2023年11月19日

デジタイズアダプターで蘇るパノラマカー

Nikonから、かつてのスライドコピアの代わりに「デジタイズアダプター」なるものが発売されているのを知ったのはもうずいぶん前になる。
確かD850と同時に発売されたものではなかったか・・
で、梅田の中古カメラ屋を久しぶりに覗いたら、ワタシが普段、鉄道写真に使っているDXタイプレンズの、マイクロニッコールDX40ミリの出物があった。
準新品、保証書付きで通常の中古よりはやや高いものの、これは「買い」と判断したわけだ。
すると、このレンズだと「デジタイズアダプター」がそのまま装着できることに気がついた。
そこで、さすがにこの手のものは中古カメラ店にはなかったので近くの大手カメラ量販店に向かう。
冷やかし程度に話だけでも聞いてみようと思ったのだが、応対してくれたSTAFFは非常に知識が豊富で、しばし話をした後「たぶん、在庫ありますよ」と言って、探してくれた。
これはもう買うしかない・・・
そうして持ち帰る直通特急の車内からもう楽しみになってきた。
Nikonデジタイズアダプター.jpg

帰宅して早速、これまで露出が不足気味のポジやネガのうち、好きな列車が写っているものをスキャン・・というか複写してみた。
使える!
この商品の売価はたかだか15000円少々で、なぜいままで、その存在があるのを知りながらも手を出さなかったか後悔もする。
これならこれまでのスキャナーでは表現できなかった写真が蘇りそうだ。

せっかくなのでコダクロームで露出不足という、これはさすがに当時としては無謀だった撮影のコマから・・
名鉄をアップしてみる。

河和線阿久比と椋岡の間あたりだろうか。
椋岡という駅は廃止されて久しい。
ここで撮影したコダクロームの露出がかなりだめで、撮影時刻も夕方に近かったのだろうが、トライエックスなら十分に撮影出来たシーンだ。

パノラマカー7000系白帯車が行く。
名鉄椋岡7000白帯サイド.JPG

その後追いだろうか。
名鉄椋岡7000系白帯01.JPG

こちらは7000系の一般車、7037と読めるがはてさて・・
名鉄椋岡7037サイド.JPG

パノラマデラックス8800系のサイド。
名鉄椋岡8803サイド.JPG

パノラマデラックスが去っていく。
名鉄椋岡8800系.JPG

OR系と呼ばれた3900系が4連で行く。
名鉄椋岡3900系4連.JPG

こちらは富士松駅近くだと思う。
肝心のお顔に継電箱がかかっているが、7500系と7300系が出会う。
名鉄富士松7500・7300.JPG


7500系のサイド、美しい電車だ。
名鉄富士松7500サイド.JPG

同じ編成の反対側だろう。
名鉄富士松7500サイド2.JPG

5700系、6連貫通編成。
名鉄富士松5700系6連.JPG

以前にも出しているが再スキャンしてみたパノラマカー7000系のシルエット。
名鉄富士松7000シルエット.JPG

犬山橋。
7300系、露出アンダーの典型的な写真だが、荒れはするもののなんとか見られるようになった。
名鉄犬山橋7300系.JPG

犬山の看板を付けた新鵜沼行き白帯車特急。
名鉄犬山橋7000系特急犬山.JPG

新鵜沼駅に引き込まれて行く・・
名鉄新鵜沼7000系特急犬山.JPG

こちらは7500系。
名鉄新鵜沼7500系.JPG

岡崎の看板を付けた、通常の7000系による特急。
名鉄新鵜沼7000特急岡崎.JPG

8800系がヘッドライトを強くしてやってくる。
名鉄犬山橋8800系.JPG

石刀駅近く。
7500系7515が来た。
看板が大きくて目立つ編成だ。
名鉄石刀7515編成.JPG

7515のサイド。
名鉄石刀7515サイド.JPG

こちらは登場したばかり5700系トップナンバーだ。
名鉄石刀5701.JPG

犬山駅の夜景。
7500系の河和特急。
名鉄犬山駅夜景7500特急河和.JPG

5700系。
名鉄犬山5607夜景.JPG

6800系だろうか。
名鉄犬山6800夜景.JPG

7300系と5700系が並んだ。
OR7300系は常滑行き急行だ。
名鉄犬山5700・7300急行常滑夜景.JPG

こちらは原版がネガだ。
神宮前駅の夜。
白帯車の犬山行き普通。
名鉄神宮前夜景7000白帯普通犬山.JPG

それの後追い・・白帯車は朝・夜にはこういった運用も見られた。
名鉄神宮前夜景名鉄7000白帯普通犬山後追い.JPG

弥富行き準急は7000系。
名鉄神宮前夜景7000準急弥富.JPG

本来の特急運用、白帯車の河和特急。
名鉄神宮前70000白帯特急河和・6000.JPG

ポジ原版に戻って支線を・・
八百津線の風景を行くキハ10形。
名鉄八百津線キハ10寺院前.JPG

三河線末端区間のキハ10形2連。
名鉄猿投キハ10形2連.JPG

西中金付近を行く、HL3750形。
名鉄西中金3750.JPG

この小さく安価なアクセサリーは、本当に保有するフィルムを再現するだけでなく、補正、修整を加えれば当時はプリントを諦めていたカットにでも応用できることが分かった。
パノラマ先輩後輩の連結部分をデジタイズアダプターで再現。
名鉄乙川1000+7000.JPG

最後に、何処の駅か分からない・・・小駅を通過する7500系を。
魂当時としてはほとんど不可能だった夜の列車走行シーン、それでもシャッターを押した自分自身。
それだけ、パノラマカーが好きだったのだろう。
スキャンではなく、好っきゃん、名鉄パノラマカーだ。
名鉄夜景駅不明7500.JPG


posted by こう@電車おやじ at 09:45| Comment(0) | 名鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年09月20日

DMH17 系エンジン搭載車の優しさ

優しいといってもこれは単に乗客としての想いであり、現場の保守の苦労の事ではない。
加古川線厄神キハ20・35・30.JPG

国鉄気動車は長年、DMH17系という8気筒のディーゼルエンジンを搭載、これは一般型から通勤型、急行型、特急型にも及び、決して燃費や高速性能、登坂力に優れたエンジンではないが、安定した性能で扱いやすく、それゆえか私鉄にもこのエンジンを搭載した車両が供給されてもいた。
DMH17系エンジンの技術的なことは僕では分かりかねるが、国鉄気動車が作ってくれたあの優しい雰囲気をふっと思い出すことがある。
今現在の気動車は高出力・高燃費がうたい文句で、気動車の性能ももはや電車を超えるレベルにまで高まってきている。
だが、豪快な加速や淡々と苦も無く坂を登る様子は国鉄DMH17系時代には見られなかった。
「からからから」と優しいアイドリング音、勾配線区ではまさに息を切らせて必死に坂を登ろうとするエンジンの精いっぱいの唸り、都市部の幹線では高性能の電車から逃げる必死の高速運転をしても快速電車などに道を譲る。
キハ58急行須磨1.JPG

不思議と初期のキハ10系・20系あたりは別として、キハ20の後期型、キハ26、キハ28、キハ35と進化することで乗り心地は同じ鋼製ばね台車を履いた電車より柔らかで、急行型には長時間の乗車も当時としてはそれなりに快適だった。
特急型にも同じエンジンを載せ続けたのはやり過ぎとも思えたが、安定こそ特急用の最大の要件とすれば納得するものがある。
S54餘部キハ82まつかぜ.JPG

DMH17系エンジンは戦前のガソリンエンジンGMH17からの進化だ。
つまり、国鉄が気動車の大量生産を行い、このエンジンも大量に使用された時には既に旧式になっていたともいわれる。
その旧式エンジンも改良を重ね、キハ35・28・80以降は横型とされ、室内から点検蓋が消え、車内の静音が大いに進んだ。

DMH17系エンジンを最初に本格採用したのはキハ42500で、これは後のキハ07にあたる。
国鉄のキハ07の走行シーンを見ることはなかったが、私鉄用に製造された若干スマートな鹿児島交通キハ100形を。
鹿児島交通キハ102 (2).jpg

こちらは片上鉄道のキハ700形で、国鉄キハ42000→07出自だ。
一両が今も吉ヶ原で動態保存されている。
片上西片上キハ702.JPG

国鉄としては大々的にこのエンジンを改良して大量増備に踏み切ったのがキハ10・17系だろう。
それにはもちろん、液体変速機の成功という面がある。
篠栗線快速のキハ10。
篠栗線キハ1083.jpg

こちらは姫路駅でのキハ17。
キハ17312姫路.jpg

片町線祝園付近を行くキハ10と20の2連。(画像はカラー化している)
祝園キハ10・20カラー化.jpg

加悦鉄道に転じたキハ10。
加悦鉄キハ1013.jpg

気動車をローカル線だけのものと捉え、あからさまにコストダウンを図ったキハ10系は、速度の面ではともかく、粗悪な台車DT19による乗り心地や、幅の狭い車体、ピッチの小さく背もたれの低い座席など居住性での評判は芳しくない。
そこで準急用として居住性を大幅に改善したキハ26・55系が登場。
夏予讃線多度津キハ26.jpg

この形式は扱いやすく、私鉄向けにも登場した。
島原鉄道。
島原キハ5501大三東.JPG

南海電鉄の国鉄乗り入れ用。
南海キハ5500.jpg

昭和30年代初め、蒸機列車に比して大幅な速達化を図った列車は大好評となり気動車による優等列車を望む声が大きくなっていった。
また一般気動車でも客車並みの居住性を求める声が大きくなっていった。

そこでキハ26とほぼ同じアコモを持ち、ラッシュ輸送もある程度加味したキハ20系が出る。
だがまだ台車はキハ10系と同じ粗末なDT19だった。
高砂工場内で。
新高砂工場キハ2087ほか.JPG

キハ20は増備の途中で台車が変更され、車体内外の見付も変わった。
この時代のキハ20一党が国鉄気動車の最高傑作であろうと僕は思う。
国鉄設計の良心が集まってできた名車ではないか。
予讃線のキハ20系の5連。
キハ20多度津.jpg

そして満を持してキハ28・58一党の登場だ。
キハ26を一歩進め、当時の電車や客車と遜色を感じさせない広幅車体、急行型としての幅広の座席、そして新開発の横型エンジン。
こと、急行に関しては電車急行とさほど変わらぬ居住性を発揮した。
余部橋梁にて。
キハ58後期余部橋梁.jpg

グリーン車の外観も洗練された。
松江にて。
松江キロ28急行.jpg

北海道形キハ27・56による長距離急行「宗谷」、稚内・函館を結ぶ列車だった。
キハ27・56急行宗谷.jpg

長崎本線、急行の間合い運用の列車が通勤列車として走る。
長与線キハ28.jpg

気動車は通勤線区にも進出した。
外吊りドア、ロングシート、気動車版103系というところだろうか。
京都駅のキハ35。
キハ35京都駅俯瞰.JPG

キハ35のエンジン交換風景。
高砂キハ35DMH17.jpg

新幹線が現実味を帯び、電化線区には電車特急が走る。
気動車による特急も期待された。
最初は昭和35年のキハ81から。
写真は最後に使われた「くろしお」のもの。
キハ81くろしお天王寺.jpg

東北線特急として登場した系列だったが、気動車特急としてはやはり発展途上にあり、昭和36年の大増備で流麗な貫通型スタイルのキハ82が登場。
非電化線区のイメージを大きく変えた。
「くろしお」海南駅で。
キハ82くろしお海南.jpg

「おおぞら」白石で。
キハ82おおぞら白石.jpg

「まつかぜ」
城崎で。
キハ80系まつかぜ城崎カーブ俯瞰アップ.jpg

キロ80、全般検査仕上がり。
高砂キロ80全検上がり.jpg

だが、特急用にエンジンを2基搭載しても最高速度は急行用をわずかに5キロ上回った100km/h、当時とてエンジンとしては古い部類に入るDMH17の限界も感じさせてはいた。
乗り心地は非常によく、柔らかく静か、「まつかぜ」「北海」「北斗」・・どれも目を瞑ればあの乗り心地を思い出すことができる。
後継のキハ181も乗り心地は良かったがやはり大馬力エンジンゆえの豪快さが時には「キツく」感じることもあった。
しかし、キハ80系で山陽本線を長躯駆けた「かもめ」が485系に道を譲らなかったのは、気動車特急の意地も感じさせてはくれていた。
キハ82かもめ倉敷.jpg

国鉄気動車特急の成功は私鉄にもインパクトを与えた。
キハ80とキハ58の合いの子的存在、名鉄キハ8000の登場だ。
システム的には国鉄型そのもので、富山、立山まで名鉄・国鉄・富山地鉄を繋いだ列車だ。
名鉄キハ8100急行北アルプス.jpg

当初準急で登場し、のちに、急行、特急へと格上げされた出世列車でもある。
写真は富山駅停車中の様子。
名鉄キハ8000とやま.JPG

キハ28系と80系が並ぶ。
記憶があいまいだが、紀伊勝浦駅とのこと。
南紀・志摩キハ82・28多気.jpg

隆盛を極めるDMH17搭載の気動車だが、このエンジンが非力なのは、とうの国鉄自体がよく知っていて、昭和30年代から次世代エンジン搭載車の開発が始まっていた。
やがてそれは、キハ91で一編成ぶんの陽の目を見、急行列車の冷房電源・勾配対策としてキハ65が登場。
そして新特急車キハ181へとの流れとなる。
一般用途でもキハ66で大出力エンジンを、キハ40・47で通常線区用の新エンジンを搭載、ここにDMH17の時代が終わった。

過去のノスタルジーに浸るとき、淡い排煙の香りとともに、柔らかい乗り心地、そして力行の時でもどこかマイペースなサウンド、惰行の時の優しいアイドル音が思い返されてならない。
キハ20後期型・35・28、金属ばねの台車だが乗り心地は良かった。
もはや現実にDMH17を搭載している車両はJRにはなく、私鉄が僅かに保有しているものだけである。
小湊鉄道、キハ20をロングシートにした設計と言われるがここのキハ200も、そろそろ先が見えてきているようだ。
小湊キハ200.jpg

水島臨海鉄道、ここは明らかに動態保存としてキハ30と20を保有している。
キハ20は車籍がなく本線走行はできないが、時にイベントで車庫内を走行し、その健在ぶりを見せてくれる。
0423水臨イベントキハ205・キハ35100並び.JPG

ほかに、ひたちなか海浜鉄道、平成筑豊鉄道、いすみ鉄道も動態保存として、あるいは観光列車として保有している。
ノスタルジーを感じさせてくれる気動車、その中心こそDMH17なのだろう。

植苗でのキハ27・56。
S62植苗キハ27普通.jpg

桂川、キハ22。
S62函館本線桂川キハ22カラー.jpg

姫路、キハ35。
姫路キハ35138.jpg

そして意外に長生きをしたJR東海に引き継がれたキハ80系「ひだ」
特急色キハ80ひだ.jpg

好きなキハ20の写真をいくつか。
北条線。
北条線キハ20.jpg

ひたちなか海浜鉄道。
湊線キハ205.jpg

水島臨海鉄道。
水島キハ20.jpg

そして二俣線。
二俣線キハ20.jpg

もう一度、あのゆったりした座席で壁側の枕に頭を乗せて、カラカラカラという惰行サウンドを、さして速度も出さぬレールジョイントの音とともに浸っていたい。
季節は冬、時刻は夕から夜にかけて・・二俣線で。
二俣線キハ20車内.JPG

新十津川のキハ46。
新十津川キハ46 (2).jpg

鍛冶屋線キハ20。
加古川線鍛冶屋線鍛冶屋キハ20.jpg

DMH17系エンジン車はなんでも連結できる・・
鳥栖にて・・
鳥栖キハ58ほか気動車6連.JPG

最後は新系列気動車も含めた雑多な通勤列車を。
長崎本線。
長崎線東園キハ26・30・28・35・40カラー.jpg
posted by こう@電車おやじ at 22:47| Comment(2) | 国鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年08月10日

神戸高速鉄道

神戸市には東西を貫く二つの地下鉄がある。
一つは神戸市高速鉄道=神戸市営地下鉄。
もう一つはこれより歴史の古い、神戸高速鉄道だ。
阪急5053阪神7801並び高速神戸.JPG

正式名称では「市」の文字が入っているかいないかだけの差でややこしいが、通常は「神戸市高速鉄道」は「神戸市営地下鉄」と呼ばれ、案内にもそうなるのでここではそちらを「市営地下鉄」、本題の主人公を「神戸高速鉄道」と呼ぶことにする。

かつて神戸市には、国鉄東海道・山陽本線のほかに、4つの鉄道会社が乗り入れていて、それぞれ別個のターミナルを有していた。
歴史の古い順に、阪神電鉄が三宮・元町、山陽電鉄が兵庫、京阪神急行電鉄(今の阪急電鉄、以下、阪急)は阪急神戸=阪急三宮、神戸電鉄は湊川だ。

これら私鉄各社のターミナル間は東洋一と謳われた神戸市電が結んでいたが、戦前戦後の都心と言われる湊川への延長は、阪神、山陽の悲願でもあり延長線の免許を有していたし、神戸電鉄は湊川からさらに南へ神戸駅までの路線免許も保有していた。
戦後、神戸市が主導してこれらをまとめ、市内の私鉄路線を結ぶ地下鉄として、神戸高速鉄道が設立されたのが昭和33年だ。

昭和43年4月7日、神戸高速鉄道東西線、南北線が開業。
各社の電車は高速神戸、新開地に集結した。

その頃の僕はまだ小学生で、ある日、梅田から兵庫へ行くのに、いつもなら元町で阪神電車を降りて国電に乗り換えるのに、父が「このまま乗っていく」という。
高速神戸に着いた時、隣のホームに高運転台、青とクリームの山陽3000系を見た時、なんと格好の良い電車があるものだろうと感嘆したのを覚えている。

さて、僕がこの路線とその周辺で写真を撮影するようになったのは昭和50年頃からだから開業後すでに7年も経過していた。
それ以降の思い出ではあるが、路線の大半が地下線ゆえ、当時のカメラやフィルムでは撮影そのものが難しく、結果として路線外側の各社において乗り入れ列車を撮影することが中心になっている点はご承知くださればと思う。

神戸高速開業から長らく、相互乗り入れの免許は山陽須磨浦公園、阪神御影、阪急御影間となっていた。
実際の旅客営業上の乗り入れは須磨浦公園、阪神大石、阪急御影間だった。
各社、特急列車を中心に神戸高速を介して相手方に乗り入れが行われていた。
この開業に際して当時日本で最先端のATSである電波を使った「連続制御式」が採用されている。
これはJRのATS-P並みの高機能をこの当時に実現した画期的なものだ。

神戸高速には基本は山陽は全営業車両が乗り入れてくる。
高速線内で新車を見ることもあった。
黒Hゴムで知られた3060Fだ。
山陽3060旧色高速神戸.JPG

こちらは3030F、この頃のネガカラーフィルムは褪色が激しく、画像処理を施してみられるようになった。
山陽3030旧色高速神戸.JPG

ところが、撮影から30年ほどたったころ、なんとこの編成が復刻塗装車となり高速神戸駅に停車。
30年の時間距離が一気に縮まった。
1225高速神戸山陽3030.JPG

こういう企画は大賛成だし、鉄道ファンならずとも沿線住民からも好感を持って受け入れられるはずだが、昨今の「撮り鉄」による鉄道営業などへの妨害は甚だしく、乗務員の中には鉄道ファンを危険視する人まで出てきてしまう。
こうなると、鉄道ファンを集めるこういったイベント列車はNG扱いとなってしまうのが昨今の哀しいところだ。

では南北線新開地駅。
神戸電鉄の初期高性能車、今でも懐かしむ人が多い300形電車が停車する。
「準急・岡場行」
300形は310形を間に組み込んで4連化され、3000系などと同じような運用だったから、当時、3連しか入れなかった岡場以北、志染以西へは行かなかった。
神鉄新開地304.JPG

その新開地駅でこういう光景が時に出現する。
神戸電鉄1350形1357F・・復刻ツートンだ。
神鉄はこういうイベント列車に熱心で、この辺り山陽とはちょっと社風が異なるようだ。
集まるファンも穏やかな人が多いのかもしれない。
そう言えば、神鉄沿線で鉄道ファン同士の不愉快な事案に遭遇したことはない。
1204新開地神鉄1360.JPG

阪神の電車は、西灘から半地下の岩屋に達してそこから地下に入る。
西灘駅を通過しようとする赤胴2000系(7001系7801系の形態が同じ車両を再編成した系列)の須磨浦公園特急。
西灘阪神2210.JPG

阪神三宮でここから先へは行かない快速急行。
神戸高速には入れない端っこのホームで7801系。
阪神赤胴7844三宮.jpg

高速神戸にて、阪神3801系、大出力・エアサス装備の優秀車だったはずだが、一部編成で製造の際のミスがあったらしく、乗り入れ先の山陽電鉄で事故を起こした。
使用停止となり、この写真の当該編成以外も編成組み換え、内装のリニューアルを行い番号も変更された。
阪神赤胴3902高速神戸.jpg

阪急に乗り入れた山陽の車両は御影駅西方で折り返す。
山陽3010旧色御影.jpg

阪急線内を普通扱いと言えど駅間の長さゆえに高速運転する山陽電車はなかなか楽しかった。
阪急六甲山陽3056姫路特急_01.JPG

六甲駅に初めて6両編成が乗り入れた。
阪急六甲駅俯瞰山陽5022他6連.jpg

阪急三宮駅で‥
山陽の初代アルミカーが引退を前に登場時のイメージに復刻され、停車する。
1121阪急三宮下り山陽3000.JPG

国鉄三ノ宮駅から・・山陽3615(3030F)が折り返す準備をしている。
この編成は後に復刻塗装となったが、元々の塗装の頃だ。
山陽3615旧三宮.JPG

神戸高速鉄道は阪神淡路大震災で大開駅が押しつぶされ、阪急と結ぶ高架橋が崩落した。
それゆえ、震災後から長らく阪急・山陽方面と繋がれず、地下に残った車両で、阪神三宮と新開地の間だけを運行していた時期があった。
僕も当時は神戸市垂水区から大阪市中央区へ通勤していて、真横ではJRがやはり不通になっていて、高速神戸・阪神三宮間をよく利用した。
高速神戸駅も阪神三宮駅も地下は地震などがあったのかという、ほとんど地震前と変わらず不思議な静けさを保っていたが、そこにやってきた山陽5000系の赤いクロスシートに強烈な復興への意思を感じたものだ。

その山陽5000系、大開駅崩壊の際に、この駅を通過するところだったそうで、辛うじて通過して大破は免れたものの、脱線しパンタグラフは吹っ飛んでいたそうだ。
当該は六甲駅の写真にも写る5022で、なんの因果か、僕の手元にはこの編成が「直通特急」運転開始をアピールする看板を付けて走る「阪急六甲行特急」の、それも今はここに駅がある西二見での写真がある。
山陽5022現西二見付近レタッチ済み.jpg

なお、大開駅崩壊・阪急との接続高架線崩落・阪神本線での連続高架崩壊でここに閉じ込められたのは山陽が5022・5018の6連2本、3070の4連1本、阪神が5131・5139の4連2本、阪急が8001Fの8連一本で、これらで阪神三宮・花隈~新開地間を運行していた。
地下の2駅間だけを走り、お客もほとんどいない阪急8000系が当時はまだ珍しかったVVVFの制御音を響かせて高速神戸を出る姿には切ないものがあった。

西代駅は神戸高速開業時に移設・拡大され、6連対応の橋上駅となった。
旧駅のあった場所から当時の西代駅を見る。
ちょうど山陽3000系特急がゆっくりカーブを曲がる。
長田須磨西代山陽3637.JPG

橋上駅から阪急7020Fを。
画面左の立派な木造建築は山陽電鉄の旧本社だ。
西代阪急7020俯瞰.JPG

こちらはカラーで阪急5006F。
一時、阪急5000系は須磨浦特急専門のような運用をされていてなじみのある系列だ。
山陽西代阪急5006.JPG

阪神の旧特急車、3011系を改造した3061系が入線する。
左側は蓮池の体育館。
山陽西代阪神3568須磨浦特急.jpg

停車する7601系7708。
サイリスタチョッパ制御車に改造された急行系赤胴。
山陽西代阪神7708.jpg

道路高架下を潜る阪神7001系7117F。
山陽西代阪神7117.jpg

西代から板宿の間の地上線。
この区間は地下化されているが山陽電鉄の路線だ。
阪神7801系の初期タイプ、7829。
山陽西代阪神7829.JPG

こちらはすっきりと美しい阪神7101系7105。
山陽西代阪神7105.JPG

板宿・・仮設駅舎になる前の下りホームで阪急5100系5132が停車。
山陽板宿下りホーム阪急5132.JPG

商店街を背景に阪神3501系3515が行く。
この踏切はいつも混雑していたが、朝などは一時間に片道30回以上の電車が通過し開かずの踏切だった。
急ぐ学生が遮断機をくぐるのは日常の事だった。
山陽板宿商店街阪神3515.JPG

板宿を行く阪急6000系6111。
板宿阪急6111.jpg

大手付近、真夏の踏切を行く、阪急7000系7020F。
東須磨阪急7020.JPG

須磨寺の急カーブを行く阪神3501形3503。
阪神3503須磨寺.jpg

電鉄須磨駅の副本線に停車するのは当時の優秀車3801系3904。
この車両は3801系の系列廃止後、武庫川線7890形に改造され、現役引退後の今も武庫川団地で保存展示されている。
阪神3904須磨.jpg

山陽2700系は国鉄63形の更新車であり、大馬力ツリカケモーターの音を地下線内部に反射させていたのが印象的だ。
電鉄須磨駅に入線する新開地行2708。
山陽2708須磨.jpg

電鉄須磨に入線する阪急梅田行き特急。
5100系5130F。
阪急5130須磨.jpg

ブレーブスの看板を付けた阪急5000系5010F。
須磨阪急5010ブレーブス看板.JPG

須磨浦公園での阪神8801系8901、かつての3903だ。
山陽須磨浦阪神8901.JPG

阪急5008が桜満開の須磨浦公園を発車する。
桜須磨浦阪急5008.jpg

阪神7601系7709、二連の窓が美しい。
阪神7709須磨浦公園 (2).jpg

こちらは7801系7826。
阪神7826須磨浦俯瞰.jpg

春の須磨浦公園で阪急と阪神が並んだ。
春須磨浦阪急7020・阪神8219?.jpg

春のぼんやり感、ソフトフォーカスで。
阪急・阪神の並び。
春須磨浦阪神8229・阪急7223.jpg

阪急6000系が緑の公園内を行く。
6015F。
阪急6015須磨浦.jpg

阪急の最新8000系も須磨浦公園まで乗り入れた。
H5阪急8120須磨浦公園.JPG

新開地駅、神鉄の復刻塗装「メモリアルトレイン」と3000系が並ぶ。
0820新開地神鉄3010・1360.JPG

菊水山駅近く、新開地行を表示して神鉄3000系トップナンバー編成が行く。
神鉄菊水山3002新開地行.JPG

こちらは急行新開地行、1300系1306。
1300系は全車が引退してしまっている。
神戸電鉄1306菊水山.jpg

神戸電鉄はかつては神戸市が最大の株主で阪急・阪神の持ち株比率が公平であり、山陽・神鉄も応分の株を保有していた。
それゆえ、よく言えば公平、悪く言えば会社の壁が厚く、都市部地下線の直通運転としては本邦でごく初期であったにもかかわらず、長らく各社間の完全直通運転とはいかなかった。
それが変わってきたのが阪神淡路大震災後の復興期で、JR神戸線があの大被害から先に復旧し、そのスピードで大量の乗客が私鉄から流れ込んだ。
危機感を持った各社ではあったが神戸高速復旧後のダイヤ改正では僅かに利便性を向上させただけにとどまった。

大きな変化はすぐに表れた。
もっとも強い危機感を持った山陽電鉄は、車体寸法、編成長などが共通する阪神に対して直通特急による両社間の相互乗り入れを提案、元々、山陽沿線から阪神方向への流動が多いこともあり、平成10年2月、阪神・山陽の直特急が運転を開始した。
当初は「大阪ライナー」「姫路ライナー」の表示も誇らしげだった。
阪神9206旧垂水.JPG

この直通特急は平成13年には大増発され、西元町・大開にも停車する「黄直特」も登場し、早朝から深夜まで毎時4~5回と頻発運行している。
阪神9501・山陽5010.jpg

しかし、阪急と山陽との直通運転は終了し、阪急はその分、神戸高速線発着の神戸線列車をすべて8連として編成増強、さらには自社内の線路改良でのスピードアップも果たしている。
三宮の神戸高速高架橋を行く阪急8000系8035。
0109三宮阪急8035.JPG

神戸高速を取り囲む情勢も近年には大きく変化し、阪急・阪神HDが誕生しかつてのライバルが同じ企業グループに所属することになった。
そして神戸市が株の一部を阪急・阪神に譲渡したことで、神戸高速鉄道は神戸市主体の第三セクターから、阪急・阪神HD内の子会社ということになった。
路線も阪神電鉄神戸高速線と、阪急神戸高速線となり、実務社員は阪神電鉄に移りいまや会社は線路保有だけだ。
評判の良くない初乗り運賃の各社分がかかる制度は、今も継続されているが、実はこの鉄道、運賃に関しては日本でも極めて安い方で、三宮・西代・湊川間だけの利用ならむしろその安さを享受できるという状況にある。

今後は可能であるならば阪急と山陽の何らかの直通の復活、阪神と山陽の間の普通列車を含めた完全相互乗り入れ、神戸電鉄をせめて、高速神戸に乗り入れできないかという方法の検討などするべきことはたくさんあると思う。

僕は今後もこの鉄道は使うし、僕の生活には深くかかわってくる鉄道であると認識している。
直通特急はそれなりの成功を収めてはいるが、JRや市営地下鉄への乗客の転移、都市内高速バスの台頭など厳しい要件もあり、乗客数は減り続けている。
神戸で始まった本邦ごく初期の相互乗り入れを未来に生かす、その方向へもう少し考えて欲しいものだと思う。
199山陽5600須磨浦公園阪神2000系.JPG
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2023年07月01日

国鉄高砂工場の歴史



ここに小さなパンフレットがある。
僕が国鉄高砂工場在籍の頃、工場を見学した人たちに配られたもので、工場の現状と沿革などが簡潔にまとめられている。
表紙と裏表紙。
当時のスター車両であるキハ82が木工大建屋を背景に出場準備をしているところだ。
車両前面貫通扉が開いたままなのはご愛嬌か。
高砂工場パンフ表紙と路線.jpg

沿革と組織。
かなり大きな組織だったことがわかる。
高砂工場パンフ組織と沿革.jpg

職員数と車両修繕。
高砂工場と言えば客車、気動車の工場として知られていたが、客車に比して気動車の管轄は半分ほどだ。
また、僅かに貨車も担当しているが、両数としては当然ながら当時、タクト方式という流れ作業を行い、日に12両もの入出場をしていた鷹取の足元には及ばない。
高砂工場パンフ職員と車両.jpg

平面図。
国鉄工場きっての広大な土地を有し、試運転線は1キロもあった。
気動車の試運転でも時速50キロ程度は出せたのだ。
高砂工場パンフ構内平面図.jpg

高砂工場は戦後混乱期に高砂工機部として誕生し、車両の急速な復旧、時代の進展とともに進む車両の改善に大きな役割を果たしたが、電化区間の延伸、客車列車の削減でその存在意義が問われた。
おりしも入出場経路である国鉄高砂線が国鉄再建法に基づく第一次廃止対象線区に指定されてしまい、その路線が撤去されると工場そのものが存続できない事態となり、昭和59年に廃止、完全撤収は昭和62年だった。

パンフにも略歴は紹介されているが、これでは高砂工場の存在を語る上では物足りない。
高砂工場は昭和41年に創立20周年を迎え、「高砂工場史」を編纂しているが、この書物は当時在籍の職員や関係者に配られただけで、一般には流通しておらず、鉄道博物館の図書室にもその存在がない。
僕はこの書物を一度、先輩からお借りして読んだことはあるが、コピーも取らず返却しており、その方もすでに故人となられもはや手に入れる術がない。
ただ、JR西日本になってから編纂された「近畿地方の日本国有鉄道」に詳しくはないもののこの20年史から記述されたとみられる箇所がいくつもあり、また国鉄工場の部内誌「鉄道工場」が今も資料として保存されていて、その中からピックアップできるポイントもある。

高砂工場は兵庫県高砂市の海岸沿いに広大な敷地を有していたが、それでも創設当時の敷地は廃止時の4倍ほどもあったと言われている。
ここで国土地理院が閲覧・使用を許可してくださる航空写真を見ておきたい。
高砂工場空撮昭和22年米軍web敷地線路記入.jpg

昭和22年、米軍が撮影したとされる航空写真で画面の左下に高砂工機部の様子がはっきりと見える。
黄線で囲んだところが高砂工場用地と察せられる部分。
赤線が高砂線から分岐する専用線だ。
もともと、戦時に陸軍兵廠播磨製造所として航空機や武器を製造するために作られた設備であり、荷役のできる岸壁を有し、航空機の離発着ができる広さ、それに航空機の格納庫、航空機をラインで製造できる大建屋を有していた。

国鉄工機部として発足する際、多くの技術者を中途採用したという。
当時の国鉄は粛清の嵐が吹き荒れていたが、高砂工機部のスタートに至ってはそんなことは言ってられなかったのだろう。
僕の在籍時でも発足時、あるいは鋼体化工事の際に中途採用された先輩方が「ボーシン」や「サクシ→工作指導掛」として活躍されていた。

この当時、朝鮮戦争で疲弊した旧朝鮮総督府鉄道の車両を日本で修繕せよという指令がGHQから出された。
機関車は汽車会社など使えるメーカーがあったが、客車については岸壁を有する高砂工場に白羽の矢が立った。
当時の担当者たちは大型の大陸鉄道を検査修繕できるよう、標準軌の試運転線を含めた設備として大量の客車を受け入れるべく準備をしたそうだ。
しかし、朝鮮半島南部の戦争がかなり落ち着きを見せたことで、現地で修繕が可能となり、高砂に搬入されたのは優等客車数両であったと言われている。

同じころ、日本国内では激増する輸送需要に酷使される古い車両が大問題となっていた。
老朽化し脆くなった木造車は、ちょっとした事故でも大被害を出してしまう。
そこで国鉄では木造客車の鋼体化を早急に実施することになり、ここで高砂工機部は大活躍をすることになる。
この時に登場したオハ60・61系客車の中には今でも保存車両としてその姿を見ることができるものもある。
天理駅前に保存されている車両。
1120天理オハ61930.JPG

なお、動画が残っている。
https://youtu.be/K481r0Kh6gw

高砂工機部はその発足当時から気動車の修繕を行ってきたが、戦後すぐの気動車とはどういうものだったのだろうか。
戦前に広く使われたキハ41000や42000形のガソリン、あるいは木炭化された車両も相当数あっただろう、それらをディーゼル化した工事ではなかったか。
写真は大宮鉄道博物館にて。
0726鉄博キハ41307.JPG

鉄道省買収前の高砂線をはじめ、加古川線、三木線、北条線、鍛冶屋線は戦前開業の私鉄「播丹鉄道」で、気動車両数は日本一を誇った。
社員は国鉄に引き継がれたはずで、この鉄道の関係者も高砂創立の頃に活躍されたのだろうか。
僕の友人でお爺様が阪和電鉄で車両検修をされていた方があり、その方は戦時合併により国鉄マンとなり、三代続く国鉄一家だった人があり、今もJR西日本の第一線で活躍されている。。
播丹鉄道の技術者も国鉄で活躍されたに違いない。
(余談だが播但鉄道の気動車は神戸電鉄粟生線の開業時にあの急こう配で使われたという記録もある)

昭和27年には工機部から本社直属の「日本国有鉄道高砂工場」に組織が変更になっている
なお組織はこののち、関西支社高砂工場、大阪鉄道管理局高砂工場へと変わっていく。

昭和30年代から国鉄車両は大きく変貌する。
軽量、高性能な気動車や、デラックスでデザインの良い客車の登場だ。
高砂工機部はその時代時代、最先端の車両を担当していく。
受け持ちには名門、宮原客車区や向日町運転所もあり、東京・大阪間特急の復活、それの発展、気動車準急、急行、そして気動車特急の登場。
新高砂工場キハ82出車建屋.JPG

ただ、固定編成客車20系の受け持ちは、関西発着の夜行列車が特急化される昭和40年代初めまで待たねばならない。
ナハネ2225高砂.jpg

この頃昭和38年の航空写真だ。
国土地理院撮影。
高砂工場空撮昭和38年web敷地線路記入.jpg

黄色枠内が高砂工場で、昭和22年の写真と比すと用地がかなりコンパクトになっているのが分かる。
国鉄工場の西(左)は神戸製鋼所高砂工場、東(右)は当時工事中だった三菱重工高砂工場だ。


客車・気動車の名門。
だが、昭和40年代にも幹線の電化が進む。
通勤気動車を大量に走らせていた関西本線、当時は第一級の観光地だった紀勢本線が電化、そして陰陽連絡の重要線区である伯備線も電化され振り子形特急に置き換わる。
高砂工場が担ってきた通勤列車や特急・急行列車の電車化が相次ぎ、客車は、夜行列車の縮小、普通列車の小単位フリークエントサービスへの転換での気動車化、電車化が進む。
高砂工場でも気動車用エンジンの西日本一括管理、製材についても西日本以西の国鉄工場用のすべてを一括して管理するという、集約、近代化も図られる。
だが、担当車両に電車がないのは致命的だったのかもしれない。
新高砂工場キシ8034ジャッキアップ全景.JPG

高砂線の問題はまさにこういう時に起こったと言えるだろう。
昭和50年代以降、当時の高砂工場はAスパン計画として、固定編成客車や特急気動車を編成単位で入場させ、一気に検査修繕をするべく設備の改修に余念がなかった。
二つだったトラバーサに加え、大建屋内部にトラバーサを設置、戦時の建物である大建屋(旅客車主棟)の大改造を行っていた。
けれど、今にして思えば、これらは必要のない工事だったと言うしかない。
国鉄高砂Aスパン.jpg

完成したAスパン計画は、結局それができた時点でほとんど必要のないものになってしまっていた。
昭和58年秋、読売新聞が国鉄高砂工場の廃止をすっぱ抜いた。
工場職員、地元住民には寝耳に水だ。
国越高砂線も存在すべき必要性が消えうせた。
この当時の航空写真が残っている。
国土地理院昭和55年撮影だ。
黄色の枠内が国鉄高砂工場だ。
高砂工場空撮昭和55年web敷地記入.jpg

高砂工場の廃止には、当時、国労だけで固められていた組合つぶしの目的もあったと言われるが、時代の趨勢を読む限り、高砂工場の廃止・撤退はやむを得なかったというのが実情だろう。
だが折角の鉄道工場、せめて地元山陽電鉄の工場としてでも再起できなかったか…
いや、山陽電鉄には広大過ぎる…
では関西私鉄各社の共有の工場として活用出来たら・・
それらはすべて夢の中の夢でしかない。


高砂工場の先行きに陰りが見え始めたころ、大鉄局は「サロンカーなにわ」を企画した。
今から見ればいろいろ突っ込みどころのある車両だが、のちに鷹取で(もちろん、高砂から移った社員も参加している)更新され、未だに活躍しているのはこの工事に当時下っ端として加わらせてもらった僕自身の驚きでもある。
サロンカーなにわ高砂完成時.JPG

高砂工場としては昭和59年で終了したが、車両とそれを担当する職員は殆どは鷹取に、一部は吹田、後藤、多度津などに移籍した。
そして昭和61年、高砂出自の職員が中心になって作り上げたのが「みやび」だ。
この時も僕は参加させていただき、試運転や客車区での手直しにも行かせてもらった。
自分に良い記念品ができた・・この車両は何十年も多くの方々に親しまれるだろうと確信して、僕は国鉄を辞めた。
その年の冬、記念碑的な列車は冬の余部橋梁で季節風の中を無理に走行して転落、地元住民の方々を大勢巻き込む大事故となった。
みやび完成当初.jpg

国鉄高砂工場の今現在知ることのできる精一杯の年表をここに記録しておく。
なお、この年表は今後、未知の資料等が出て訂正するべきことができた時、また、当時を知る方々からのご指摘があったときはいつでも訂正したいと考えている。

*********

国鉄高砂工場年表

高砂工場史
昭和16年3月    大阪陸軍造兵廠播磨製造所として発足
昭和20年6月5日   神戸大空襲、鷹取工機部、壊滅的な被害を受ける
          加茂、和田山に客車職場を、加古川に貨車職場を設置
昭和21年1月20日  大阪鉄道局鷹取工機部高砂分工場として発足
          敷地面積1,604,353㎡、建物総面積169,604㎡、線路長21km
    12月1日  貨車修繕を加古川職場より移転
昭和22年8月    高砂工機部として独立
昭和23年4月1日   客車・気動車修繕を鷹取工機部より移管
昭和24年      施設の集約工事を開始(終了は昭和29年)
昭和24年4月    木造客車の鋼体化着手
    9月15日  特急復活、「へいわ」東京大阪間1往復、10両編成 
          イテ・ロ・ロ・ロ・ロ・ハ・ハ・ハ
          東京9:00→大阪午後6時
          大阪正午→東京午後9時
昭和25年2月    自社水道を近隣に配水開始
         加古川橋梁北100メートルで取水、米田ポンプ室→場内配水池
    8月1日、  大阪鉄道管理局設置
    10月1日  スピードアップの大時刻改正
昭和26年2月1日   製材職場を吹田工機部安治川職場より移設
昭和27年8月5日   本社直属、日本国有鉄道高砂工場
昭和28年3月20日  阪和・紀勢線準急「なんき」運転開始(昭和34年気動車化)
昭和29年      二軸貨車の二段リンク式改造
    2月1日   福知山線気動車列車運転開始
昭和30年3月22日  関西本線準急「かすが」気動車で運転開始
昭和31年4月~   オシ17改造工事開始
昭和32年1月16日  関西支社高砂工場
昭和33年6月10日  加古川線合理化、加古川気動車区誕生
昭和36年10月1日  気動車特急「まつかぜ」「白鳥」運転開始
昭和37年1月    特急気動車修繕開始
    4月    関西以西の工場で使用する車両木材の集中製作を開始
昭和38年      遊休地を兵庫県開発公社に売却、のちに三菱重工
昭和39年5月18日~ 全国客貨車車輪タイヤの緊急取り換え工事
昭和40年3月1日   気動車特急「くろしお」「あすか」運転開始
昭和41年3月1日   高砂工場創立20周年記念式典
          総人員1321名(男1307名、女14名)
      敷地面積527,714㎡、建物総面積80,297㎡、線路長15.117km   
昭和41年2月    固定編成客車(20系)修繕開始
昭和45年3月    12系客車投入
昭和47年3月15日  気動車特急「はまかぜ」運転開始
昭和50年11月1日  中国道ハイウェイバス、国鉄・神姫で計12便運行開始
昭和51年10月    関西の気動車用内燃機関の集中修繕を開始
昭和51年10月1日  二段寝台客車運行開始
昭和53年11月1日  播但線50系客車投入
昭和54年7月14日  スロ81系お座敷客車竣工
昭和56年7月4日   天鉄局12系お座敷客車竣工
昭和58年9月24日  サロンカーなにわ、営業開始
    11月25日  高砂工場廃止正式決定
昭和59年3月30日  貨車職場廃止
昭和59年6月30日  第一次配置転換、車両関係職員を鷹取はじめ5工場へ移動
    7月1日   高砂工場廃止
          最終出場車 オハネ2568、スハネフ155、キハ180-33・47
    11月30日  高砂線(特定地方交通線)廃止
昭和60年3月25日  第二次配置転換部品系職員、なお事務職は4月1日
          (内燃機職場は当面存続し鷹取工場第二内燃機職場となる)
昭和61年2月8日   和風客車「みやび」鷹取工場で竣工
    11月    第二内燃機職場を鷹取工場内燃機職場に統合
           (小型エンジンは後藤工場に移管)
昭和62年3月31日  第三次配置転換
          廃車解体、残務整理などで残った職員の配置転換完了



改造中の「ミハ座」スロ81系
新高砂宮座スロ622070改造工事.JPG

ミハ座完成時の記念品、しおり。
高砂お座敷しおり.jpg

更新工事のキロ28、当初は徹底的にオリジナルの状態に仕上げたものだった。
新高砂工場キロ28下降窓更新主棟.JPG

遠く、北海道向けスハネフ14の改造工事。
新高砂スハネフ14寒冷地出車.JPG

通勤気動車が並ぶ入場トラバーサー。
国鉄高砂前待機線キハ35.jpg

サロンカーなにわ、切妻になった車掌室側。
ここにこそ高砂の意地が見える。
新高砂なにわスロフ14703後位.JPG

高砂の傑作、ナハ21(←ナロネ21)
高砂aナハ21車内.jpg

高砂工場と運命を共にした国鉄高砂線。
高砂工場への配給列車。
山陽・高砂線DD13614.jpg
posted by こう@電車おやじ at 20:26| Comment(12) | 国鉄部内の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月14日

雨と鉄道

梅雨の季節、雨は撮影者や旅行者にとっては憂鬱なものだ。
そして時には大雨、豪雨、昨今では線状降水帯なるものができると、列車の運行は規制され、さらには線路や路盤への被害があると長期間にわたって当該線区の運行ができない可能性もある。
なにも最近だけではなく、大雨による水害で被災し、そのまま廃線になった鉄道もいくつも存在する。

しかし、雨は晴れと同じく気象現象の一つでしかなく、度を越さぬ雨はまたなんともいえぬ風情を持つものでもある。
今回は過去に出した写真の中からそんな雨のシーンを振り返ってみたいと思う。

函館本線桂川・・雨に煙る海岸線をキハ183が行く。
S62桂川キハ183.JPG

こちらは普通列車、キハ22だ。
S62函館本線桂川キハ22カラー (2).jpg

名鉄、廃駅になった東笠松にて。
7500系の豊川急行、長く見えるが同じ毛糸の列車と上下で出会っているところだ。
東笠松名鉄7500雨.jpg

通過する下り急行。
S61名鉄7500急行東笠松雨.JPG

蒲原鉄道、一度しか行けなかったがその時は大雨だった。
蒲原鉄道五泉.JPG

餘部駅に入線するDD51牽引、普通客車列車。
雨の餘部駅.jpg

豊橋駅前、豊橋電鉄の路面電車が入構する。
名古屋市電から来た3101号だ。
雨鉄豊橋3101.jpg

広島駅前、広電も初めて訪れた時は大雨だった。
旧神戸市電、1101号。
広電1101広島駅雨.JPG

雨が小降りになってきた。
帰宅する学生たち、そしてカラフルな電車たち。
通学広電雨1105.jpg


余部橋梁、DD51牽引の普通客車列車、下り。
餘部雨DD51.jpg

その列車の後尾、旧型客車独特の雰囲気、雨情というにふさわしい。
餘部雨客車.jpg

上り列車が発車していく。
餘部雨客車最後尾.jpg

名鉄知立駅。
雨の中、蒲郡線特急が入線。
知立特急三河湾7000.jpg

パノラマカーに運転士が乗り込む。
雨は小雨になってきたが、急な手すり、独特の姿勢をとる必要のある乗務員扉、足を滑らさないようにと思いながらの乗務だったのだろう。
知立7000運転士.jpg

雨の中、走るパノラマカーの展望席から。
うちつける雨、列車は淡々と走る。
固定窓のこちら側は外とは別世界だ。
名鉄パノpラマカー雨展望.JPG

地上時代の電鉄明石駅と山陽3000系特急。
山陽3066明石雨.JPG

「雨あがったね」声が聴こえそう。
山陽電鉄明石女子高生.jpg

犬山橋を行く当時の最新鋭車両・・・
キハ8500。
雨犬山名鉄キハ8500.jpg

パノラマスーパー。
雨犬山名鉄1000.jpg

3連化されたパノラマデラックス。
雨犬山名鉄8800.jpg

「特別なトワイライト」が来る寸前、豪雨になった。
EF65トワイライト・207雨の須磨.JPG

EF66が長い貨物列車を牽引する。
雨EG6633.jpg

トワイライトの後を受けた、「瑞風」が雨の中突っ込んでくる。
瑞風・223垂水雨.jpg

驟雨の中、神戸電鉄3000系。
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未だに晴れたことのない、雨晴。
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雨が晴れぬという意味ではなかろう二と、これは自分の運のなさへの自虐。
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明けどころか霧も出てきた。
帰路につこう。
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水しぶきを巻き上げN700が走る。
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国鉄型がたくさんいた当時の王寺駅。
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梅雨の雨の向こう、靄ってきた橋梁を山陽3000系が渡る。
0615加古川橋梁山陽3000系雨_01.JPG

デジカメになって撮影枚数に気を遣わずに済むようになり、雨の撮影も増えた気がする。
EF6627が雨を降り払って走る。
雨垂水EF6627.jpg

まだ大型電車の残っていた福井鉄道。
雨鉄福井602・802.jpg

山陽電鉄と近鉄の電車が阪神線路上で出会う。
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保存車両にも雨。
自分が神戸で車両保存に関わるようになってから、雨の多い時期には車両の痛みを気にするようになった。
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雨の東武鉄道佐野駅にはいる一日一本の特急列車。
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阪急松尾駅で嵐山線6300系が出会う。
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嵐山駅の照明が雨に濡れ、電車のマルーン共々美しい。
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雨の北条鉄道、梅雨時の田を見て走る。
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南海電鉄汐見橋支線、一編成しか運用されない電車が下町風情の中を行く。
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山陽新幹線、雨の中で列車が出会う。
雨加古川橋梁500系N700  .jpg

雨あがり間近のドクターイエロー。
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雨の西明石、ドクターイエローが来た時には小降りになってしまった。
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犬山橋を行く名鉄6000系。
スカーレットは雨の日にも良い。
犬山橋6000系旧.jpg

鉄道専用橋となった姿、やはり6000系がゆっくり進んでくる。
犬山橋6000系.jpg

熊本市電、当時最新鋭の軽快電車が豪雨を突いて走る。
熊本市8202田崎橋行き.JPG

雨には市電も走りにくそうだ。
熊本市1095後追い.JPG

最後に、広島市の雨。
雨の都会の風情に神戸市電が昔の街を懐かしんでいるようだ。
雨広電1153.jpg
posted by こう@電車おやじ at 15:36| Comment(0) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする