帯を走り、国鉄山陽本線と山陽電鉄線という二つの幹線鉄道を結び、沿線に大量の貨物取り扱いをする重化学工場群が立ち並ぶ高砂線が、あえなく廃止に至ってしまった。
これには「国労」で纏まっていた国鉄高砂工場そのものを消してしまうというその意志が強く出た結果ともいわれている;
だとしたら地元や、経済界には大きな迷惑でしかなかったのではないか‥
そして国鉄貨物輸送の変革により、これまでの顧客を無謀にも断ち切る暴挙に出て、別府鉄道の貨物受け入れを国鉄が拒否、あえなく別府鉄道も廃止されてしまう。


また輸送人員が多く、生き残った鍛冶屋線は第三次廃止対象路線とされ、北播磨の中枢都市西脇市の都心から線路が消えた。
この後しばらくは再開発された西脇駅用地跡のターミナルより、神戸・大阪方面への特急・急行バスの発着などでにぎわったが、町の衰退とともに北播磨中枢のはずのこの町からバス営業所が消え、高速バスもJRバス撤退、神姫バスも神戸便の大半が廃止になるなど、かつての賑わいがなくなってしまっている。
(神姫バス西脇急行線は1969年からの歴史ある路線だが、大半が社営業所発着となり西脇発着はごく一部のみとなった)
国鉄健在の頃の神姫バス西脇営業所。
神姫バス西脇営業所S53.JPG

さらに第三セクター化された鉄道のうち、三木鉄道が「無用の長物」とされ、実際には特に朝夕には大勢の旅客があるのに、無用を叫んだ市長によって廃止を強行されてしまう。
この辺りの事情は名鉄岐阜地域の中速鉄道を全廃させた当時の岐阜市長と似たものがあるように思える。
三木線は人里離れた山間部を走るのではない。
都市と都市を結び、沿線人口も決して少なくなかった。
三木鉄道石野駅とレールバス.jpg

以下に衰退へ向かう現状への歴史を簡単に記す。


1981年日本国有鉄道第一次廃止対象路線確定

1981年(昭和56年)9月19日 
国鉄、高砂線・三木線・北条線を第一次廃止特定地方交通線として廃止承認する
1983年(昭和58年)11月25日 国鉄高砂工場廃止、正式決定
1984年(昭和59年)2月1日 国鉄高砂線、貨物輸送廃止
別府鉄道全線廃止
          7月1日 国鉄高砂工場廃止(この後、昭和62年まで稼働)

1985年(昭和60年)4月1日 北条線→北条鉄道へ 三木線→三木鉄道へ
            第三セクター鉄道始動

1987年(昭和62年)2月3日 鍛冶屋線、第三次特定地方交通線として廃止承認
          4月1日 日本国有鉄道、分割民営化。
             当地では西日本旅客鉄道(JR西日本)へ承継
1990年(平成2年)4月1日  JR鍛冶屋線全線廃止、バス転換
2001年(平成13年)9月1日 神姫バス、恵比寿快速線運行開始、当初一日30往復
2004年(平成16年)12月19日 加古川線全線電化、加古川駅高架化完成
2008年(平成20年)4月1日 三木鉄道全線廃止、バス転換
2017年(平成29年)3月25日 神戸電鉄粟生線、日中の急行列車廃止
2022年(令和4年)4月1日 神姫バス西脇営業所廃止

今現在、神戸電鉄粟生線が廃止の危機にあるという。
輸送人員15000人、輸送密度5000人近い路線がなにゆえに廃止危機になるのか、ワタシにはいまだに理解不能だが、ほぼ同じ利用状況である名鉄尾西線と比すと、列車の速達性、運行頻度、運賃など利用客の利便性がどうしても劣るように見えるのは致し方のないところなのだろうか。
北条鉄道が経営でき、粟生線が危険ということの、この差は何なのだろう。
急行列車の廃止、朝夕の快速列車の廃止、ここ数年、あえて利用者が離れるようなことばかりしてきている神戸電鉄が、本気で沿線のためを思っているとは考えられない。
三木の美嚢川を渡る粟生線電車。
1208三木神鉄1103サイド.JPG

加古川線も西脇市(旧野村駅)・谷川間での経営が厳しく、JR西日本関西統括本部で最下位の営業成績だそうだ。
ワタシの友人はかつて、西脇から大阪への通勤に谷川経由で向かっていた。
当時は今より本数が多く、福知山線列車も殆どが大阪直通の快速で、利便性が高かった。
今一度、西脇など北播の街と、三田、宝塚、大阪を結ぶルートを再構築しても良いのではないか。
加古川線現代谷川駅103系.jpg

北条鉄道。
活発に見えるが、それは加西市、北条鉄道、それに鉄道社員や利用者の積極的な努力によって成り立っていることは忘れてはならない。
鉄路は廃止してしまったらちょっとやそっとでは戻らない。
維持し、活用し、町の役に立てて行かねばならない。
桜北条鉄道2000-1大歳神社.jpg

クルマ社会の播州といわれるが、同じクルマ社会でも愛知県での鉄道の現状を見るに、寂しくもある。
愛知でも蒲郡線などでは厳しい状態が続くが、根底にあるのは社会を自分たちで守ろうという考え方ではないだろうか。

今一度、東播磨・北播磨の愛すべき鉄道を地域の総意で守り活用していく機運が生まれればと思っている。
posted by こう@電車おやじ at 18:02| Comment(4) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする