2024年10月12日

地元、神戸・播磨での機関車(その2)EF60~EF65。

国鉄ではすべての車両に「新系列・旧系列」という考え方があるが、電気機関車ではEF60以降が新系列とされていた。
小型軽量大出力の電動機を搭載、EH10 に近い大出力機関車がEF60だ。
従輪を持たず、F級だが車体はEF58やEH10よりは随分コンパクトだ。

一回だけ撮れたEF60 トップナンバー。
加古川駅で。
S51加古川EF601.JPG

クイル駆動の一時量産機、EF606。
法華山谷川にて。
EF606.jpg

宝殿駅側線、高砂工場への入場車両を牽引するEF608、この初期型は当時はこういった部内用の運用につくことが多かった。
後ろはスハ14、オハネフ12、キハ20あたりだろうか。
ef608宝殿.jpg

こちらは同じ高砂工場入場車両牽引でも宝殿を通過していくEF6059 、三次量産機だ。
宝殿EF6059.jpg

その列車の後追いだろうか、EF60同士が離合する。
キハ35が目立つ。
宝殿EF60+キハ35.下り貨物離合.jpg

EF6042 、二次量産機で、ここでクイル駆動を諦め、ツリカケ式に戻った。
宝殿EF6042.JPG

EF6040、夢前川橋梁。
国鉄夢前川EF6040.JPG

EF6018 、宝殿駅構内。
橋梁部材の輸送中だろうか。
宝殿EF6018.jpg

EF60115、法華山谷川にて。
EF60の最終形態、5次量産機、たくさんやってくるEF65一般形との区別がつかなかった。
宝殿西EF60115.JPG

EF61形、EF60 をベースに旅客用とした機関車で、本来はEF58の後継機として想定されていた。
しかし、地元ではEF58は特急牽引を譲らず、したがってEF61の特急牽引を見たことがない。

正面はEF60 初期量産型、側面はEF60最終形態でなぜかカッコよく思えたものだが、なにせ両数18両と少なく出会うことがほとんどなかった。
法華山谷川、EF612、荷物列車を牽引。
EF61-2法華川橋梁.JPG

EF612の側面、法華山谷川。
宝殿西EF612サイド.JPG

貨物列車を牽引して宝殿を通過するEF615。
EF615宝殿.jpg

EF65、とにかく両数が多く、うじゃうじゃいる感じだった。
今でいえばEF210に相当するだろうか。
一般形から。
EF65はEF60後期と比してあまり変化なく、制御装置が変更されたことは、外からは見えない。
それならEF60各種は変化が激しく、そこで形式の変更なく、EF65で形式の変更があったのが個人的には謎でもある。

EF65一般形。
姫路で初期量産機、EF652。
EF65には試作機というものがなく、いきなり量産に入っている。
ところが制御機の故障が相次ぎ、かなり大規模な設計変更と既存機の改造を行った吉。
姫路Ef652.JPG

EF6598、宝殿駅にて。
宝殿EF6598.jpg

EF65108 、加古川土手を駆け上がる。
宝殿日本毛織横EF65108.jpg

EF65122、宝殿駅にて。
宝殿EF65122.jpg

EF65132、東加古川・加古川間。
野口EF65132.jpg

EF65-500番台、旅客用P型と貨物用F型があるが、なぜか番号は続きで特に区別はしていない。
所属区が異なるから特に問題もなかったのだろうか。
宝殿の名勝、石の宝殿を背景に走るEF65500台、517と読めるように思える。
宝殿EF65500F.jpg

東京への寝台列車「富士」を牽引して深夜の宝殿駅を通過するEF65512。
とにかくカッコよく思えた機関車だが、関西では本当に見ることが稀だった。
宝殿駅富士Ef65512.jpg

EF65-1000番台、旅客にも貨物にも使えるオールマイティ、EF65の最終形態で今現在も活躍する。
この機関車もめったに見ることはなく、むしろいま現在のほうが良く見ているのかもしれない。
東加古川・加古川間EF651001。
今も保存されている機関車だ。
宝殿EF651001.JPG

サロンカーなにわを牽引するEF651125 、東加古川・加古川間。
加古川野口EF651125サロンカーなにわ.jpg

加古川橋梁、特急「あかつき」を牽引するEF65PF、番号不明。
この頃になると、EF58 は順次退役し、EF65PFが寝台特急を牽引していた。
国鉄出会いEF65あかつき、EF66加古川.jpg

14系リゾート客車を牽引して垂水駅を通過するEF651125。
垂水駅EF651125.jpg

鷹取で検査した「ゆうゆうサロン」客車を牽引するEF651131、朝霧付近。
EF651131朝霧.jpg

寝台特急「なは」を牽引するEF651093、塩屋付近。
塩屋EF651093なは.JPG

塩屋にてJR貨物標準色のEF652068(旧EF651068)
0702塩屋EF652068.JPG

JR貨物はEF65最終の全般検査で塗装を国鉄時代のものに戻した。
やはり国鉄時代の塗色は見ていて力強さ、風格がある。
朝霧にて、EF652068の塗装復帰後の姿。
0527狩口EF652068・2.JPG

「特別なトワイライト」を牽引するEF651132。
大蔵谷駅で。
EF651132トワイライト大蔵谷.jpg

国鉄荷物列車の極最晩年、老朽化したFE58をEF62に置き換えた。
信州の山から下りてきた機関車が平坦路線を走る・・
宝殿駅を通過するEF6229。
宝殿EF6229.JPG

EF66、EF200以降はまた次回の機会に。
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2024年10月03日

地元、神戸・播磨での機関車(その1)EF58とEH10。

ワタシが写真を撮影するようになったのは中学1年の頃だ。
コダック社のポケットカメラから端を発して、OLYMPUS 35EDで好きな鉄道を撮影した。
その後、一眼レフ、PENTAX SPを借りて岡山へ人生最初の鉄遠征したが、本格的には国鉄に入社して購入したKonica Acomi-1からとなる。
何故このカメラを選んだか、当時、AEが主流になってきていた一眼レフの中で、CanonとKonicaはシャッター速度優先を採用していたからだ。
鉄道撮影に大事なのは列車を写真上で止めること、あるいは流すにしてもシャッター速度のコントロールが必須だったと考えたからだ。

ところが当時のフィルムの性能ではこの理屈が破綻していたことを知る。
せいぜいASA(今のISO)400のTRY-Xが高感度の一般フィルムだった実情の中で、シャッター優先にすると薄暮などのシーンでは露出不足に気が付かずということになる。
2年使ってレンズも3本そろえたKonicaだったが、酷使で故障したカメラの修理に際しメーカー送りにしてもまともに直らないので嫌気がさし、丸ごと、Nikonに買い替えてしまった。
絞り優先AEのNikon FEで、まだ出たばかり、小型で使い勝手の良いカメラだ。
絞り優先の方が絞りさえ開けておけば常時最高のシャッター速度が使えるわけで(もちろん、日中はそこまで絞りは開けない)これは使い勝手が良かった。
加えて、ゴーストの少ない、そして明るいニッコールレンズ、当時は単焦点レンズの時代、28ミリ、35ミリ、50ミリ、105ミリ、200ミリをそろえ、カメラもすぐにF2、やがてFMを手に入れて旅行にはカメラ二台とレンズ3本・・これは今のデジカメセットよりはるかに小さな荷物で済んだ・・・を持っていくようになった。
地元での撮影は当時、親の都合で加古川市にいたので良く自転車で線路際に行った。
地元の時はサブカメラは持たず、大抵カメラ1台に35ミリと105ミリを持っていったものだ。

さてその当時からワタシの地元と言えばまずは山陽本線、今のJR神戸線だ。
ご多聞に漏れず、ワタシも当時は特急や機関車を追った。
今思えばOLYMPUS 35EDを購入して50年、相変わらず地元で撮影を続ける機関車を追ってみたい。
ほとんどの写真は既出、Archivesになることをご承知おきいただきたい。

*EF58
当時の本線用旅客機だ。
設計製造は戦後すぐと古いが、関西初の夜行列車ではまだ特急を牽引していた。
また荷物列車でも活躍、よく見る機関車だった。
EF58167 、後期型。
宝殿・曽根間はこんなにも長閑だった。
宝殿西EF58167.JPG

EF5891、宝殿駅、当時構内の北側に橋梁部材などが置かれていた土地があった。
ef5891 (3).jpg

EF58158、同じ場所で。
宝殿EF58158.jpg

EF58157、宝殿駅通過中の荷物列車。
背景は農業倉庫。
宝殿EF58157.jpg

同じ位置を走るEF58155。
宝殿EF58155.JPG

12系の団臨を牽くEF58128。
金光臨など、よく貸切の臨時が走ったし、急行但馬の臨時も姫路まではEF58が牽引した。
宝殿EF58128オハ12系団臨.jpg

トップナンバー、EF581、せめて窓枠がHゴム化されていなかったらもっと人気が出ただろうに。
EF581荷物列車宝殿.jpg

番号不明、早朝の寝台特急。
宝殿夕景EF58.jpg

こちらは「阿蘇」番号が流れて読めない、明け方はシャッター速度を思うようには上げられなかった。
宝殿EF58オハ14系「阿蘇」.jpg

急行を牽いて加古川に停車するEF5843。
加古川EF5843.jpg

須磨にて美しい大窓のEF58119。
荷物EF58119須磨.jpg

*EH10
マンモスと呼ばれた重厚なニ両連結の貨物専用機、EF60以降の軽快さとはまた違う魅力を見せてくれた。
初期型番号不明、加古川橋梁。
初期型4両はパンタグラフが中央に寄っていた。
加古川橋梁EH10初期型.JPG

EH1036、宝殿・曽根間、珍しくワムとヨだけを牽引する。
eh1036.jpg

EF1024、パンタグラフが交換された個体もあった。
EH1024.jpg

宝殿駅構内EH109、手前の線路は長期間、車両を留置している場所だ。
EH109.jpg

同じ場所でEH1013、黒い貨物列車が良く似合う。
EH1013.jpg

明け方のEH108。
EH108.jpg

EH1052 、こういう流し撮り的手法はNikonを購入してから可能になった。
EH1052.jpg

須磨にて、EH105、量産一号機だ。
須磨での撮影は宝殿に比すと少なかったが後に自らの意志で須磨に転居、ここが日常になった。
国鉄EH105須摩.JPG

EH104、宝殿駅停車中。
たぶん50ミリレンズしかなく、これ以上広く撮れなかったのではなかろうか。
宝殿EH104.jpg

車体連結部、永久連結とされていた。
宝殿EH104連結面.jpg

短いワムとヨだけの貨物列車を牽いて上っていく。
EH10‣ワフ・ヨ法華川.jpg

EF60以降については次の機会とさせていただきたい。
今思えば、山陽本線特に宝殿付近での撮影は、ワタシが鉄道ファンとして確立していく大きなステップになったように思う。
逆に言えば、あの時、宝殿にいてNikonを買わなければ鉄道ファンとして進化することもなく、さらには写真の世界で苦労を嘗めることもなかったのは確かで、まぁ、そう言う人生を振り返る時期に来ているということだろう。
posted by こう@電車おやじ at 20:19| Comment(2) | 国鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年08月31日

広電、単車時代の終焉へ。

いよいよ、広電の広島駅高架乗り入れが来春に迫った。
このところ既存の路面電車をLRT化して活性化する手法が各都市で見られるが、高架橋によるJR駅への直接乗り入れというのは、これはその最たるものだろう。
しかし、高架橋であるゆえ、市街地区間との接続でどうしても急こう配が存在する。
今、発表されている勾配は40‰で、これは阪神なんば線と同等、神戸電鉄の50‰にも迫る、鉄道車両としては強烈な勾配だ。
‰(パーミル)とは、1000メートルでいくら登るかという単位で、鉄道車両の最高は箱根登山鉄道の80‰、通勤鉄道の最高は神戸電鉄の50‰、東京都電、京阪京津線、宇都宮ライトレールには一部に60パーミルを超える区間も存在する。

もちろん、新鋭の連接車などはこの勾配を上下できる性能を有しているのが、高架化の大前提だろう。
しかし、古くから「電車の博物館」と呼ばれた広電を形成してきた多くのツリカケ式単行車(広電では単車と呼ぶ)がこの勾配を上下できるのだろうか。
基本全ての車両のモーターが搭載されている路面電車は、ある程度勾配には強いと言われる。
今現在、広電に存在する最急こう配は猿猴橋と的場町の間の35‰だそうだ。
またこの計画設定時に、広電に在籍するすべての電車が勾配を走れるという前提があったそうだ。
0804広電的場町706.jpg

だから勾配が急になるから古い電車が淘汰されるというのではないかもしれないが、今や急激に数を増している新型グリーンムーバLEX1000形は単車の運行をどんどん置き換えていき、すでに広島駅前で日中に単車を見かけるのは5号線(皆実線→広島港)、6号線(本線→江波)くらいになってしまった。
従来の単車が高架線を「走れる」と言っても、やはりそこは「安定的に速く」走れるようになる必要もあるだろう。

広島高架新ターミナルに乗り入れる広電がそれを機に、一気に残る単車の淘汰を考えていても不思議ではなく、すぐには資金面の問題もあり実現できないだろうが置き換え完了の時期は案外早いような気がする。

そこで今回は広電の「単車」を取り上げていきたいと思う。
広電に連接車が登場したのは、昭和32年の宮島線1040形改造車が最初だがこれは鉄道線用車両で、路面電車区間としては昭和36年の2500形連接車からということになる。
広電2504.jpg

この電車は鉄道線を走る充分な高速性能を備えた画期的なものだった。
それまでにも宮島線へ直通する車両は存在したが、いずれも普通のボギー車だった。

それでは数字の若い順に進めていきたいと思う。
350形。
元は宮島線直通の単行車として昭和33年に完成した電車で、のちの350形に改番されている。
353号、昭和52年ごろの広島駅前。
広電353広島駅.JPG

500形。
昭和28年から29年にかけて完成した電車。
全車両廃車済み。
504号。
広電504広島駅.JPG

502号。
広電502広島駅Ⅱ.JPG

570形、神戸市電500形のうち、J車(大正13年製造)、L車(大正14年~昭和3年製造)、K車(昭和6年製造)を譲り受けたもので車体が大型で使いやすく、今も一両が残る。
571号(神戸市電K車)本川町。
広電571本川町.JPG

573号(K車)。
広電573.jpg

広告電車、576号(K車)。
広電576原爆ドーム前.JPG

580号(K車)。
広電580広島駅雨.JPG

583号(J車)
広電583.jpg

584号(L車)
広電584.jpg

582号、今も唯一残り神戸市電のあの魅力的な塗装が健在だ
0822広電582広島駅.JPG

600形。
初代600形は撮影ができていない。
二代目600形は西鉄北九州線500形がその前身。
ソアラと並ぶ602号、この電車は今も残る。
広電602ソアラ本川町.JPG

650形、現存する被爆電車として有名。
昭和17年、今はなき木南車両製造。
651号。
広電651.jpg

652号、紙屋町。
広電652紙屋町.JPG

654号、宇品にて。
広電654宇品.jpg

700形(初代)
昭和23年から25年にかけて旧500形から機器を流用して製造された電車。
撮っているのはこのワンカットのみ。
705号。
広電705広島駅雨.JPG

750形、大阪市電1601形、1651形、1801形を譲受した車両を纏めた形式。
753号、昭和3年から4年にかけて製造された大阪市1601形がその前身。
広電753広島駅正面.JPG

756号。
こちらも大阪市電1601形がその前身。
広電756広島駅.JPG

762号、昭和15年に散水車を改造して登場した1651形がその前身、施工は木南車両。
広電762本川町.JPG

768号。
昭和25年に登場した大阪市電1801形がその前身。
広電768宇品.jpg

769号、こちらも大坂市電1801形。
広電769八丁堀.JPG

広電には初代800形もあったがこちらは出会えていない模様。

900形、元大阪市電2600形で大阪市電の顔ともいえる存在だった。
昭和30年から35年にかけて登場した休車部品流用の電車で、広電には後期車ばかりが譲渡された。
913号、本川町。
広電913本川町.jpg

冷房化後の907号。
広電907本川町.jpg

904と913が出会う。
広電904・913本川町.JPG

1100形。
元神戸市電1100形で昭和29年と35年に製造された。
1101号、昭和29年グループで、神戸市電としては初めて前中扉を採用している。
広電1101広島駅雨.JPG

1103号こちらも昭和29年製造。
広電1103広島駅Ⅱ.JPG

1104号、こちらは昭和35年製造、窓回りなどが若干異なる。
広電1104己斐.JPG

広島駅前で大阪市電と並ぶ1105号、初代ハノーバー電車となった。
広電1105・753広島駅.JPG

1150形、昭和30年から31年にかけて製造された神戸市電1150形で和製PCCとして名高いが、現場での扱いにくさゆえ、大阪市電の機器を流用して旧型化された。
広電には廃止時に譲渡。
1151号。
広電1151本川町.jpg

1153号。
広電1153広島駅.JPG

1155号。(1158号だったが後に改番)
広電1155緑.jpg

かつては広告電車だった今も残る1156号
広電1156紙屋町.JPG

1157号。
優雅な全面窓が美しい。
広電1157広島駅.JPG

1900形、京都市電1900形で、つい最近まで廃車もなく全車が稼働していた。
昭和32年生まれで、大型で使いやすく、今も13両が活躍する。
1913号。
広電1913本川町.JPG

広告電車もあった、1905号。
広電1905的場町.JPG


京都市電が並ぶ。
広電1915ほか本川町.JPG

二代目700形、初期車は旧型車の機器流用、ツリカケ式だ。
昭和57年登場。
702号。
広電702本川町.jpg

711号、昭和60年製造、駆動方式がカルダンに変更され名実ともに新車となった。
711広電.jpg

800形。
今現在、広電が製造した最後の単行車だ。
昭和58年、チョッパ制御装置を持って生まれた801号。
0805広電本社前801.JPG

昭和62年の増備からはデザインがより近代的になった。
805号。
0805広電本社前805後追い.JPG

803と807が並ぶ。
広電807・803江波.jpg

今現在広電が製造した最後の単行車、平成6年製造の814号。
VVVF制御だ。
010719広電袋町814.JPG

いまやかつての単車運行路線、比治山線(皆実線)でも大型の連接車が走る。
江波線でもLEXが走る。
その中にあって単車の活躍シーンがどんどん減少している。
大都市広島の輸送を支えるにはそうしなければならないのだろう。

602号の現在の姿。
広電602.jpg

広電本社前で神戸・京都の電車が並ぶ。
010731広電本社前582.JPG

朝の広島駅前、朝日がこぼれ、電車が行き交う。
広電1154・583広島駅.JPG

広電新線、こちらは駅前線延長部で、段原町に向かう。
0804広電新線比治山下.JPG

広電新線、広島駅に向かう。
新線の総距離は1・1キロに及ぶ。
なお、猿猴橋町は廃止されるが、的場町は新たな循環ルートの停留所として活用されるという。
0804広電新線工事.JPG

神戸市電1156号、ハノバーカラーを纏う電車だがここしばらくは車庫以外では出会えていない。
新しい高架線に彼らが来ることはあるのだろうか。
広電1156 (2).jpg

最後に804の夜景。
広電804流し.jpg
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2024年07月10日

甘木にて

甘木という街は鉄道の歴史から見れば不思議な町だ。
ここを目指して二日市、久留米、鳥栖、基山、そのほかからいくつもの鉄道が計画され、その多くが実現した。
もっとも、軽便鉄道もしくは軌道が大半で、西鉄甘木線以外は国鉄甘木線やバスの台頭によって姿を消していく。

僕がこの甘木に興味を持ったのは、西鉄の軽快車200形が走っていたからで、この車両は本来は大牟田線で高加速の普通列車用として登場したものだ。
それゆえ、気動車の設計を取り入れた小型車体に半円形5枚窓の前頭形状は、話に聞く阪神801形の九州版を思わせてくれた。
西鉄甘木線206アップ.JPG

さて、僕が九州へ頻繁に通ったのは国鉄時代の「精勤パス」が使え、しかも急行「雲仙・西海」「阿蘇・くにさき」があったころで、精勤パスでも特急に乗れば特急券が必要、急行ならそのまま追加料金などなしで乗ることができ、資金の乏しい時にはありがたかった。
14系座席車の寝苦しさに最初は閉口したが、やがてそれすら快適と思われるようになるほどに九州へ通ったものだ。

甘木には何度か通った。
いつも終点まで乗り、短尺ホイールベースの軽快な乗り心地を楽しみ、半円形電車の醸し出す独特のムードに酔いしれたものだ。
この辺りの感覚は名鉄揖斐線と似ているのかもしれない。
西鉄203甘木.jpg

そして、甘木終点近くで国鉄甘木線が並行して存在していた。
国鉄甘木線は日中は殆ど運転がなく、一日で7往復だけの路線でついでに乗ってくるという訳には行かなかった。
だが一度だけ貨物列車を見ることができた。
甘木DE101545.JPG
貨物列車の後追い。
DE10ワム貨物甘木線.jpg

西鉄甘木線独特のムード。
西鉄甘木線200形2両サイド.JPG

半円形電車を何両も繋げた編成は見ていて楽しい。
3両編成。
西鉄甘木線200形3連.JPG

4両編成もあった。
西鉄甘木線200形4両.JPG

こちらは小石原川橋梁を渡るシルエット。
やはり名鉄揖斐線510・520形と同じ空気を感じる。
西鉄甘木線200形4連シルエット.JPG

撮影ポイントは殆どが駅から歩いて数分の、川を渡った場所だ。
なぜか夏の訪問ばかりだ。
西鉄甘木線200形3連遠望.JPG

ク62を繋いだ2連、小型車ばかりの甘木線で2連では乗車定員が少ない。
西鉄甘木線62ほか2連.JPG

後に甘木線が第三セクター化され、甘木鉄道となった。
甘木鉄道は列車の運行を大幅に増やし、福岡への通勤通学に使えるように、小郡駅を西鉄小郡駅そばに移設、これが好評を呼び乗客は大幅に増えた。
第三セクター鉄道としては全国的にもトップクラスの成功例だ。
甘木鉄道レールバス2.JPG

甘木鉄道甘木駅。
国鉄設計とは思えるお洒落な駅舎だ。
甘木線甘木駅.JPG

西鉄甘木線の乗客が便利になった甘木鉄道へ転移し、西鉄が苦しくなるかと思ったがそれほどではなかったらしい。
西鉄甘木駅に停車する200形。
この頃は駅近くに大型スーパーもあった。
西鉄甘木駅213大.JPG

この頃は駅の上屋がない。
西鉄甘木駅200形停車.JPG

停車するク62、ク60形は元をただせば博多湾鉄道汽船の気動車で、車体寸法がほぼ200形と同じで、200形の連結相手として活躍していた。
西鉄甘木線62甘木.JPG

西鉄甘木線は宮の陣で西鉄小牟田線に連絡するがそのまま久留米を経て花畑まで直通する。
久留米駅での200形の様子。
賑わう駅、可愛い電車が入る。
西鉄久留米甘木線216.JPG

ク62形を先頭にした編成が久留米駅に入線。
西鉄久留米甘木線62入線.JPG

駅に停車する200形。
西鉄甘木線久留米駅200形.JPG

当時は大牟田線も随分と面白かったものだ。
2000形特急はその貫録を見せつけてくれた。
西鉄久留米2000系特急.JPG

戦後の流線形1300形も姿を見せてくれる。
西鉄久留米1300形.JPG

先だって本当に偶然から一日の福岡訪問をすることができ、甘木を再訪できた。
甘木鉄道甘木駅は健在。
0705甘木鉄道甘木駅.JPG

甘木鉄道の気動車は標準的な大きさの軽快気動車に変更されていた。
0705甘木鉄道小石原川AR305.JPG

西鉄甘木線はなかなか良いデザインの7050形になっていた。
0705西鉄甘木7557_01.JPG

通い詰めた線路が並行するあの田圃は巨大なソーラー基地となってしまい、もはやそこでの撮影はできそうになく、小石原川の土手で列車を眺めた。
橋梁も改築され、電車の下回りが写らなくなっている。
0705小石原川西鉄7050系.JPG

そこへ、西鉄電車と甘木鉄道の気動車が同時にやってきた。
0705小石原川甘木鉄道AR302西鉄7050系.JPG

活発な鉄道路線が二つもある甘木は、今は朝倉市の一部となった。
かつての朝倉郡全体で市制を施行したためだ。
西鉄甘木駅。
0705西鉄甘木駅.JPG

国鉄甘木線、貨物列車が遠ざかる・・
甘木線貨物後ろ姿.JPG

その同じ風景も随分と周囲が賑やかしくなったものだ。
0705甘木鉄道小石原川AR305後追い遠望.JPG

夏空の下を走る半円形正面を持つ電車。
西鉄甘木線208.JPG

なお至近の大刀洗にはもともと個人が資金を出して運営されていた平和記念館があり、今は町営として戦時の戦闘機、特攻機、そして映画に使われた実物大の模型、地元で亡くなられた方々の写真、詳細な記録などが展示されていて、今回そこへ案内していただくことができた。
是非、読者の方々にも訪問をお勧めしたいところだ。
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2024年05月07日

神戸駅150周年。

阪神間鉄道が明治7年に開業して150周年になる。
イベントは神戸駅でも5月11日に開催されるが、神戸市垂水区の「絵葉書資料館」で購入した複製絵葉書と拙撮影の写真で神戸の鉄道を振り返ってみたい。
なお、絵葉書資料館によれば商用目的ではないSNSなどでの利用は自由という事なのでここでは最初に同館の資料であることを宣言して書き進めたいと思う。
本ブログはあくまでも個人運営であり、blog上の宣伝などもブログ運営者には一切入ってこない設定としている。
純粋に個人ブログであることを貫きだいためだ。
絵葉書資料館の概要は以下アクセスから。
https://www.ehagaki.org/

日本の幹線鉄道は当時は「官鉄」として主に港と都市を結ぶ路線に手を付けられた。
関東・関西を結ぶ鉄道は軍事上の理由・・主に艦砲射撃を避ける意味合いから、中山道経由として進められていた頃、まずは緊急に必要だった貿易用の支線から始まったという事だ。
明治5年6月12日(太陽暦)、品川・横浜(桜木町)間仮開通。
同年10月14日、新橋・横浜間正式開業。

そして明治7年5月11日、大阪・神戸間鉄道開業。
当時、大阪・西ノ宮・三ノ宮・神戸の各駅が設けられ、二十日後の6月1日には神崎(今の尼崎)駅・住吉駅も開業している。
これまで徒歩だと丸一日を要していた阪神間がわずか1時間7分で結ばれることとなり、経済活動は一気に花開いた。
この時の三ノ宮駅は三ノ宮神社の近くだという事で、今の元町駅の場所であり、元町駅も事実上は同時に150周年を迎える。
明治10年2月5日、京都・大阪間鉄道が開業、同時に京都・神戸間鉄道の開業式典が行われている。

なお、さらに明治15年、敦賀・長浜間鉄道が開業、琵琶湖の水運と日本海の海運を連絡する術が出来上がったが、幹線鉄道の敷設は経済的事情と戦術の軍事上の理由からの意見があり、遅々として進まなかった。
東海道五十三次をトレースする東海道経由が明らかに当時の日本にとって重要だったはずであるにもかかわらずである。
(中山道鉄道は結局、高崎線、信越本線の一部、中央本線の一部、東海道本線のごく一部が出来たものの、中間地点の軽井沢・塩尻間は未だに鉄道としてもあるいは高速道路としても実現もしていない)

開業間もない時代の神戸駅、相生橋からの撮影とされる絵葉書。
絵葉書資料館所蔵資料より。
絵葉書明治相生橋から見た汽車 (2).JPG

手前が今の多聞通、中央幹線だ。
ここに鉄道が駅ができるにあたり、町のど真ん中・・当時は湊川神社や元町周辺が神戸の都心だった・・を分断してしまう事から先進的な鉄道跨線橋「相生橋」が架けられた。
この橋は汽車を眺めるところとして神戸市民にとって名所と化し、のちには市電もここを通ることになる。

三ノ宮駅、今の元町付近にあった駅だ。
昭和初期の高架化・複々線化工事で三ノ宮駅は旧生田川を埋め立てた広大な土地に移されることになり、のちに阪神電鉄も三宮にターミナルを持つことになる。
列車がかなり立派で、長距離列車の雰囲気があるので東海道本線全通後の撮影だろう。
絵葉書明治三ノ宮駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

政府による鉄道建設が遅々として進まない中、民間資本による幹線鉄道敷設を許可することになり、明治16年には関東・東北に広く路線網を作り上げていく日本鉄道が、明治18年には関西私鉄最初の産声として阪堺鉄道(今の南海電鉄)が開業、そして山陽鉄道は明治21年に兵庫・明石間を、この年の年末に明石・姫路間を開業した。

翌明治22年7月1日、東海道本線がようやく全通し、東京新橋から神戸駅まで一本の鉄路で結ばれた。
当時の新橋・神戸間は20時間5分という事だから、今現在、新幹線で新神戸から東京まで約2時間45分、いやいや、青春18きっぷを使った鈍行旅ですら快速や普通で同じ区間を行けば9時間以内でいけるわけであり、現代人には何とものんびりした旅に感じられるだろうが、徒歩でおよそ12日を要した東海道区間を一日足らずで行けるようになったという事はまさに移動の革命でもあった。
同じ年の9月、山陽鉄道が神戸駅まで延伸し、新橋から姫路までが一本の鉄路でつながった。

この当時の列車はもちろん、蒸気機関車牽引で客車は当初は英国式のコンパートメントごとに扉がある形態のものだった。
阪神間鉄道の工事用に導入され、そのまま開業後は牽引機となり、のちに売却された加悦鉄道2号機。
加悦2号機.jpg

当時の各座席区画ごとに扉のある形態の客車、加悦鉄道ハ4995号。
0211加悦ハ4995.JPG

ただ、この形態では車内の移動も自由にならず、列車の長距離化にともない便所や車内移動も必要となり、米国式の中央通路式となっていく。

山陽鉄道が開業した頃の須磨海岸。
絵葉書明治須磨海岸と汽車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

山陽鉄道は明治24年に岡山、明治27年に広島、明治34年に馬関(下関)まで開業するが、明治39年、突然の鉄道国有化法により国有化され、今の山陽本線となった。

しかし一地方の私鉄に関しては国有化の対象から外され、阪堺鉄道はそのまま私鉄として残ることになり、やがて、阪堺鉄道に範をとった純然たる私鉄も登場する。
日本の市街電車以外の電化私鉄で二番目の開業となったのが阪神電気鉄道で、これは日本最初の幹線電気鉄道という画期的なものだった。
明治39年4月12日、大阪出入橋・神戸三宮(滝道)間を開業。
官設鉄道に比して数倍の駅を擁しながら、阪神間をおよそ60分で結んだ。
開業初期の阪神電鉄、場所は大石付近だろうか。
絵葉書明治大石付近阪神電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

さらに明治43年4月15日、今の山陽電鉄の前身にあたる兵庫電気軌道が兵庫から須磨までを開業、大正6年には明石に達する。
舞子公園駅における兵庫電気軌道の電車。
絵葉書大正舞子公園駅と兵庫電気軌道 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

須磨付近の神姫電鉄との合併後の電車。
宇治川電気か、山陽電気鉄道になっていたか・・・
絵葉書須磨国道と山陽電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

今の山陽本線舞子駅は構内に皇族専用ホームを有する駅で、通常の駅設備も公園中にある風流な駅だった。
絵葉書大正舞子駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

明治43年4月5日、神戸電気鉄道(今の神戸電鉄とは無関係の会社)により、市内電車が開業。
市内電車は建設の遅滞、市民からの利便性の追求などのため大正6年に市営化されるが、この辺りの事情は昨今の北神線市営化などとも似ている気がして、神戸独特の風潮というものがあるような気がしてならない。
多聞通を行く、市内電車。
絵葉書明治多聞通と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

大正期、湊川神社前を走る市内電車。
絵葉書大正湊川神社と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

栄町通の市電。
絵葉書明治栄町と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

二代目神戸駅の堂々とした外観と駅前の神戸市電。
絵葉書大正神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

昭和5年9月、東京・神戸間に画期的な超特急「燕」が運転された。
神戸市垂水区在故又野氏所蔵、新聞記事の「燕」試運転・・地上時代の神戸駅。
神戸駅マイテ燕試運転又野氏.jpg

こちらは2線で高架なった神戸駅に停車するC53形。
おそらく試運転だろうか。
これも又野氏所蔵、新聞記事より。
神戸駅C5343燕試運転又野氏.jpg

神戸駅を含む、三ノ宮・鷹取間は昭和6年10月10日に高架化された。
この高架工事にあたっては当時の技術の粋を集め、しかも駅の部分は可能な限りバリアフリーとしたゆったりとした設計で、さらに複々線化への準備工事も為されていた。
複々線化は昭和12年に完成、今のJR神戸線の形態に近くなった。
写真は高架化ができた当時の元町付近を走る列車。
絵葉書昭和元町付近の省線 (2).JPG

昭和9年には旧三ノ宮駅跡地に元町駅が開業している。

昭和6年の高架化で相生橋跨線橋は消滅したが、今も高架工事中の仮受けをするために設けられた梁を高架下で見ることができる。
神戸D51PARKの一番北の端、高架の橋脚に横渡ししてある梁が当時の相生橋仮橋の受けではないかと言われている。
1019神戸D51PARK相生橋仮橋跡.JPG
もちろん、昭和12年に完成した南側2線では、相生橋は消滅していたのでこのような横梁は存在しない。


昭和12年、電化なった東海道線のスターとして京都・神戸間に「急行電車」が登場。
最新の性能とデザインを備えた画期的な流線形電車は私鉄王国と言われた関西で、鉄道省の存在感を見せつけた。
写真は今も吹田工場で保管されている急行型電車、モハ52.
1031吹田モハ52全景.JPG

神戸駅を含む神戸市内高架線や、阪神・阪急・山陽などの私鉄はは阪神大水害、神戸大空襲、いくつもの台風、そして阪神淡路大震災を経験し、その都度、復旧されて今に至る。

そして市電廃止の前に、昭和43年4月7日、神戸高速鉄道が開業、相生橋跡地の地下に電車が走るようになった。
この場所では阪神電車と山陽電車が、線路北側の三宮方向には阪急電車と山陽電車が走るようになった。
同時に高速神戸駅の隣にできた新開地駅には神戸電鉄が乗り入れ神戸市内の私鉄が一堂に会するようになった。
この神戸高速鉄道は戦前から計画されていた私鉄各線の免許線を繋いだもので、例えば阪神電鉄の構想では以下の図のように考えられていた。
阪神乗り入れ予想図.jpg

当時、湊川が神戸の中心と考えられていて、神有電鉄(今の神戸電鉄)は省線神戸駅を目指したものの、阪神・山陽はいずれも湊川を目指していた。
もしこれができていると、神戸駅周辺は今現在は場末的な雰囲気になっていたかもしれない。
神戸高速鉄道が高速神戸駅を設けたことは、神戸駅にとっては都市の中心駅である最後の砦となったのかもしれない。

昭和12年ごろの阪神三宮駅、この建物は長年「そごう」として神戸市民に親しまれたが、今は「神戸阪急」として健在である。
絵葉書昭和阪神三宮駅 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

同じころの阪急神戸駅、今の阪急神戸三宮駅。
絵葉書昭和阪急神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

初の電車特急「こだま」は神戸から東京への日帰りを可能にした。
写真は今も川崎重工で保存されるクハ26001→クハ151-1→クハ181-1車両。
1018和田岬線川重クハ26.JPG

神戸駅は三ノ宮に都市中心部を持っていかれ、さらに新幹線新神戸駅の開業で東への長距離列車も消滅しながらも、駅南の湊川貨物駅は今やハーバーランドとなり、巨大なビジネス・ショッピング街を形成している。
神戸市の構想では数年で、都市中心駅に相応しい雰囲気を持たせるとのことで、期待も高まる。
なお、神戸駅東側に保存されているD511072 は、この湊川貨物駅まで、貨物列車に組まれて北海道からやってきた。
神戸に到着した際の写真が残っている。
昭和53年7月、奥清博氏撮影。
19780527湊川貨物駅D511072編成.jpg

今現在の神戸駅。
堂々たる3代目駅舎は健在だ。
0729神戸駅 (2).JPG

皇族専用に作られた貴賓室が近年まで健在であったのも神戸駅の特徴だ。
昨年までは「がんこ」店内の部屋として予約すれば使わせてもらったが、閉店、いま「Starbucks」の店として改装工事中だ。
改装後もあの雰囲気は残してもらえるのだろうか。
20220828神戸駅貴賓室.jpg

駅舎正面。
神戸駅2012.jpg

夕刻の神戸駅を。
歴史的建造物にも指定された駅舎が未来を見据えて建つ。
0423神戸駅.JPG

夜の神戸駅と月。
1028神戸駅と月.JPG


posted by こう@電車おやじ at 00:02| Comment(2) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする