ここに小さなパンフレットがある。
僕が国鉄高砂工場在籍の頃、工場を見学した人たちに配られたもので、工場の現状と沿革などが簡潔にまとめられている。
表紙と裏表紙。
当時のスター車両であるキハ82が木工大建屋を背景に出場準備をしているところだ。
車両前面貫通扉が開いたままなのはご愛嬌か。

沿革と組織。
かなり大きな組織だったことがわかる。

職員数と車両修繕。
高砂工場と言えば客車、気動車の工場として知られていたが、客車に比して気動車の管轄は半分ほどだ。
また、僅かに貨車も担当しているが、両数としては当然ながら当時、タクト方式という流れ作業を行い、日に12両もの入出場をしていた鷹取の足元には及ばない。

平面図。
国鉄工場きっての広大な土地を有し、試運転線は1キロもあった。
気動車の試運転でも時速50キロ程度は出せたのだ。

高砂工場は戦後混乱期に高砂工機部として誕生し、車両の急速な復旧、時代の進展とともに進む車両の改善に大きな役割を果たしたが、電化区間の延伸、客車列車の削減でその存在意義が問われた。
おりしも入出場経路である国鉄高砂線が国鉄再建法に基づく第一次廃止対象線区に指定されてしまい、その路線が撤去されると工場そのものが存続できない事態となり、昭和59年に廃止、完全撤収は昭和62年だった。
パンフにも略歴は紹介されているが、これでは高砂工場の存在を語る上では物足りない。
高砂工場は昭和41年に創立20周年を迎え、「高砂工場史」を編纂しているが、この書物は当時在籍の職員や関係者に配られただけで、一般には流通しておらず、鉄道博物館の図書室にもその存在がない。
僕はこの書物を一度、先輩からお借りして読んだことはあるが、コピーも取らず返却しており、その方もすでに故人となられもはや手に入れる術がない。
ただ、JR西日本になってから編纂された「近畿地方の日本国有鉄道」に詳しくはないもののこの20年史から記述されたとみられる箇所がいくつもあり、また国鉄工場の部内誌「鉄道工場」が今も資料として保存されていて、その中からピックアップできるポイントもある。
高砂工場は兵庫県高砂市の海岸沿いに広大な敷地を有していたが、それでも創設当時の敷地は廃止時の4倍ほどもあったと言われている。
ここで国土地理院が閲覧・使用を許可してくださる航空写真を見ておきたい。

昭和22年、米軍が撮影したとされる航空写真で画面の左下に高砂工機部の様子がはっきりと見える。
黄線で囲んだところが高砂工場用地と察せられる部分。
赤線が高砂線から分岐する専用線だ。
もともと、戦時に陸軍兵廠播磨製造所として航空機や武器を製造するために作られた設備であり、荷役のできる岸壁を有し、航空機の離発着ができる広さ、それに航空機の格納庫、航空機をラインで製造できる大建屋を有していた。
国鉄工機部として発足する際、多くの技術者を中途採用したという。
当時の国鉄は粛清の嵐が吹き荒れていたが、高砂工機部のスタートに至ってはそんなことは言ってられなかったのだろう。
僕の在籍時でも発足時、あるいは鋼体化工事の際に中途採用された先輩方が「ボーシン」や「サクシ→工作指導掛」として活躍されていた。
この当時、朝鮮戦争で疲弊した旧朝鮮総督府鉄道の車両を日本で修繕せよという指令がGHQから出された。
機関車は汽車会社など使えるメーカーがあったが、客車については岸壁を有する高砂工場に白羽の矢が立った。
当時の担当者たちは大型の大陸鉄道を検査修繕できるよう、標準軌の試運転線を含めた設備として大量の客車を受け入れるべく準備をしたそうだ。
しかし、朝鮮半島南部の戦争がかなり落ち着きを見せたことで、現地で修繕が可能となり、高砂に搬入されたのは優等客車数両であったと言われている。
同じころ、日本国内では激増する輸送需要に酷使される古い車両が大問題となっていた。
老朽化し脆くなった木造車は、ちょっとした事故でも大被害を出してしまう。
そこで国鉄では木造客車の鋼体化を早急に実施することになり、ここで高砂工機部は大活躍をすることになる。
この時に登場したオハ60・61系客車の中には今でも保存車両としてその姿を見ることができるものもある。
天理駅前に保存されている車両。
なお、動画が残っている。
https://youtu.be/K481r0Kh6gw
高砂工機部はその発足当時から気動車の修繕を行ってきたが、戦後すぐの気動車とはどういうものだったのだろうか。
戦前に広く使われたキハ41000や42000形のガソリン、あるいは木炭化された車両も相当数あっただろう、それらをディーゼル化した工事ではなかったか。
写真は大宮鉄道博物館にて。
鉄道省買収前の高砂線をはじめ、加古川線、三木線、北条線、鍛冶屋線は戦前開業の私鉄「播丹鉄道」で、気動車両数は日本一を誇った。
社員は国鉄に引き継がれたはずで、この鉄道の関係者も高砂創立の頃に活躍されたのだろうか。
僕の友人でお爺様が阪和電鉄で車両検修をされていた方があり、その方は戦時合併により国鉄マンとなり、三代続く国鉄一家だった人があり、今もJR西日本の第一線で活躍されている。。
播丹鉄道の技術者も国鉄で活躍されたに違いない。
(余談だが播但鉄道の気動車は神戸電鉄粟生線の開業時にあの急こう配で使われたという記録もある)
昭和27年には工機部から本社直属の「日本国有鉄道高砂工場」に組織が変更になっている
なお組織はこののち、関西支社高砂工場、大阪鉄道管理局高砂工場へと変わっていく。
昭和30年代から国鉄車両は大きく変貌する。
軽量、高性能な気動車や、デラックスでデザインの良い客車の登場だ。
高砂工機部はその時代時代、最先端の車両を担当していく。
受け持ちには名門、宮原客車区や向日町運転所もあり、東京・大阪間特急の復活、それの発展、気動車準急、急行、そして気動車特急の登場。
ただ、固定編成客車20系の受け持ちは、関西発着の夜行列車が特急化される昭和40年代初めまで待たねばならない。

この頃昭和38年の航空写真だ。
国土地理院撮影。

黄色枠内が高砂工場で、昭和22年の写真と比すと用地がかなりコンパクトになっているのが分かる。
国鉄工場の西(左)は神戸製鋼所高砂工場、東(右)は当時工事中だった三菱重工高砂工場だ。
客車・気動車の名門。
だが、昭和40年代にも幹線の電化が進む。
通勤気動車を大量に走らせていた関西本線、当時は第一級の観光地だった紀勢本線が電化、そして陰陽連絡の重要線区である伯備線も電化され振り子形特急に置き換わる。
高砂工場が担ってきた通勤列車や特急・急行列車の電車化が相次ぎ、客車は、夜行列車の縮小、普通列車の小単位フリークエントサービスへの転換での気動車化、電車化が進む。
高砂工場でも気動車用エンジンの西日本一括管理、製材についても西日本以西の国鉄工場用のすべてを一括して管理するという、集約、近代化も図られる。
だが、担当車両に電車がないのは致命的だったのかもしれない。
高砂線の問題はまさにこういう時に起こったと言えるだろう。
昭和50年代以降、当時の高砂工場はAスパン計画として、固定編成客車や特急気動車を編成単位で入場させ、一気に検査修繕をするべく設備の改修に余念がなかった。
二つだったトラバーサに加え、大建屋内部にトラバーサを設置、戦時の建物である大建屋(旅客車主棟)の大改造を行っていた。
けれど、今にして思えば、これらは必要のない工事だったと言うしかない。

完成したAスパン計画は、結局それができた時点でほとんど必要のないものになってしまっていた。
昭和58年秋、読売新聞が国鉄高砂工場の廃止をすっぱ抜いた。
工場職員、地元住民には寝耳に水だ。
国越高砂線も存在すべき必要性が消えうせた。
この当時の航空写真が残っている。
国土地理院昭和55年撮影だ。
黄色の枠内が国鉄高砂工場だ。

高砂工場の廃止には、当時、国労だけで固められていた組合つぶしの目的もあったと言われるが、時代の趨勢を読む限り、高砂工場の廃止・撤退はやむを得なかったというのが実情だろう。
だが折角の鉄道工場、せめて地元山陽電鉄の工場としてでも再起できなかったか…
いや、山陽電鉄には広大過ぎる…
では関西私鉄各社の共有の工場として活用出来たら・・
それらはすべて夢の中の夢でしかない。
高砂工場の先行きに陰りが見え始めたころ、大鉄局は「サロンカーなにわ」を企画した。
今から見ればいろいろ突っ込みどころのある車両だが、のちに鷹取で(もちろん、高砂から移った社員も参加している)更新され、未だに活躍しているのはこの工事に当時下っ端として加わらせてもらった僕自身の驚きでもある。
高砂工場としては昭和59年で終了したが、車両とそれを担当する職員は殆どは鷹取に、一部は吹田、後藤、多度津などに移籍した。
そして昭和61年、高砂出自の職員が中心になって作り上げたのが「みやび」だ。
この時も僕は参加させていただき、試運転や客車区での手直しにも行かせてもらった。
自分に良い記念品ができた・・この車両は何十年も多くの方々に親しまれるだろうと確信して、僕は国鉄を辞めた。
その年の冬、記念碑的な列車は冬の余部橋梁で季節風の中を無理に走行して転落、地元住民の方々を大勢巻き込む大事故となった。

国鉄高砂工場の今現在知ることのできる精一杯の年表をここに記録しておく。
なお、この年表は今後、未知の資料等が出て訂正するべきことができた時、また、当時を知る方々からのご指摘があったときはいつでも訂正したいと考えている。
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国鉄高砂工場年表
高砂工場史
昭和16年3月 大阪陸軍造兵廠播磨製造所として発足
昭和20年6月5日 神戸大空襲、鷹取工機部、壊滅的な被害を受ける
加茂、和田山に客車職場を、加古川に貨車職場を設置
昭和21年1月20日 大阪鉄道局鷹取工機部高砂分工場として発足
敷地面積1,604,353㎡、建物総面積169,604㎡、線路長21km
12月1日 貨車修繕を加古川職場より移転
昭和22年8月 高砂工機部として独立
昭和23年4月1日 客車・気動車修繕を鷹取工機部より移管
昭和24年 施設の集約工事を開始(終了は昭和29年)
昭和24年4月 木造客車の鋼体化着手
9月15日 特急復活、「へいわ」東京大阪間1往復、10両編成
イテ・ロ・ロ・ロ・ロ・ハ・ハ・ハ
東京9:00→大阪午後6時
大阪正午→東京午後9時
昭和25年2月 自社水道を近隣に配水開始
加古川橋梁北100メートルで取水、米田ポンプ室→場内配水池
8月1日、 大阪鉄道管理局設置
10月1日 スピードアップの大時刻改正
昭和26年2月1日 製材職場を吹田工機部安治川職場より移設
昭和27年8月5日 本社直属、日本国有鉄道高砂工場
昭和28年3月20日 阪和・紀勢線準急「なんき」運転開始(昭和34年気動車化)
昭和29年 二軸貨車の二段リンク式改造
2月1日 福知山線気動車列車運転開始
昭和30年3月22日 関西本線準急「かすが」気動車で運転開始
昭和31年4月~ オシ17改造工事開始
昭和32年1月16日 関西支社高砂工場
昭和33年6月10日 加古川線合理化、加古川気動車区誕生
昭和36年10月1日 気動車特急「まつかぜ」「白鳥」運転開始
昭和37年1月 特急気動車修繕開始
4月 関西以西の工場で使用する車両木材の集中製作を開始
昭和38年 遊休地を兵庫県開発公社に売却、のちに三菱重工
昭和39年5月18日~ 全国客貨車車輪タイヤの緊急取り換え工事
昭和40年3月1日 気動車特急「くろしお」「あすか」運転開始
昭和41年3月1日 高砂工場創立20周年記念式典
総人員1321名(男1307名、女14名)
敷地面積527,714㎡、建物総面積80,297㎡、線路長15.117km
昭和41年2月 固定編成客車(20系)修繕開始
昭和45年3月 12系客車投入
昭和47年3月15日 気動車特急「はまかぜ」運転開始
昭和50年11月1日 中国道ハイウェイバス、国鉄・神姫で計12便運行開始
昭和51年10月 関西の気動車用内燃機関の集中修繕を開始
昭和51年10月1日 二段寝台客車運行開始
昭和53年11月1日 播但線50系客車投入
昭和54年7月14日 スロ81系お座敷客車竣工
昭和56年7月4日 天鉄局12系お座敷客車竣工
昭和58年9月24日 サロンカーなにわ、営業開始
11月25日 高砂工場廃止正式決定
昭和59年3月30日 貨車職場廃止
昭和59年6月30日 第一次配置転換、車両関係職員を鷹取はじめ5工場へ移動
7月1日 高砂工場廃止
最終出場車 オハネ2568、スハネフ155、キハ180-33・47
11月30日 高砂線(特定地方交通線)廃止
昭和60年3月25日 第二次配置転換部品系職員、なお事務職は4月1日
(内燃機職場は当面存続し鷹取工場第二内燃機職場となる)
昭和61年2月8日 和風客車「みやび」鷹取工場で竣工
11月 第二内燃機職場を鷹取工場内燃機職場に統合
(小型エンジンは後藤工場に移管)
昭和62年3月31日 第三次配置転換
廃車解体、残務整理などで残った職員の配置転換完了
改造中の「ミハ座」スロ81系
ミハ座完成時の記念品、しおり。

更新工事のキロ28、当初は徹底的にオリジナルの状態に仕上げたものだった。
遠く、北海道向けスハネフ14の改造工事。
通勤気動車が並ぶ入場トラバーサー。

サロンカーなにわ、切妻になった車掌室側。
ここにこそ高砂の意地が見える。
高砂の傑作、ナハ21(←ナロネ21)

高砂工場と運命を共にした国鉄高砂線。
高砂工場への配給列車。
