山陽電鉄と言えば日本最初のアルミ電車を作った会社で、その後、一時期は大量増備の必要性から鋼製車に戻りながらも後にはまたアルミカーの天国となっていて、銀色の電車、もしくは鋼製車のクリームに赤黒の帯というのがイメージだ。
だが、その中にあってたった1両だけ、色が違う電車が存在していた。

「いた」と過去形で書いたのは、この電車、クハ3619号はすでに「さようなら」看板取り付けによる運行を終え、一両だけ編成から外されて留置されているからで、山陽電鉄を取り巻く環境が激変でもしない限り、本線上を走行することもないからだ。
(以下本文ではクハ称号を省略、他の電車についてもモハ・クモハ・サハは省略する)
3619号は山陽電鉄で唯一の「白い」電車で、内部の人からは「白子」、口さがないファンからは「ニセアルミ」と呼ばれていた。
今、この電車はさる鉄道ファンが名付けた「ホワイトエンジェル」というちょっと風貌には似つかわしくない愛称をつけてもらっていて、山陽電鉄公式でもそう呼ばれるようになっていた。

記録によると、この電車は昭和44年11月に竣工した。
現在で登場52年と6か月となる。
同期製造には3620と3028・29・30・31・32・33がいて、翌月には3200・3201も竣工している。
永らく3619はアルミカー3100のTcとして活躍していて、それゆえに車体色をアルミカーに合わせた「白」とし、赤帯を腰に巻いている。
だが、登場時はまず、3028FのTcとなっていたようだ。
僕は残念ながらこの3028FのTc時代の写真は持ち合わせていないし、またそういう写真を見たこともないが、電鉄内部の方の話によると確かに記録はそうなっているらしい。
後に山陽3000系は電動車が偶数先頭、奇数二両目、付随車・制御車が電動車の半分の数字、例えば、3010・3011・3505・3605という風に綺麗に並べられたが、この3619号が出た当時は神戸高速開業直後でとにかく忙しく、増備も大量で、竣工した順に編成を組んでいたものらしい。
これには熱心な担当者が、車両管理の上でわかりやすいように並べ替えるという作業を実施したことで実現したらしいが、2000系改造の3550形の竣工もあって編成変更も頻繁だったのだろうか。
電動車に比して制御車が多く作られたのは、神戸高速開業後、激増する乗客に対応するためにすぐに4連の編成を増やす必要があり、さらに2扉クロスシートの2000系はラッシュに対応できなくなり、この2000系を3扉ロングシート化、3000系の中間付随車とする計画があったためのようで、3550形改造ができていくと、それに合わせて今度は電動車を作り、その編成に中間T代用となっていたTcを使うということだったようだ。
さて、僕が知っている山陽3000系はほとんどが4連で、3000F~3016Fまでの8編成(3000系の先頭車は必ず偶数になる)では中間に新車の3500~3508を入れて4連化されていて、3020F~3036Fまでの9編成では、中間に2000系改造3550形の3550~3558を入れて4連化されていた。
余っているのが3018Fで、この編成だけはTcを増やしすぎたのか、3018・3019・3619・3609という編成になっていた。
なので僕が写真を撮り始めた昭和50年以降では、件の3619が原色のツートンカラーを纏って先頭に出た姿は見たことがなかった。
この写真の2両目が3619だ。

こちらは須磨浦公園で、後尾から2両目に3619が入った3018F、最後尾は3609だ。

僕らはこの編成を「9-19の編成」と言っていて、なぜかこれが来ると嬉しかった。
当時の山陽電鉄は恐ろしく標準化が進んでいて、特に3000系は両数が多く細かな差異を除けばほとんど違いのない、単調さに見えたからだろうか。

さて、3000系の増備は3200系残り2編成を終えて昭和47年から、冷房付き3050形に移行。
さらに会社の経営状況の好転、あるいは車両メーカー側のコストダウン、製造工程の簡略化がなされた故か、3050形増備の途中、昭和56年からニューアルミカーの登場となる。
最初に登場したのがツートンカラーに塗られた3066Fだ。
この編成のM車が新工法のアルミカー試作車で、これにMcを追加してこれもツートンに塗装し、Tc3638は山陽電鉄最後の鋼製車となった。

この次の増備車から無塗装(実際はクリアラッカー塗装)となり、同じ昭和56年、3068Fが登場する。

さらに将来の6両運転への準備も始まった。
すでに、神戸高速開業までに西舞子以東の上下ホーム、大蔵谷の上りホームは6連化されていて、やがて明石高架により、明石・人丸前駅も6連対応になる。
6連となれば、特急4連ゆえに乗り入れ先が阪神大石、阪急御影までなのが延長できる可能性もある。
車両の準備には長い期間が必要だろう。
昭和58年、3070Fと同時に竣工したのが、2連で下り側に運転台を持たない3100Fだった。
この2連は、既存の4連にラッシュ時のみ増結して6連とする構想で誕生した。
だが、テストはできてもまだ山陽の全駅が、いやせめて特急停車駅全てが6連化されているわけではなく、実際には使えない編成だ。
そこで「とりあえず」、余っている制御車3619に白羽の矢が立った。
けれど、3100・3101はアルミ無塗装となり、これにツートンカラーの電車を繋ぐというのはいかにも異様でもある。
そこで、車体を白に塗り赤い帯を回し、客用ドアをステンレス無塗装とし、アルミカーに合わせたイメージとなった。
この時、アルミに似せたからと言って銀に塗らなかったのは、賢明だったと僕は思う。
他社では普通鋼に銀を塗った車両も存在していたが、ぎらつきが過ぎ、如何にも厚化粧に見えてしまう。
その点、白に塗った故、清潔感が出て、乗客やファンに愛される車両となった。
写真は「850形さよなら運転」時の際に、東二見工場で見せてもらったもの。
すでに3100Fは走っていたが、この時は折よく車庫に居て、じっくり見せてもらうことが出来た。
3100のアルミ地肌、銀が眩しい。

反対側。

そして3619。
こうして、中間にいるのしか見ることが出来なかった車両が、まさに「異色」の存在となって先頭に出たことは本当に驚いた。

以降、この編成は山陽電鉄の中の文字通り異色の編成として静かな人気を呼んだ。
「白子」と車内の人に呼ばれ、「ニセアルミ」とファンに揶揄われながら愛された。
大塩付近を走る3100F。
3619が先頭だ。

サイドビュー。
古い電車と新しい電車の組み合わせだと思われがちだが、3619は3000系最終増備車両の一つでもあるし、決して無理な抜擢ではなかったと思う。

姫路方向へ去る。
3619・3101・3100の編成だ。

ずっと3連で走っていたと思われるこの編成だが、ほかの編成の事故などの時、復旧までに3530形を間に挟んで走ったこともある。
霞ヶ丘付近で、中間には3540を挟んでいたかと思う。

高架前の西新町で。
珍しく特急運用の姿。

3連運用の印象に残った情景を少し。
大勢の帰宅客が待つ別府駅ホームにて、3100が到着する。

舞子公園近く、築堤を行く。

JR朝霧駅近く。

後追い、3619。

明石海峡と3619。

加古川橋梁、南側から。

遠望。

板宿駅。

夕闇迫る舞子公園駅。

夜の西新町駅。

対向電車から滝の茶屋駅近く。

朝の明石駅。

JR明石駅から見る。

江井ヶ島近く。

大塩駅に進入する3100.

橋上駅が完成し、まだホームにドアカット表示の残る大塩駅で。

夜の東二見で特急待ち。

女性車掌がホームを監視する。

まさに一服の情景だ。

いよいよ、連休前から「さよなら」看板の取り付けが始まった。
昨今の「撮り鉄」の暴走行為が伝えられる中、それでも沿線利用客や沿線ファンに向けて謝恩の意味のある看板取り付けをよくぞしてくれたものだと思う。
これには、今回は引退とならない3100も加わり、そちら側にも3619の看板が取り付けられた。
永年の盟友との別れを惜しんでいるかのように見える。
看板付き列車を少し。
明石駅で。

塩屋駅。

後追い、3100。

高速神戸で阪神ジェットシルバーと出会う。

阪急神戸三宮のイメージでもある、ガードを行く3619.
電車はこのすぐ先で折り返す。

阪急神戸三宮の大屋根の下。

電車の車内には、社員さんが撮影したと思われる3619の写真がたくさん飾られていた。

江井ヶ島駅。

夜の西新町駅。

3100Fはこの後もしばらく生き残る。
連結相手はなんと、3070FのTc3640・T3540とのことだ。
これはどうも3070Fがかつて、歩行者用踏切に無理に侵入した自動車との衝突事故で脱線大破した過去があり、それゆえ車両の調子も良くなかったのではないかと個人的には推察する。
その3070Fと3100の出会い。

今度は編成を外された3070・3071の動向が気になるところだ。
江井ヶ島付近を行く3100の流し撮り。

編成中間3101。

3619の流し撮り。

異色の存在でありながらもシステム的には完成された3000系のものを持ち、安定した保守性ゆえに長生きできた3619。
僅か1両の車両のためにこのブログをここまで掘り下げるのは珍しいと自分でも思う。
だが、派手ではないものの、それがこの車両の人気だったと、輝きだったとそれが僕自身の気持ちでもある。

お疲れさま、3619号。

ヘッドライトを点灯させて3619が発車する。