2023年07月01日

国鉄高砂工場の歴史



ここに小さなパンフレットがある。
僕が国鉄高砂工場在籍の頃、工場を見学した人たちに配られたもので、工場の現状と沿革などが簡潔にまとめられている。
表紙と裏表紙。
当時のスター車両であるキハ82が木工大建屋を背景に出場準備をしているところだ。
車両前面貫通扉が開いたままなのはご愛嬌か。
高砂工場パンフ表紙と路線.jpg

沿革と組織。
かなり大きな組織だったことがわかる。
高砂工場パンフ組織と沿革.jpg

職員数と車両修繕。
高砂工場と言えば客車、気動車の工場として知られていたが、客車に比して気動車の管轄は半分ほどだ。
また、僅かに貨車も担当しているが、両数としては当然ながら当時、タクト方式という流れ作業を行い、日に12両もの入出場をしていた鷹取の足元には及ばない。
高砂工場パンフ職員と車両.jpg

平面図。
国鉄工場きっての広大な土地を有し、試運転線は1キロもあった。
気動車の試運転でも時速50キロ程度は出せたのだ。
高砂工場パンフ構内平面図.jpg

高砂工場は戦後混乱期に高砂工機部として誕生し、車両の急速な復旧、時代の進展とともに進む車両の改善に大きな役割を果たしたが、電化区間の延伸、客車列車の削減でその存在意義が問われた。
おりしも入出場経路である国鉄高砂線が国鉄再建法に基づく第一次廃止対象線区に指定されてしまい、その路線が撤去されると工場そのものが存続できない事態となり、昭和59年に廃止、完全撤収は昭和62年だった。

パンフにも略歴は紹介されているが、これでは高砂工場の存在を語る上では物足りない。
高砂工場は昭和41年に創立20周年を迎え、「高砂工場史」を編纂しているが、この書物は当時在籍の職員や関係者に配られただけで、一般には流通しておらず、鉄道博物館の図書室にもその存在がない。
僕はこの書物を一度、先輩からお借りして読んだことはあるが、コピーも取らず返却しており、その方もすでに故人となられもはや手に入れる術がない。
ただ、JR西日本になってから編纂された「近畿地方の日本国有鉄道」に詳しくはないもののこの20年史から記述されたとみられる箇所がいくつもあり、また国鉄工場の部内誌「鉄道工場」が今も資料として保存されていて、その中からピックアップできるポイントもある。

高砂工場は兵庫県高砂市の海岸沿いに広大な敷地を有していたが、それでも創設当時の敷地は廃止時の4倍ほどもあったと言われている。
ここで国土地理院が閲覧・使用を許可してくださる航空写真を見ておきたい。
高砂工場空撮昭和22年米軍web敷地線路記入.jpg

昭和22年、米軍が撮影したとされる航空写真で画面の左下に高砂工機部の様子がはっきりと見える。
黄線で囲んだところが高砂工場用地と察せられる部分。
赤線が高砂線から分岐する専用線だ。
もともと、戦時に陸軍兵廠播磨製造所として航空機や武器を製造するために作られた設備であり、荷役のできる岸壁を有し、航空機の離発着ができる広さ、それに航空機の格納庫、航空機をラインで製造できる大建屋を有していた。

国鉄工機部として発足する際、多くの技術者を中途採用したという。
当時の国鉄は粛清の嵐が吹き荒れていたが、高砂工機部のスタートに至ってはそんなことは言ってられなかったのだろう。
僕の在籍時でも発足時、あるいは鋼体化工事の際に中途採用された先輩方が「ボーシン」や「サクシ→工作指導掛」として活躍されていた。

この当時、朝鮮戦争で疲弊した旧朝鮮総督府鉄道の車両を日本で修繕せよという指令がGHQから出された。
機関車は汽車会社など使えるメーカーがあったが、客車については岸壁を有する高砂工場に白羽の矢が立った。
当時の担当者たちは大型の大陸鉄道を検査修繕できるよう、標準軌の試運転線を含めた設備として大量の客車を受け入れるべく準備をしたそうだ。
しかし、朝鮮半島南部の戦争がかなり落ち着きを見せたことで、現地で修繕が可能となり、高砂に搬入されたのは優等客車数両であったと言われている。

同じころ、日本国内では激増する輸送需要に酷使される古い車両が大問題となっていた。
老朽化し脆くなった木造車は、ちょっとした事故でも大被害を出してしまう。
そこで国鉄では木造客車の鋼体化を早急に実施することになり、ここで高砂工機部は大活躍をすることになる。
この時に登場したオハ60・61系客車の中には今でも保存車両としてその姿を見ることができるものもある。
天理駅前に保存されている車両。
1120天理オハ61930.JPG

なお、動画が残っている。
https://youtu.be/K481r0Kh6gw

高砂工機部はその発足当時から気動車の修繕を行ってきたが、戦後すぐの気動車とはどういうものだったのだろうか。
戦前に広く使われたキハ41000や42000形のガソリン、あるいは木炭化された車両も相当数あっただろう、それらをディーゼル化した工事ではなかったか。
写真は大宮鉄道博物館にて。
0726鉄博キハ41307.JPG

鉄道省買収前の高砂線をはじめ、加古川線、三木線、北条線、鍛冶屋線は戦前開業の私鉄「播丹鉄道」で、気動車両数は日本一を誇った。
社員は国鉄に引き継がれたはずで、この鉄道の関係者も高砂創立の頃に活躍されたのだろうか。
僕の友人でお爺様が阪和電鉄で車両検修をされていた方があり、その方は戦時合併により国鉄マンとなり、三代続く国鉄一家だった人があり、今もJR西日本の第一線で活躍されている。。
播丹鉄道の技術者も国鉄で活躍されたに違いない。
(余談だが播但鉄道の気動車は神戸電鉄粟生線の開業時にあの急こう配で使われたという記録もある)

昭和27年には工機部から本社直属の「日本国有鉄道高砂工場」に組織が変更になっている
なお組織はこののち、関西支社高砂工場、大阪鉄道管理局高砂工場へと変わっていく。

昭和30年代から国鉄車両は大きく変貌する。
軽量、高性能な気動車や、デラックスでデザインの良い客車の登場だ。
高砂工機部はその時代時代、最先端の車両を担当していく。
受け持ちには名門、宮原客車区や向日町運転所もあり、東京・大阪間特急の復活、それの発展、気動車準急、急行、そして気動車特急の登場。
新高砂工場キハ82出車建屋.JPG

ただ、固定編成客車20系の受け持ちは、関西発着の夜行列車が特急化される昭和40年代初めまで待たねばならない。
ナハネ2225高砂.jpg

この頃昭和38年の航空写真だ。
国土地理院撮影。
高砂工場空撮昭和38年web敷地線路記入.jpg

黄色枠内が高砂工場で、昭和22年の写真と比すと用地がかなりコンパクトになっているのが分かる。
国鉄工場の西(左)は神戸製鋼所高砂工場、東(右)は当時工事中だった三菱重工高砂工場だ。


客車・気動車の名門。
だが、昭和40年代にも幹線の電化が進む。
通勤気動車を大量に走らせていた関西本線、当時は第一級の観光地だった紀勢本線が電化、そして陰陽連絡の重要線区である伯備線も電化され振り子形特急に置き換わる。
高砂工場が担ってきた通勤列車や特急・急行列車の電車化が相次ぎ、客車は、夜行列車の縮小、普通列車の小単位フリークエントサービスへの転換での気動車化、電車化が進む。
高砂工場でも気動車用エンジンの西日本一括管理、製材についても西日本以西の国鉄工場用のすべてを一括して管理するという、集約、近代化も図られる。
だが、担当車両に電車がないのは致命的だったのかもしれない。
新高砂工場キシ8034ジャッキアップ全景.JPG

高砂線の問題はまさにこういう時に起こったと言えるだろう。
昭和50年代以降、当時の高砂工場はAスパン計画として、固定編成客車や特急気動車を編成単位で入場させ、一気に検査修繕をするべく設備の改修に余念がなかった。
二つだったトラバーサに加え、大建屋内部にトラバーサを設置、戦時の建物である大建屋(旅客車主棟)の大改造を行っていた。
けれど、今にして思えば、これらは必要のない工事だったと言うしかない。
国鉄高砂Aスパン.jpg

完成したAスパン計画は、結局それができた時点でほとんど必要のないものになってしまっていた。
昭和58年秋、読売新聞が国鉄高砂工場の廃止をすっぱ抜いた。
工場職員、地元住民には寝耳に水だ。
国越高砂線も存在すべき必要性が消えうせた。
この当時の航空写真が残っている。
国土地理院昭和55年撮影だ。
黄色の枠内が国鉄高砂工場だ。
高砂工場空撮昭和55年web敷地記入.jpg

高砂工場の廃止には、当時、国労だけで固められていた組合つぶしの目的もあったと言われるが、時代の趨勢を読む限り、高砂工場の廃止・撤退はやむを得なかったというのが実情だろう。
だが折角の鉄道工場、せめて地元山陽電鉄の工場としてでも再起できなかったか…
いや、山陽電鉄には広大過ぎる…
では関西私鉄各社の共有の工場として活用出来たら・・
それらはすべて夢の中の夢でしかない。


高砂工場の先行きに陰りが見え始めたころ、大鉄局は「サロンカーなにわ」を企画した。
今から見ればいろいろ突っ込みどころのある車両だが、のちに鷹取で(もちろん、高砂から移った社員も参加している)更新され、未だに活躍しているのはこの工事に当時下っ端として加わらせてもらった僕自身の驚きでもある。
サロンカーなにわ高砂完成時.JPG

高砂工場としては昭和59年で終了したが、車両とそれを担当する職員は殆どは鷹取に、一部は吹田、後藤、多度津などに移籍した。
そして昭和61年、高砂出自の職員が中心になって作り上げたのが「みやび」だ。
この時も僕は参加させていただき、試運転や客車区での手直しにも行かせてもらった。
自分に良い記念品ができた・・この車両は何十年も多くの方々に親しまれるだろうと確信して、僕は国鉄を辞めた。
その年の冬、記念碑的な列車は冬の余部橋梁で季節風の中を無理に走行して転落、地元住民の方々を大勢巻き込む大事故となった。
みやび完成当初.jpg

国鉄高砂工場の今現在知ることのできる精一杯の年表をここに記録しておく。
なお、この年表は今後、未知の資料等が出て訂正するべきことができた時、また、当時を知る方々からのご指摘があったときはいつでも訂正したいと考えている。

*********

国鉄高砂工場年表

高砂工場史
昭和16年3月    大阪陸軍造兵廠播磨製造所として発足
昭和20年6月5日   神戸大空襲、鷹取工機部、壊滅的な被害を受ける
          加茂、和田山に客車職場を、加古川に貨車職場を設置
昭和21年1月20日  大阪鉄道局鷹取工機部高砂分工場として発足
          敷地面積1,604,353㎡、建物総面積169,604㎡、線路長21km
    12月1日  貨車修繕を加古川職場より移転
昭和22年8月    高砂工機部として独立
昭和23年4月1日   客車・気動車修繕を鷹取工機部より移管
昭和24年      施設の集約工事を開始(終了は昭和29年)
昭和24年4月    木造客車の鋼体化着手
    9月15日  特急復活、「へいわ」東京大阪間1往復、10両編成 
          イテ・ロ・ロ・ロ・ロ・ハ・ハ・ハ
          東京9:00→大阪午後6時
          大阪正午→東京午後9時
昭和25年2月    自社水道を近隣に配水開始
         加古川橋梁北100メートルで取水、米田ポンプ室→場内配水池
    8月1日、  大阪鉄道管理局設置
    10月1日  スピードアップの大時刻改正
昭和26年2月1日   製材職場を吹田工機部安治川職場より移設
昭和27年8月5日   本社直属、日本国有鉄道高砂工場
昭和28年3月20日  阪和・紀勢線準急「なんき」運転開始(昭和34年気動車化)
昭和29年      二軸貨車の二段リンク式改造
    2月1日   福知山線気動車列車運転開始
昭和30年3月22日  関西本線準急「かすが」気動車で運転開始
昭和31年4月~   オシ17改造工事開始
昭和32年1月16日  関西支社高砂工場
昭和33年6月10日  加古川線合理化、加古川気動車区誕生
昭和36年10月1日  気動車特急「まつかぜ」「白鳥」運転開始
昭和37年1月    特急気動車修繕開始
    4月    関西以西の工場で使用する車両木材の集中製作を開始
昭和38年      遊休地を兵庫県開発公社に売却、のちに三菱重工
昭和39年5月18日~ 全国客貨車車輪タイヤの緊急取り換え工事
昭和40年3月1日   気動車特急「くろしお」「あすか」運転開始
昭和41年3月1日   高砂工場創立20周年記念式典
          総人員1321名(男1307名、女14名)
      敷地面積527,714㎡、建物総面積80,297㎡、線路長15.117km   
昭和41年2月    固定編成客車(20系)修繕開始
昭和45年3月    12系客車投入
昭和47年3月15日  気動車特急「はまかぜ」運転開始
昭和50年11月1日  中国道ハイウェイバス、国鉄・神姫で計12便運行開始
昭和51年10月    関西の気動車用内燃機関の集中修繕を開始
昭和51年10月1日  二段寝台客車運行開始
昭和53年11月1日  播但線50系客車投入
昭和54年7月14日  スロ81系お座敷客車竣工
昭和56年7月4日   天鉄局12系お座敷客車竣工
昭和58年9月24日  サロンカーなにわ、営業開始
    11月25日  高砂工場廃止正式決定
昭和59年3月30日  貨車職場廃止
昭和59年6月30日  第一次配置転換、車両関係職員を鷹取はじめ5工場へ移動
    7月1日   高砂工場廃止
          最終出場車 オハネ2568、スハネフ155、キハ180-33・47
    11月30日  高砂線(特定地方交通線)廃止
昭和60年3月25日  第二次配置転換部品系職員、なお事務職は4月1日
          (内燃機職場は当面存続し鷹取工場第二内燃機職場となる)
昭和61年2月8日   和風客車「みやび」鷹取工場で竣工
    11月    第二内燃機職場を鷹取工場内燃機職場に統合
           (小型エンジンは後藤工場に移管)
昭和62年3月31日  第三次配置転換
          廃車解体、残務整理などで残った職員の配置転換完了



改造中の「ミハ座」スロ81系
新高砂宮座スロ622070改造工事.JPG

ミハ座完成時の記念品、しおり。
高砂お座敷しおり.jpg

更新工事のキロ28、当初は徹底的にオリジナルの状態に仕上げたものだった。
新高砂工場キロ28下降窓更新主棟.JPG

遠く、北海道向けスハネフ14の改造工事。
新高砂スハネフ14寒冷地出車.JPG

通勤気動車が並ぶ入場トラバーサー。
国鉄高砂前待機線キハ35.jpg

サロンカーなにわ、切妻になった車掌室側。
ここにこそ高砂の意地が見える。
新高砂なにわスロフ14703後位.JPG

高砂の傑作、ナハ21(←ナロネ21)
高砂aナハ21車内.jpg

高砂工場と運命を共にした国鉄高砂線。
高砂工場への配給列車。
山陽・高砂線DD13614.jpg
posted by こう@電車おやじ at 20:26| Comment(12) | 国鉄部内の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月30日

国鉄高砂工場新系列客車の記録

今回は高砂工場でのシリーズ最終回、12・14・20・24系客車の写真だ。
ただ、あまり多くを撮影しておらず、しかも、「サロンカーなにわ」の写真が中心となること、お許し願いたい。

当時最新鋭だったオハネ25、走行距離が長く、頻繁に工場に入場していた。
このクルマは宮原所属、当時の「日本海」「つるぎ」の車両だろう。
新高砂オハネ25番号不明.JPG

こちらは向日町所属だから、九州特急のものだ。
50系との連結なんて、国鉄現場の内部でしか見られない。
新高砂オハネフ25大ムコ.JPG

オハネ2538が工場建屋間を移動する。
左が入場建屋、右が旅客車主棟だ。
新高砂オハネフ2538移動.JPG

スハネフ14の寒冷地改造。
現車はすでに「きたぐに」でも運用されていたが、北海道へ転用とのこと。
折り戸から引き戸への改造が外観上最大のポイントだ。
新高砂スハネフ14寒冷地改造工事中.JPG

出車建屋でのスハネフ14、当時、すでに長年の使用による疲れが見えるようになっていた。
新高砂スハネフ14寒冷地完成.JPG

完成し試運転に出る前のスハネフ14。
新高砂スハネフ14寒冷地出車.JPG

24系と20系の間に位置するのがカニ25、九州の小倉工場での改造だが、向日町へ転じてきたもの。
一度は全般検査をしたが、二度目の入場時は廃車解体だった。
新高砂カニ251サイド.JPG

連結面側から
(車掌室のある客車は車掌室と反対側が「前位」となる・・つまり国鉄部内ではこちらが前)
新高砂カニ251斜めサイド.JPG

カラーで、お顔の部分。
新高砂カニ251横顔.JPG

屋根の部分。
新高砂カニ251屋根.JPG

スハフ12、横の建て看板、「Tク」は鉄工職場現場の略。
つまり、鉄工作業中。
新高砂スハフ12.JPG

20系客車のシンボル、ナハネフ2225。
全般検査前の入場で。
この車両はいまも西宮の山中に現存と聞く。
一度見てみたいものだ。
新高砂ナハネフ2225.JPG

ナハネ20。
20系客車独特の幅広の貫通路、手動の折り戸。
新高砂ナハネ20サイド.JPG

ナハネフ23の外板修理の様子。
この車両ではワタシが担当して、鉄工職場のT君と組んで修理していた。
しかし、下降窓付近の腐食がひどく、思ったより大工事になってしまった。
新高砂ナハネフ23改修.JPG

サロンカーなにわ、その第一号の施工がオロ14706だった。
番号は「サロンエクスプレス東京」の続きになっている。
現車は品川からの転属らしい。
当時の余剰車を掻き集めての工事だった。
新高砂なにわオロ14改造工事.JPG

外観塗装が完成した。
新高砂なにわオロ14706塗装完成.JPG

全景。
新高砂なにわオロ14706塗装完成2.JPG

車内の工事もほぼ出来上がりつつある状態。
新高砂なにわオロ14706車内工事中.JPG

表記も仕上がった。
新高砂なにわオロ14706塗装場.JPG

別のオロ14も仕上がった。
新高砂なにわオロ14番号不明出車.JPG

こちらは展望車、スロフ14703の鋼体工事。
特徴的な展望室の形が出来上がりつつある。
新高砂なにわスロフ14703工事鋼体.JPG

室内での作業も始まった。
夏の季節だったのか、スポットクーラーを用いている。
窓の開かない特急車両など、スポットクーラーがなければ夏場の作業などできない。
新高砂なにわスロフ14703作業展望室側.JPG

妻部の工事、旧来の丸妻車掌室部分を切妻に改造、車端ダンパもつけられる。
新高砂なにわスロフ14703妻鋼体.JPG

完成した「サロンカーなにわ」
新高砂なにわスロフ17703一位側.JPG

展望車の車掌室側。
まったく改造である事がわからない。
大宮で施工した「サロンエクスプレス東京」はこの部分が丸妻のままだった。
デザイン的にはあちらが洗練されていたが、工事の丁寧さ、乗客へ乗り心地の提供という点においては、高砂の気骨を示した格好だ。
新高砂なにわスロフ14703後位.JPG

威風堂々の展望車。
新高砂なにわスロフ14703外観斜め.JPG

今になって思えば、この形であったからこそ、時代を超えて愛されているのではなかろうか。
新高砂なにわスロフ14703外観二位側.JPG

オロ14706の完成した車内。
カーテンキセのない横引きカーテン、クーラーカバーは茶色に塗装され、荷物棚には濃い茶系のカバーがついた。
新高砂なにわオロ14706車内.JPG

ステンドグラス部分。
新高砂なにわオロ14706車内ステンドグラス.JPG

反対側のプロジェクター、当時としては高価なナショナル製のものだ。
新高砂なにわオロ14706車内プロジェクター.JPG

完成した展望車の入換作業。
どこかのんびりした、播磨の工場らしい雰囲気が漂う。
新高砂なにわオロ14入替.JPG

展望車、スロフ14703の車内。
新高砂なにわスロフ14703車内展望室.JPG

ビュッフェのカウンター。
天井は白のクロス、シャンデリアなどの金属部分は金色、木製の開き戸、そして豪華なカウンター、当時の喫茶店文化をそのままここに移植したような雰囲気だ。
新高砂なにわスロフ14703車内ビュッフェ.JPG

完成、報道発表の日の「サロンカーなにわ」
「我々の技術力を世間に知らしめ、工場の存続を図る」そのシンボルがこの車両だったわけだ。
新高砂なにわ完成.JPG

家族にも公開された。
写真はワタシの妹たち。
新高砂なにわと妹.JPG

最近、網干総合車両所で行われた工場公開での「サロンカーなにわ」車内。
鷹取における更新工事で、高砂の作り上げた喫茶店風のイメージから脱却し、鉄道車両らしくなった。
サロンカーなにわ現代の車内1.jpg

展望室の様子。
車内はかなり洗練されたものとなっていた。
サロンカーなにわ、現代の車内2.jpg

わが地元を行く最近の「サロンカーなにわ」フル編成。
JR西日本、唯一のジョイフルトレインの生き残り、登場から35年になるがどうか末永く活躍してほしい。
サロンカーなにわ現代大蔵谷駅.jpg

posted by こう@電車おやじ at 07:47| Comment(5) | 国鉄部内の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

国鉄高砂工場、一般型客車の記録

今回は高砂での客車の記録だ。
20系以降の新系列客車は次の機会とし、普通列車や急行列車に使われた客車たちの工場での姿を紹介したい。
なお、一部にこれまで未公開だった写真も含まれるほか、過去に公開した写真も再スキャンのうえサイズアップして公開したい。

オハ35、戦前の標準型原型を保った美しい姿。
竜華の所属だが車両区記号は書き換えたあとがあり、和歌山か亀山からの転属だろうか。
番号不明。
新高砂オハ35番号不明初期型.JPG

オハ641、和田岬線用の究極的通勤客車とでも呼べるもの。
中ドアは高砂での設計施工で、このシリーズは全般検査では僕も深くかかわってきた。
新高砂オハ641.JPG

オハフ33455、こちらは戦後製のキノコ型と呼ばれる妻形態を持つ。
屋根は鋼板製だ。
新高砂オハフ33455斜め.JPG

それの別の日に撮影した一枚。
新高砂オハフ33455別日.JPG

前にも出したがオハ35を改造というか、車番変更したオヤ304、オハ31系出自だった前車と入れ替えて出場した。吹田操車場の通勤用だ。
新高砂オヤ304.JPG

オハ41シリーズはいずれも通勤ラッシュの激しい線区に投入された、元優等車両で全て2ドア化、ロングシート化されている。

番号不明、オハ41が並べられている。
350番台だろうか。
岡山の伯備線電化や新型客車投入による余剰で廃車になったもの。
新高砂オハ41.JPG

オハ41351、元特ロ、43一党に相当する二等車出自。
新高砂オハ41351.JPG

オハ41365、こちらも同じグループ。
新高砂オハ41365.JPG

オハ41367。
新高砂オハ41367.JPG

このグループの車内。
オハ41共通だが、全長18メートルにも及ぶ「ロング」シート。
しかし、通勤時しか使われず、それも大抵のところで1~2往復で終わりという使われ方で、廃車時にも傷みはほとんどなかった。
新高砂オハ41車内.JPG

オハ41454、スロフ53からの改造車で、客車の中では異色とも言える狭い吹き寄せの明快な窓配置が特長だった。
新高砂オハ41454全景.JPG

そのアップ、アルミ窓枠が似合う、見るには美しい車両だ。
新高砂オハ41454アップ.JPG

オハ4154、オロ40からの改造車で、35一党の広窓をさらに一回り広くした窓を持っていた。
新高砂オハ4154.JPG

その車内。
新高砂オハ4154車内.JPG

窓、窓が大きくなる分、かなりの重量増になる。
オハ35やスハ43で用いられた釣り合いバネでは、ややバネの復元力が足らず、傷むバネの交換が多かった記憶がある。窓幅は1200ミリだった。
新高砂オハ4154窓.JPG

オハネフ1213、夜行鈍行「南紀」に使われていた車両で、写真は廃車時のものだが、前回入場の再の大規模な補修跡が見える。
水抜きが不十分な加工窓、弱い材質、冷房化工事での無理な負荷が重なり、製造20年でほとんど使い物にならないくらい劣化していた。
新高砂オハネフ1213.JPG

オハネフ12の妻面。
新高砂オハネ12妻.JPG

製造・改造銘板。
短い一生の間に二度も大掛かりな手が加えられた事が伺える。
新高砂オハネ12妻銘板.JPG

車内。
解体前提ですでに鏡がはずされている。
新高砂オハネ12車内.JPG

寝台。
20系とは異なり、中段寝台が座席使用時の背もたれになる。
背もたれの上の壁面は開く事ができた。
新高砂オハネ12寝台.JPG

全般検査の作業中。
新高砂オハネ12工事中.JPG

オロネ10、「きたぐに」で使われいたもの、
廃車時に3両が並べられた。
オロネ102032ほか。
新高砂オロネ102032.JPG

オロネ102039サイド中央のアップ。
オロネ10はほかの10系客車と異なり、腐食部分が少なく、最後まで上質な雰囲気を保っていた。
新高砂オロネ102039サイド.JPG

オロネ102032ほか。
新高砂オロネ102039ほか.JPG

オロネ102032の中央部。
新高砂オロネ102032中央.JPG

オロネ102066。
新高砂オロネ102066.JPG

オロネ10の車内。
絨毯がはがされ、寝台も付属品がない状態でも上質さがうかがえる。
新高砂オロネ10車内.JPG

寝台、昼間は折りたたんでボックスシートとして使う。
新高砂オロネ10寝台.JPG

喫煙室。
非常口の部分に簡単な喫煙室があった。
新高砂オロネ10喫煙室.JPG

スロフ622021、全般検査で整備前の解体作業が終わったところ。
当時、天鉄も団体用途に一編成、このシリーズを有していた。
新高砂スロフ622021.JPG

スロ622047、ネガではこの車番が読み取れる。
天王寺所属表記だが、資料によれば品川にいたクルマ、ただし、写真でも所属表記が書き換えられているのがわかる。
新高砂スロ622047入場作業.JPG

スロ622070、スロ81系お座敷客車への改造工事。
編成中の「山城」になったようだ。
この81系客車は、システム的には12系とそろえられていた。
新高砂宮座スロ622070改造工事.JPG

その側面。
新高砂宮座スロ622070.JPG

スロ62のスロ81への改造作業。
すでに外観の作業が完了している。
新高砂スロ62お座敷改造工事解体.JPG

ナハ10102、現場では嫌われた10系客車は見るには美しかった。
新高砂ナハ10102.JPG

客車の通風器。
外した部品は専門の職場できちんと整備される。
作業前の積み上げの様子。
新高砂通風器.JPG

蓄電池。
車軸発電機により発生した電気は蓄電池を使って保存され、照明や放送に使う。
考えれば客車はエコ設計だった。
新高砂蓄電池.JPG

マヤ342007、以前のエントリー「事業用車の記録」で掲載漏れだったもの・・
この形式が今も存在することに驚きを感じている。
新高砂マヤ342007.JPG

オハフ50、50系客車は一般客車の置き換えように自動ドア装備で登場した。
けれど、基本的な考え方は旧型客車と変わらず、そういう意味では時代に置き去りにされる運命をもっていたのかもしれない。
新高砂オハフ50.JPG

最後に、高砂工場の奥にとどめられていたスロ601。
廃車解体と指図されても、現場の心ある人には、エポックメイキングな車両は貴重な資料であると認識する人もあり、こうして長年解体されず保管されていた。
けれど、その間に車内は虫の巣となり、屋根も崩壊してくる。
結局、保存されず解体されてしまった。
新高砂スロ601.JPG
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2017年04月11日

国鉄高砂工場、特急・急行気動車の記録

今回は気動車の残り、特急・急行気動車の写真だ。

まずは今、鉄道博物館で保存されているキハ81の写真から。

キハ81は、残り2両が名古屋・天王寺直通の「くろしお」で使われていた。

最後の2両は3と5だ。

今、鉄道博物館に居るキハ813から。

新高砂工場キハ813左斜め.JPG


こちらはサイド、後ろのキハ58は全検、キハ81は廃車で入場したのに、なぜか、全検待機線に入れられていた。

新高砂工場キハ813右サイド.JPG


で・・キハ815、このクルマは当時の僕に時間があったらしく、かなり撮影している。

後ろにマニを従えた入場の様子。

マニは全検だ。

新高砂工場キハ815.JPG


車番部分、切り抜き数字はすでに外されているが、後を見ると確かにキハ815と読める。

新高砂工場キハ815車番部分.JPG


運転台。

こうしてみると、傾斜させたパノラマミックウィンドウが如何にもかっこいい。

新高砂工場キハ815運転台.JPG


台車。

やはり特急形ゆえ、151系電車と同構造のエアサスだ。

新高砂工場キハ815台車.JPG


右側面。

決して不細工などではない、特急形らしい格好良さと風格にあふれている。

新高砂工場キハ815右サイド斜め.JPG


テールライト部分。

造詣に苦心した当時のデザイナーや製作担当者の苦労がしのばれる。

新高砂工場キハ815テール.JPG


前頭部の右サイド。

こうしてみると、151系電車にも負けない風格を持っていたのがわかる。

新高砂工場キハ815顔右.JPG


左サイド。

向こうに全検のスハ43が見える。

新高砂工場キハ815顔サイド.JPG


左全景。

何度も言うが決して悪くない造形デザイン、キハ81は登場当時の混乱をいまだに語る人があるが、関西で「くろしお」電化まで使われたことを見ると、安定した良い車両だったのだろう。

新高砂工場キハ815左斜め.JPG


正面デザイン。

やはり当時としては151系よりはこちらのほうがずっと上に見えるデザインだったのではないだろうか。

新高砂工場キハ815正面.JPG


全般検査入場のキシ80、若番のキシ805。

新高砂工場キシ805.JPG


その車内。

全検前で荒れた感じはするが、カーテンが二種類設定されているのがわかる。

僕が「まつかぜ」で乗車したキシ80はカーテンは巻き上げ式だけになっていた。

新高砂工場キシ80車内.JPG


キシ8034のジャッキアップの様子。

全検入場車は、入場時にエンジンを交換してしまう。

新高砂工場キシ8034ジャッキアップ全景.JPG


そのエンジン、別に整備されたエンジンが用意される。

新高砂工場キシ80エンジン交換.JPG


妻部分。

車体断面が如何にも高速向けの特急車両だ。

新高砂工場キシ8034ジャッキアップ妻部.JPG


入場するキハ80。

トラバーサの上に居る。

高砂には入場、出場と、建屋内にトラバーサがあった。

新高砂工場キハ80入場トラバーサー.JPG


塗装作業中のキロ80、国鉄工場では先に濃い色を吹き付ける。

新高砂工場キロ80塗装工事.JPG


出車線のキハ806、初期型だが状態が良いのが残された(ことになっている)

新高砂工場キハ80入場トラバーサー.JPG


出車線、キロ80。

新車と変わらないほどに磨き上げられた優等車両。

新高砂工場キロ80出車建屋.JPG


出車作業中のキハ82、国鉄特急列車の看板だったこの顔は、後輩のキハ181も含めれば日本列島を走り回った。

新高砂工場キハ82出車建屋.JPG


こちらは廃車のキハ82、キハ8245と読めるが、この車番は北海道にいたクルマのはずで、何故にここにいるのか、未だによく分からない。

永年と言っても、車齢わずかに20年ほど、彼らに比べれば今の車両は随分長寿ではある。

新高砂工場キハ8245?.JPG


こちらはキハ28系列のキロ28、その更新工事の様子を・・・

下降窓の腐食が激しく、更新されることになったキロ28だが、オハネフ12などと同じく、下降窓の水抜き対策や、車体鋼体の材質に問題があった。

結局、腐食対策として更新されることになる。

キロ28、入場時の美しい外観、台車はキハ80系列から流用のエアサスになっている。

新高砂工場キロ2878天ワカ.JPG


更新のための解体が済んだ様子。

新高砂工場キロ2876天ワカ.JPG


最初は原形のまま、更新された。

新高砂工場キロ28下降窓更新主棟.JPG


だが、それでは問題の抜本的解決にならず、小さな二段窓に変更することになった。

その工事中の外観。

新高砂工場キロ28二段窓更新全景.JPG


こちら、メーカーから送られてきたユニット窓のひずみを取っているところ。

新高砂工場キロ28更新用窓枠.JPG


窓を取り付けたところ。

新高砂工場キロ28更新窓取り付け.JPG


車端部の様子。

新高砂工場キロ28更新窓差車端.JPG


車内から見た様子。

新高砂工場キロ28更新車内取り付け.JPG


更新工事中の車内。

徹底的に内装も新品になる。

新高砂工場キロ28更新車内.JPG


完成したキロ282190、当時は「きのくに」に使われていた。

新高砂工場キロ282190更新.JPG


こちら、キハ58ジャッキアップの様子。

キハ58339だ。

新高砂工場キハ58339主棟.JPG


入場建屋のキハ28、なぜか、こういう当時のメジャー車両はあまり撮影していない。

新高砂工場キハ28入場建屋.JPG


このあと、高砂にはキハ181、キユニ改造、キハ40シリーズなども入ってきたが、それらを撮影した記憶はないし、ネガは見つかっていない。


だんだん、高砂工場の居心地が悪くなっていった頃だ。

最後にもう一度、キハ81の雄姿を。。

新高砂工場キハ815別日.JPG


キハ81の最後の2両は解体前提で入場してきて、僕らも部品取りに入り、他の車両との共通の部品を外したものだ。

いつの間にか、キハ813が保存されることになり、けれど、本来は博物館での保存車両は元の受け持ち工場において整備する慣わしだったのに、現状のまま運搬され、業者によって復元がなされた。

それゆえか、京都で保存されている現車にはいくぶんかの誤りも見られるが、それはもう致し方のないことであろうか。
posted by こう@電車おやじ at 23:51| Comment(26) | 国鉄部内の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月27日

国鉄高砂工場、一般型気動車の記録

今回は高砂工場での気動車の写真を集めてみた。
ただ、写真の数が多いので今回は一般型、郵便・荷物用途のものとしたい。
なお、あくまでも仕事の休憩時間や終業後に、ぶらりと撮影したもので、決して系統だって撮影しているわけではない点、ご容赦いただきたい。
まずは10番台気動車から。

廃車解体待ちの車両キハ17110。
新高砂工場キハ17110.JPG

キハ17、番号不明。
朱色に塗られた車両も検査切れを待たずに解体。
新高砂工場キハ17朱.JPG

キユニ111これも解体待ち。
新高砂工場キユニ111.JPG

キハユニ151、岡山区のトップナンバーで、貫通型に改造されていた。
しかし、貫通化しても、まさか乗客を郵便室内に歩かせるわけにもいかず、どうやって貫通方式の利点を生かすつもりだったのだろう。
新高砂工場キハユニ151.JPG

その室内、10系気動車初期の、粗末な客室だ。
新高砂工場キハユニ151車内.JPG

キハユニ151、妻面。
新高砂工場キハユニ151妻.JPG

加古川線のアイドル的存在だったキハユニ153。
新高砂工場キハユニ153.JPG

キハ20、番号不明、工場の主棟でエンジンの積み替え中。
新高砂工場キハ20ジャッキアップ.JPG

鉄鋼職場の友人が彼自ら修理した箇所を指しているところ。
新高砂工場キハ20補修工事.JPG

キハ2085。
新高砂工場キハ2085.JPG

解体待ちのキハ20連結部。
標準色と朱色の連結。
新高砂工場キハ20連結部.JPG

キハ2031。
新高砂工場キハ2031.JPG

キハ2087。
僕は、国鉄が作った車両で一番の傑作を上げろといわれたら、迷うことなくこのキハ20を選ぶだろう。
新高砂工場キハ2087ほか.JPG

キハ26247、準急用だが、急行用とは運用でも一線を画していたので一般用の中で紹介する。
これは岡山区にいたクルマ、廃車解体待ちの様子。
新高砂工場キハ26247岡オカ.JPG

キハ26183、これも岡山のクルマ、伯備線電化による余剰車なのだろう。
新高砂工場キハ26183岡オカ.JPG

キハ26の廃車解体作業、その前段階、鋼体のみにする作業。
新高砂工場キハ26解体作業.JPG

その車内の様子。
天井以外のすべてが取り払われている。
壁面に白く映るのは、アスベストを吹き付けている様子。
だれも、アスベストを怖がらなかった国鉄の、今になって思えば能天気な作業。
新高砂工場キハ26解体車内.JPG

キユニ2612。
廃車解体待ち。
新高砂工場キハユニ2612.JPG

キユニ267、これも同上。
新高砂工場キユニ267.JPG

たぶん、キユニだと思うがその車内。
新高砂工場キユニ車内.JPG

キハ30系列。
通勤車両だが、閑散線区にも入り込み、不評を買っていたキハ30系列。
キハ35の主棟での作業。
新高砂工場キハ35主棟作業.JPG

検査入場待ちのキハ35。
入場トラバーサーの手前で待機している。
新高砂工場キハ35入場待機.JPG

新鋭、キハ371001、加古川線に投入されたが、試験投入の2両で終わった。
朝早くに見に行くと、霧に囲まれていた。
新高砂工場キハ371001斜め下から.JPG

少し時間を置いて撮影。
この気動車がスタンダードにならなかったのが悔やまれる。
すでにキハ40系列がいきわたり、電化も進展、キハ37の出番はなかった。
新高砂工場キハ371001.JPG
posted by こう@電車おやじ at 21:39| Comment(4) | 国鉄部内の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする