2024年03月18日

理想を求めたJR第一世代転クロ近郊型

先だっての2024年3月ダイヤ改正で、わが地元、神戸・明石から白い快速221系が静かに撤退した。
今回のダイヤ改正は名鉄や近鉄、関東各社など一部私鉄なども含めた大変大掛かりなもので、その分、話題も多く、特に北陸新幹線の敦賀開業、関西・中京と北陸を結ぶ特急の敦賀打ち切りは大きな話題となった。
だが派手な改正の陰で、静かに地元から消えていった名車に思いを寄せる人は如何ほどおられるのだろうか。
そう、JR西日本221系の東海道山陽線(通称Aライン)からの撤退だ。
(ただし、当面、播但線運用として網干区に1編成が残るほか、向日町・草津間の草津線・湖西線運用、新大阪駅前後でのおおさか東線運用はこのラインで僅かながら見られることになる)
221新快速須磨一の谷.JPG

JR西日本221系は1989年、平成元年の登場だ。
同じ年にJR東海の311系、JR九州の811系が登場、その前年、1988年(昭和63年)には新生JRグループで初の新設計近郊型、JR北海道721系が登場している。

これら4系列はいずれも3ドア、転換クロスを採用。
国鉄はその末期において将来の車両の理想像を、特急型=リクライニングシート、急行型=簡易リクライニングシート、近郊型=ゆったりしたロングシートもしくは転換式クロスシート、通勤型=ロングシートと定めていて、ラッシュ混雑がまだまだ激化の一途をたどった首都圏をもつ、JR東日本以外のJR各社は、理想を転換クロスシートに求めた。
ただ、国鉄が作り出したキハ66・117系・115系3000台、213系のような2ドアではなく、むしろ名鉄6000系や山陽5000系、近鉄5200系といった私鉄の3ドアクロス車に範を求めたのかもしれない。

最初に転クロ近郊型を出したのがJR北海道721系であり、分割民営化直後の新会社の「やる気」を感じさせるには十分だった。
それまでの極寒地での車両は2ドアという慣例を破った3ドア車両、そして急行型を上回る居住性を持つ転換クロス・・
1106南千歳721系並び.JPG

近郊型は乗客の移動距離も長く、通勤通学用途とはいえ、ある程度の快適さを追及する必要があったわけだ。
特に私鉄と競合し、なんとしても乗客を奪わねばならなかった京阪神地区を持つJR西日本、中京地区のJR東海には快適な近郊型=快速用車両の登場は急務だったと言えるのだろう。
JR東海の場合、真横で派手に転クロ車ばかりを走らせていた当時の名鉄を凌駕するには画期的な近郊型311系が必要だった。
しかも名鉄はJR発足前にSR系をモデルチェンジして再増備を進めていた。
0722稲沢311系.JPG

九州においても西鉄への対抗、そして旧来の国鉄式、狭苦しいシートの近郊型からの脱却を狙って811系を登場させている。
0505門司港811系.JPG


快調に走り始め、好評だったこれら、JR化初期の転クロ近郊型ではあったが、線区によっては激化するラッシュへの対応に無理を感じることもあり、やがてはラッシュ用に立ち席を増やしたり、あるいはロングシートに基準を変更したりしているシーンも数多い。

ただ、JR西日本に限っては北陸地区から山陽地区まで、一部ワンマン専用の線区や純然たる通勤電車区間を除けば、押しなべて転クロ車で統一されており、現状では京阪神新快速と同じサービスレベルの車両が各線区で走っているということになっている。
(気動車も新型では転クロとされていて電車のイメージを地方にもの意気込みを感じる・・その割に紀勢線南部の観光路線でわざわざロングシートに設計変更した227系を走らせているのは、ラッシュ時の混雑の激しい和歌山線との共通運用とはいえ、やや疑問にも感じるが)

ただ、僕自身が全国のこれら車輛を登場当時から見ることができていたわけではない。
仕事・生活に追われろくに鉄道趣味活動も出来なかった時代、あるいはせっかく北海道へ仕事で行っても、とても鉄道路線などに近づく時間的余裕のない時代もあり、関西圏・中京圏以外ではなかなか追うことができなかったのもまた現実だ。

彼らの活躍はまさに、雑誌やのちにはネットでようやく知るだけでもあった。

理想を追求してその理想通りに事が運べば全く問題はなく、喜ばしい限りだが鉄道にはラッシュ輸送という重要な使命がある。
特に別途特別料金を収受するわけでもない近郊型電車のサービスアップは、逆に言えば座れない乗客と座っている乗客との格差となって表れてしまう。
もちろん、クロスシート設定にすることで座っている乗客と立っている乗客の間での例えば「足を踏んだ」などのトラブルは激減されるが、それ以前に詰め込みの問題だろう。
関西や中京のようにそう言った車内設備に慣れている乗客が多ければそれなりにうまく利用していただけるのだろうが、なかなかそうはいかない。
九州では今後は近郊型電車はすべてロングシートである旨が発表されているし、北海道でも731系からは極寒地向けのロングシートという新しい標準が出来上がった。
関西で馴染みのある転換クロスという形態が一部地域で否定されてきたわけで、ファンとしては少々残念に思うところもあり、また致し方なしと思う事もある。

さて初期転クロ通勤型・・
理想を求めただけに、ゆったりとした座席を多くしたものがほとんどだ。
この点、JR各社の参考になったと言われる1988年登場の近鉄5200系は3ドアで大半の座席が進行方向を向けるが、ドア横には立ち席スペースも設けられていた。
(近鉄は車体長が1メートル長いゆえ可能になる配置だった、逆に車体幅は近鉄が150ミリ狭い)
近鉄5156堅下.jpg

その車内(更新後)、車体幅が狭いゆえに、座席もJR各社と比すと狭くなっている。
010501名古屋近鉄5200系車内 (2).JPG

JR西日本221系はその増備規模も大きく、一気に新快速・大和路快速を置き換えた。
これにより新快速の120キロ運転が実現し、大幅なスピードアップ、そして一気にイメージチェンジを果たした。
京阪神間の乗客は激増、全列車の8連運転、やがて12連運転へと進化していくが乗客が増えるとドア横にほとんど立ち席スペースのない構造ではラッシュ輸送に限界を感じてしまう。
この系列はドア横に戸袋窓があり、その部分にも座席が設置されていた。
221系並走須磨.JPG

未更新の車内、座席生地は変更されている。
1231快速221車内.JPG

221系の後、阪和線用に登場した223系0番台は221系と同じ窓配置の車内の座席は片側一列の3列だった。
0527野田223-0.jpg

だが、223系を京阪神用にアレンジした1000番台では近鉄5200系と同じく、出入り口脇の戸袋部分に立ち席を設け、混雑時以外はここの補助席を使える構造となって、ラッシュ用の立ち席に配慮したものとなった。
1118垂水223-1000.JPG

そうなると221系の出入り口付近も改善の必要性が高まる。
結局、221系は1両辺り座席を3列撤去して、立ち席スペースとし、閑散時にはそこで補助席が使えるように改造された。
大掛かりな車体改修も必要と言われていたが、鋼製車ゆえの思い切ったデザインにはほとんど手を加えられることなくラッシュ対応改造ができたのだから一利用者である僕もホッとしたものだ。
0729関西線221リニューアル車内.JPG

少しでも座席をゆったりとさせたい近郊型、あるいは快速用途の車両では、常にラッシュ輸送との板挟みをどうするかが命題になってしまうが、それでも工夫を凝らしながら転換クロスを貫くJR西日本には脱帽する。

だが、このあとの転落防止柵取り付けについては、元々のデザインが非常に美しい流線形である221系にはどう考えても防止柵のデザインそれ自体が納得ができない。
せめて柵の地色を黒にして車体色と分ければ遠目には良かったのではないだろうか。
0311兵庫221系12連.JPG

JR東海の311系も戸袋窓を持つタイプで、221系と同じ欠点を抱えている。
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だがこちらは総両数が60両とやや控えめなこともあり、後継の313系に主力列車の座を明け渡すことにより、車いすスペース以外の改造は行われていない。
0326東海311車内.JPG

特急用371系と並ぶ311系、この両系列を4両程度の一本の編成とし、特急「ふじかわ」「伊那路」などを一部特別車の快速化すれば、非常に使いやすい列車になるのではないだろうか。
0825豊橋311系371系.JPG

JR九州では近郊型電車は基本的にロングシート化されることが発表されている。
それはそれで地域の実情に合わせるのだから致し方のないことだろう。
聞けばロングシートもこれまでの水戸岡デザインとは異なり、ベンチ状ではなくクッションのあるものらしい。
0505小倉811系リニューアル編成.JPG

理想を追求しても地域の特性もあるし、会社の体力の問題もある。
ある程度後退するのはやむを得ないだろうが、せめて快速列車に特別な編成が欲しいと思うのは、たまにそこへ出かける旅行者の勝手な思いなのだろうか。
新旧の近郊型電車が並ぶ。
0505小倉811系813系.JPG

JR北海道も札幌都市圏のラッシュ混雑の激化は大問題になっていた。
特に乗降時間を短縮するためにロングシートの電車を投入。
寒冷地でありながら、仕切りドアを持たず、エアカーテンで車内外を分けるやり方で、純然たる通勤電車の投入となった。
721系は今も活躍しているが、傷みが目立ち、特に窓に貼った飛散防止フィルムの劣化により、殆ど車窓が楽しめない現状は哀しいものがある。
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721系の車内。
非常に高品質な車両だ。
1003新千歳空港721系車内.JPG

JR東海が中央線に315系ロングシート車を投入、通勤仕様でありながら落ち着いた車内は好評らしい。
このあと、315系に都市快速用のクロスシート車ができるのかどうか、その辺りが東海の近郊型将来像の見極めだろうか。
お隣の名鉄では特急用途以外の転クロ車は製造されなくなっている。
当面、211系や311系を315系で置き換える作業が続くが、そのあとという事だ。

国鉄が解体され、JRが誕生して早37年になる。
これまでこの世代の転クロ車両は東海の一部を除いては引退はしていなかったが、西の221系は京阪神から追われ、北の721系も置き換え用車両の設計に着手されたと伝わってきている。
クロスシートを徹底し、奮闘する西は今後もクロスシート主体で行けるだろうか。

更新後も奈良所属の221系のうち、6連、8連のものは今でも転落防止策のない美しい姿で走っている。
その雄姿を。
221系D11更新ホロ未設置野田.jpg

JR東海311系が並んだ。
左はトップナンバー編成、右はラスト編成だ。
1217尾頭橋311系並び左トップナンバー.JPG

posted by こう@電車おやじ at 21:06| Comment(2) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年12月23日

宗谷本線勇知、デジタイズスキャンで蘇る・・

(本稿の写真は以前にエントリーしたものが多くなっていますが、今回はデジタイズアダプターでスキャン、高画質なデータをPhotoshopで加工したもので写真類の一新をしています)
昭和62年6月、傷心から、いったん何もかも捨てて北へ渡った僕は、それでも鉄道を楽しもうとする自分にも半ば呆れてはいた。
だが、心を無にし、素直に列車に乗ること、列車を見ることは傷ついた心を癒す大きな力になったのもまた事実だった。

広い北海道を当てもなく列車に乗る。
一気に行った稚内ですぐに折り返し、キハ56を両運転台改造したキハ53504の普通列車で勇知という駅で降りた。
勇知キハ53504.JPG

駅舎は車掌車がぽつんと置かれているだけだ。
だが、脇の暖房装置が北海道を物語る。
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駅の周りを歩いてみた。
花が盛んだ。
北海道の春は一度にやってくる。。
開花前のルピナス。
勇知ルピナス.JPG

こちらは開花したもの。
勇知ルピナス 開花.JPG

ムラサキツメクサ。
勇知ムラサキツメクサ.JPG

デイジー。
勇知デイジー.JPG

駅すぐ近くに牧場が見える。
勇知牧場.JPG

構内、ただの棒線駅だ。
だがこの味わいはどうだ。
勇知構内.JPG

急行「宗谷」が来た。
先頭はDD511093、前2両が寝台車、後ろ4両が座席車で、この当時は夜行列車と昼行列車を同じ車両で運行する編成があり、寝台車は座席指定として使われた。
コンパートメント式の座席指定・・ついぞ乗らずに終わったが如何にも北海道らしい列車だと思う。
勇知DD511093宗谷.JPG

機関車の次位はスハネフ14だ。
勇知DD511093次位スハネフ14.JPG

スハネフ14・オハネ14と続いてオハ14となる。
勇知DD511093スハネフ・オハネ.JPG

昼間のブルートレイン、なぜこういう北海道らしい列車を残しておいてくれなかったのだろう。
勇知14系宗谷後尾.JPG

遠くへ過ぎていく列車。
勇知急行宗谷遠望.JPG

キハ40がやってきた。
キハ40228、この当時としてはまだ新車の香りが漂っていた。
勇知キハ40228遠望.JPG

接近する。
勇知キハ40228.JPG

去っていく単行気動車。
勇知キハ40228後追い.JPG

この時以来、未だに宗谷本線には乗れていない。
いつか時間的精神的に余裕ができたなら乗りに行きたい、そしてもう一度再訪したい宗谷本線勇知である。
posted by こう@電車おやじ at 22:34| Comment(0) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年04月12日

由良川橋梁

国鉄宮津線→北近畿タンゴ鉄道宮津線→WILLER TRAINS京都丹後鉄道宮舞線
第三セクター後も迷走を続ける鉄道だが、国際観光地でもある天橋立や丹後由良を擁する景色の良い路線でもある。

このブログでは10年前に現在の丹鉄全体を取り上げているが、改めてこの橋梁のことを取り上げたいと思う。

僕は国鉄時代にはこの橋梁を渡ったことはあっても撮影には赴かなかったように思う。
だが、当初はまだ国鉄の香りが良い意味で強く残っていて、撮影していて楽しい列車が多かった。
平成2年4月から第三セクターとしての運行が始まった。

由良川は友人と丹後神崎にドライブに行ったときに立ち寄ったのが最初だ。
余部橋梁とは真逆の低い、水面に近い、海に近い橋梁・・幅の広い川と海の境目のあたりを列車は今も昔もゆっくり進む。

同時に走り出したKTR001形、タンゴエクスプローラーは気動車の常識を覆すような意欲作で、当時の撮影目的はまずこの車両だった。
由良川KTR001(大).jpg

いつ見てもカッコよく、美しい車両だった。
北近畿タンゴ鉄道由良川KTR001.JPG

6×6版ポジのタンゴエクスプローラー。
北近畿tタンゴ鉄道KTR001由良川.JPG

丹後神崎側から川を渡る様子を。
由良川KTR001サイド.jpg

まだまだキハ181が元気な時代、JRからは特急「あさしお」が乗り入れていた。
長い8連だ。
1990由良川キハ181あさしおSide.JPG

こちらは5連。
北近畿宮津キハ181あさしお5連由良川.jpg

そして貫禄があり、華やかでもあったのが急行列車「丹後」だ。
言わずと知れたキハ28・58系で、時には7連なんて長い編成で走ったものだ。
北近畿宮津キハ28急行7連由良川.jpg

こちらは6連。
由良川キハ28系6連.jpg

そして4連。
北近畿宮津由良川キハ28急行4連.jpg

国鉄からは普通列車としてもキハ28系が入ってくる。
この普通列車は2連だ。
由良川キハ28系2連.jpg

北近畿タンゴ鉄道もキハ28系を購入し、2両の観光列車と2両の一般用に使った。
残念ながらここでエーデルタイプの前頭部を持ったKTR1002・2002をこの橋梁で見たことはなく、1001・2001の写真があるだけだ。
当時は運行情報も少なかった。
北近畿宮津キハ28社線由良川.jpg

銀の車体が景色に良く映えていた。
北近畿宮津キハ28社線遠望由良川.jpg

だが、すでに宮福線が開業した後であり、さらに宮福線の電化、高速化で福知山から宮津へ行く系統が主流になっていくと、宮津線特に宮舞線区間は置き忘れられたような存在になった。
丹後由良や丹後神崎が観光地としての地位を低下させ、特急列車は通らなくなり生活路線として生きるようになってしまう。
そうなると人口はさして多くない地域で、鉄道の維持が難しい。

それでも景色の美しさは変わらない。
せめてもの救いが転換クロスシートを持った大型車だという事だろうか。
だが、かつての長大編成の特急・急行が走っていた時代を知るものには哀しい・・
0314由良川丹鉄801・2.JPG

海と空を背景に単行気動車が行く。
0314由良川丹鉄701アップ.JPG

この橋梁の場所が川と海の境目のあたりだという事が分かる。
0314由良川丹鉄803・2.JPG

辛うじてこの路線が観光路線であることを示してくれる列車「くろまつ」が行く。
0211丹後由良丹鉄くろまつ.JPG

京都丹後鉄道ではJR東海の気動車を購入したと聞く。
もはや廃車同然となったタンゴエクスプローラに代わり、この風光明媚な区間での女王になってくれることを祈る。

最後に心細い由良川橋梁の軌道を。
0314丹鉄由良川橋梁701車中から.JPG
posted by こう@電車おやじ at 21:05| Comment(6) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月06日

和田岬線103系詩情

山陽本線の支線である和田岬線に103系が走り始めたのは平成13年(2001年)7月1日の全線電化による同線のダイヤ改正からだ。
0212和田岬線103-6_01.JPG

和田岬支線は元々、兵庫区の臨海工業地帯への通勤輸送として、貨物輸送と併用して運行されてきた路線だった。
神戸臨海部には東灘操車場と鷹取操車場を起点とする二つの貨物線が複雑に敷かれていて、僕も幼少期は目の前を貨物線が通る安アパートに住んでいたものだ。
貨物鉄道と市民生活はいろんな場面で直結していた。
だが、貨物輸送の相次ぐ合理化、企業の運営形態の変化で次々に貨物輸送が削減され、ついに神戸市臨海部から貨物線のすべてが消えた。
国際港湾都市であった神戸市は、貨物鉄道の衰退と合わせその機能を大幅に低下させ、国際競争力をなくし、今や大阪港にも後塵を拝する状況でもある。

今現在は「阪神港」として大阪港、周辺の港湾と合わせ一元管理されているようだが、ここでは港湾そのものには触れない。

さて、壊滅した(大阪港には今も安治川貨物駅が存在する)神戸臨海部の鉄道だが、唯一生き残っているのが和田岬支線だ。
貨物輸送としては沿線の川崎車両工場の搬入、搬出が残り、それは時として「甲種輸送」として鉄道ファンの熱い視線を浴びる。
そして旅客輸送の部分では朝夕にのみ運行される通勤電車が、減ったとはいえ大量の乗客を今も運ぶ。
0104和田岬線和田岬103.JPG

詰込みをしなければならない路線で、通勤型大量輸送用の103系と言えばまさに彼らにとっては願ってもない働き場所なのだろう。
そしてかつて3500両近くも仲間がいた、彼ら103系は、今や4線区に残るだけになっていて、九州の唐津に3両編成5本、播但線に2両編成9本、加古川線に2両編成8本、そしてここの明石支所(旧明石電車区)所属の6両編成一本の合計55両だけで、和田岬線103系は、実に本来の大都市通勤輸送で使われる唯一の103系という事になろうか。
九州のものは筑肥線でも西側区間でワンマン運転で使われているので、加古川・播但のワンマン運行と似た状況だと言えるだろう。

通勤電車であり、元より味のある設計ではない。
だが、昭和の高度経済成長時代のイメージを今に残すその姿は、時としてみる人、乗る人を記憶の彼方へ誘う。
かつては乗るのも見るのも嫌だった車両がいまや懐かしい、大昔の自分が若かった頃や、その頃に出会った人たちを思い出させる叙情すら感じさせるのだから、時の流れというのは不思議なものだと思う。

さて、和田岬線通勤列車と言えば高々2.7キロの路線を4~5分、一駅だけ走ればいいわけで、快適性より詰込みが効いて、乗降が素早くできればいいわけで、かつてはオハ61を改造した日本の鉄道史に残る究極の通勤車両オハ64、そのあとは気動車化され通勤気動車のキハ35をさらに専用車両化したものが使われていた。

あの阪神淡路大震災は平成7年(1995年)1月17日で、大被害を受けたJR神戸線同様、和田岬線も運行が休止された。
そして神戸線復旧の過程で、新長田駅部分の被害が酷く、被害の少なかった和田岬線連絡線(鷹取操車場~兵庫)に急遽、電化工事を施し、神戸線電車をそこに走らせたのが電化の始まりだ。
おりしも、兵庫駅付近は国鉄貨物駅の廃止により余った広大な土地を副都心に変貌させる「キャナルタウン」計画が始まっていて、和田岬線もそのために半高架化された。

震災でキャナルタウンの出来たばかりの建物にも被害が見られたが、それは外観部分が中心だったようでほどなく復興され、建設工事も再開された。
この町は震災直後の家を失った多くの神戸市民の住まいとして機能していく。
1018和田岬線兵庫103乗車風景.JPG

さて、鷹取から兵庫まで電化してしまえば、あとは和田岬まで3キロもなく、わざわざ検査に不便な気動車を使う意味もなく、所属の鷹取機関区はとうに廃止されていて、鷹取工場も網干へ移転、さらに広大な鷹取操車場を新しい神戸貨物ターミナルとして整備という話が出るに及んで、和田岬線の電化もあっさり決まった。
ちなみに、キハ35、キクハ35では、エンジンを半分撤去したことでバッテリーの充電に手間取り、一晩中、エンジンを駆動させる必要もあったとのことで、現場から気動車が扱いづらいと言われていた。

和田岬線電化と同じころに地下鉄海岸線が開通し、これができると和田岬線利用客が激減するとも言われたが、JRと新地下鉄の乗換駅である新長田には快速が停まらず(ホーム有効長が足りず停車できない)、停まったとしても朝ラッシュ時の快速は列車線を走っているわけでそもそも新長田にはホームはなく、反対側の神戸駅は新快速や快速が停車するものの、和田岬線乗客の流動の大半が神戸市西部、播磨地域から来ていることを考えれば、わざわざ通勤に遠回りをすることも考えられず、和田岬線を電化して車両を明石の所属にすることで、大幅なコストの低減ができるわけで、地下鉄と共存となった。

和田岬線電化開業は、平成13年(2001年)7月1日で、これは地下鉄海岸線開通の7月7日より僅かに早かった。
結局、この後地下鉄海岸線は輸送量の低迷にあえぎ、和田岬線は淡々と走る。
5年前のデータでは和田岬線の輸送密度は20万人に達していて、JR西管内では上位に食い込んでいる。
今は、和田岬周辺でも工場の撤退や合理化が相次ぎ、これよりはかなり数字を落としていると思われるが、それでも大幹線よりはるかに多くの輸送量を誇っているのは確かだろう。

長くなったがその和田岬線、103系もいよいよ終焉とのうわさもある。
これは、コロナ禍によるダイヤの見直しが通勤時間帯にも及ぶことで、多くの余剰車両が発生し、わざわざ古い103系を一生懸命に走らせる必要もなくなってきているわけで、もしかしたらこのブログを書いた直後にでも置き換えが現実のものになるかもしれない。
ただし、鉄道ファン諸氏の過激な暴走により、車両の引退にはJR各社は非常に気を使っていて、阪和線、奈良線の103系も何も言わずに「サイレント」引退となったことを思えば、和田岬線でも車両の置き換えに何らかの発表があるとは思えない現状だ。
これは同じ鉄道ファンとして哀しい。

さて、唯一生き残っている103系は色がスカイブルー、戸袋が埋められているとはいえ黒サッシのN40施行車で、このデザインは後の大きく変貌した張り上げ屋根・広窓のN40や、簡素化されたN30に比して、103系の良さを生かしたデザインで好感が持てる。
僕は震災前後に大阪環状線経由で通勤していたけれど、その頃に登場したのがこのN40だ。
そして、和田岬線103系は6両とも大阪環状線にいたわけで、彼らの環状線時代に僕も乗っていたかもしれない。

最後の通勤用103系の編成は次の通りだ。
和田岬側から
1両目クハ103-254
1018和田岬線兵庫運河東クハ103-254.JPG

2両目モハ102-553
1018和田岬線兵庫運河東モハ102-553.JPG

3両目モハ103-397
1018和田岬線兵庫運河東モハ103-397.JPG

4両目モハ102-545
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5両目モハ103-389
1018和田岬線兵庫運河東モハ103-389.JPG

6両目クハ103-247
1018和田岬線兵庫運河東クハ103-247.JPG

車内・・化粧板は張り替えられ、窓も交換されているが天井付近の造作は103系冷房車のオリジナルだ。
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扇風機は元々JNRマークのあったところをJR西日本に変更している。
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午後の光が差し込む、休日の夕方。
MT55、110キロワット4M2T・・和田岬線には出力過剰だが、明石支所からの回送には、高速列車が頻発するJR神戸線を通るわけで、精いっぱいの高出力にしておかないといけないという事だ。
0104和田岬線103車内朝陽.JPG

さてその回送シーンだ。
明石支所からいったん、西明石駅ホームを通過して大久保へ向かう。
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大久保駅で折り返す。
これは、明石支所から直接には列車線に出でられないことによるもの。
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そのあとは西明石も明石も通過して鷹取まで「爆走」する。
この時のモーターの唸りはこの区間の名物でもある。

山陽電鉄人丸前駅の目の前を高速で通過。
標準時子午線の時計台の前を行く。
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山陽電鉄大蔵谷駅より
0428大蔵谷103.JPG

こちらは下り回送。
0313大蔵谷103系4_01.JPG

朝霧駅通過。
明石海峡を望む。
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朝霧近くの高台を行く。
1206狩口103B.JPG

西舞子、大歳山公園から。
海と103系。
0910大歳山103回送1.JPG

舞子駅通過。
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舞子駅から東へ。
0728舞子103後追い.JPG

舞子駅を俯瞰。
舞子の松が鬱蒼と茂る。
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垂水駅を通過する下り回送。
0827垂水103系2.JPG


山陽本線をモーターをうならせて爆走した回送車は、やがて鷹取にていったん停止してゆっくり新長田へ。
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実は、ここの103系は一度、日根野で余剰になったより新しいタイプの編成と交換が企画された。
ただ、日根野から疎開留置を兼ねて送られた編成はクハのみN40、モハはN30で、結局それならこれまでの編成のほうが、気心が知れているし、何よりすべてわかっているというのが、これは想像だがお守する明石支所の方々の気持ちだろう。
疎開留置を終えて吹田工場へ廃車回送される編成。
0214大蔵谷阪和103回送1.JPG

兵庫駅での風景。
1018和田岬線兵庫103入線1.JPG

103系が専用ホームに入る。
1018和田岬線兵庫103入線2.JPG

発車していく103系。
1018和田岬線兵庫103発車.JPG

川崎重工(当時)前の国道から俯瞰。
1018和田岬線川重前俯瞰103上り2.JPG

川崎重工前にて。
1018和田岬線川重前103下り3.JPG

この先の兵庫運河旋回橋は和田岬線最大のポイントだ。
0104和田岬線兵庫運河下り103.JPG

夕方から夜にかけての情景が美しい。
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水鏡もいい。
0202和田岬103兵庫運河下り2.JPG

夜、すっかり日の暮れた旋回橋。
運河にはさざ波が立ち、通過する電車の窓からの光が波で滲んで反射し、この世のものとは思えぬ美しい光景が出現した。
0311和田岬線旋回橋下り103系4夜.JPG

103系は国鉄標準型の単なる通勤輸送用だ。
だが、詩情豊かな風景を時として見せてくれる。
夕景の播磨灘を望む。
20101226狩口103系と夕日.JPG

グローブ型通風機と播磨灘の夕陽。
1110狩口103屋根.JPG

夕景の明石海峡。
1112大歳山103A.JPG

詩情豊かに見るには、すでに引退が確実なものとして噂される今、時すでに遅しかもしれないが、僕は今日一昼夜勤務明けでほとんど寝ずに和田岬駅へ向かった。
今年で多分最後となるだろう、桜と103系の競演を見ておきたいし、それが彼らへの僕自身の惜別の気持ちということだ。
0406和田岬沿線桜と103系_01.JPG

和田岬駅に電車が到着した。
0406和田岬駅到着103系_01.JPG

駅に停車する103系。
大勢の乗客が降りてくる。
一時的に駅前の歩道が人であふれ、駅構内からの動きがとれないほどだ。
この写真はピークを過ぎたころに撮影した。
0406和田岬103系到着_01.JPG

駅前の桜。
まさに満開。
0406和田岬103系と桜_01.JPG

詩情を味わいに来られているのだろうか。
女性ファンの姿も。
0406和田岬駅女性と桜と103系_01.JPG

桜と103系。
本当はこの姿を来年も再来年も見ていたい。
0406和田岬駅桜と103系縦_01.JPG

神戸の夕景を背景に103系が行く。
この電車を最後に神戸市民が見ることが出来た倖せと、そして儚い希望とが交錯する。
0212和田岬線103-1.JPG





posted by こう@電車おやじ at 19:08| Comment(8) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月06日

221系の33年

平成と年号が変わったその時に合わせるかのように、平成元年(1989年)、JR西日本に新型電車が走り始めた。
国鉄改革から丸2年、JR各社は競って新型車両をデビューさせ、その華やかさは新生JRグループの先を明るく見せていたけれど、JR西日本には新車の話もなく、山陽新幹線リース料が会社の経営を圧迫する中、それでも最も効果的な新車の投入を模索していたのだろう。

だから221系の登場はまさに突然だったように見えた。
これまでの鉄道車両の枠を破った、純白の車体、そしてベージュ・青・茶の3色を重ねた腰の帯、流線形で大きな窓を持つ前頭部。
柔らかな曲線で構成され、そのサイズも度肝を抜いた大きな窓、窓回りには阪急のあの銀の縁取りに対抗したのか、黒い縁取りが白い車体を締める。
117系の2ドアから3ドアになったのは時代の流れか、それでも、3ドア車体でここまで美しい車両を作れることに僕もまた驚愕の想いで見たものだ。
足回りや制御装置は国鉄末期の205系、211・213系の流れをくむとはいえ、斬新でありながら落ち着いたデザインは一気に乗客や沿線住民の評判を呼んだ。
写真はその登場当時に、たまたま来てくれた快速電車で、正面の種別表示は青色だった。
須磨221系登場時快速.JPG

車内に目を向けると、117系譲りの転換クロスが並ぶ。
中間車の座席数は3ドアでありながら2ドアの117系に揃えたと64名分の座席いうのも驚きで、やや硬いシートもむしろ身体を保持するにはちょうど良く、また、車内妻部にはデジタル式の案内装置までついた。
最初はJRで混むのは、大手私鉄が並走していない区間だけだったのもあり、つり革も少なめでドア部にあるだけだったが、やがてつり革も増設、さらには車両全長にわたるようになっていった。
1231快速221車内.JPG

例えば朝の三ノ宮駅、上り方面は閑散としていて大半の乗客が阪急・阪神に乗り換えてしまう有様だったのが、221系が走り始め、やがて新快速に使われるようになり、そして新快速の117系を置き換えはじめ、新型車両の本数が増えてくると比例して乗客も増えていった。

117系は確かに沿線利用客を驚かせたが、それは新快速という列車の革命とまでは行かなかった。
だが、国鉄末期から新快速を列車線に移し徐々にスピードアップを始めていたその成果が221系で花開いたという感じだった。

阪急・阪神への乗り換え客が激減し、明石・加古川・姫路から大阪を目指す乗客がそのまま乗車するようになる。
それにはJRが行わず、私鉄がたびたびおこなった運賃改定での、私鉄との料金差が大きくなくなっていった営業政策も大きな背景にはあるだろうが、それをきちんと受け止めたのが221系だったわけだ。
須磨221系新快速海側から.JPG

アメニティライナーなどという愛称もついたが、それは関東のE電と同じく、広く浸透するにはいかず、沿線利用者からは「白い電車」で親しまれる。
こうなると、117系はまだ車内設備ではそん色がないものの、113系、それも非常に古い初期車両が大量に残っていた快速電車での大きな落差も乗客にとって問題となる。
221系が増えてきたころには113系を嫌って電車をやり過ごす乗客も増え、JR西日本はとにかく大量に221系を増備する。
当初、快速用を主に考えていたとされるが、その好評と、乗客の激増により2ドアの117系では徐々に対応が難しくなっていった新快速に中心的に投入されていく。
須磨221系113系.JPG

当初の6連はすぐに8連に、かの117系も8連に組み替えられ、221系に少しでも追いつけるように最高速度の向上もなされたが、117系の場合、4連・4連の組み合わせになるとM比が落ち、加速が鈍くなってしまう。
221系はまさに新時代の新快速として勢力を拡大していく。
須磨221新快速2002A.jpg

120キロ運転開始、阪神間ノンストップ19分運転。
この頃は221系新快速の最盛期だろうか。
新快速221系須磨下り.JPG

大和路線(関西本線)では京阪神地区と同じく当初から大量に221系が投入され、「大和路快速」の愛称もつけられ、一気に置き換えられる。
直通先の野田駅で。
221W野田.jpg

こちらは天王寺。
0629大和路線221-51天王寺.JPG

この京阪神の新快速、阪奈の大和路快速が当時のJR西にとって二本柱だったのだろう。
私鉄への負けが込んでいる区間で、私鉄を凌駕し、さらに沿線の豊富な人口を背景にした可能性のある区間という事だったのかもしれない。


阪和間もそのような区間であるはずだが、こちらは関西空港開港までは、大人しく鳴りを潜めていたのかもしれない。
関空開港で登場した空港アクセス関空・紀州路快速は223系になったが、そのエクステリアデザインは後のシリーズと異なり221系から発展したことが明確にわかる印象でもあった。
0527野田223-0.jpg

221系には実はプロトタイプが2種存在する。
ひとつは正面デザインの元、そして制御装置なども含めた原型という意味で国鉄213系、そのJR化後の増備車であるマリンライナー用クロ212だ。
昭和63年、改めて開業する瀬戸大橋経由の快速電車、「マリンライナー」は国鉄が用意した213系だけではなく、先頭部にグリーン展望室、指定席付きダブルデッカーを組み込んで華やかさをさらに強調した。
岡山駅マリンライナー全景.jpg

そして、これまた昭和63年に登場した近鉄の長距離急行用5200系だ。
近鉄5156堅下.jpg

近畿車両の設計した近鉄5200の基本デザインにマリンライナー用クロ212の前面デザイン、カラーリングを合わせれば221系のイメージになる。

設計期間を短く、設計コストを少しでも抑えるために近畿車両が前年に世に送り出した車両デザインを元に提唱したJR西日本向けの車両が221系という事になるのだろう。
だが、白い車体は華やかで地味な近鉄より人目を惹くし、車両のサイズが全長・全幅ともに近鉄とは大きく異なることで、新生JRらしいゆったりしたイメージの車両が出来たのだろう。
近鉄では全座席を転換式としたが、JR西では固定式ボックス座席の需要もあるわけで、転換クロスと固定クロスの組み合わせとしたと、言われるのも納得のいくところだ。
近鉄5200系の車内。
221系より座席の幅が狭い、車体幅が15センチも違えば当たり前のことか。
20170620近鉄5200系車内.jpg

221系の全盛。
新快速は12連で阪神間ノンストップ19分運転。
最高速度120キロを目いっぱい出して、その頃まさに僕はこの電車で通勤していた。
221系並走須磨.JPG

満員の帰宅時、座れるはずのない新快速の最後部車輛で流れる景色、ぐいぐい上がる速度計を見るのが楽しみだった。
鉄道ファンとしての活動がほとんどできない時代が僕にはあったのだが、それでも、どの駅も高速で通過し、あの153系だった新快速がこのような立派な列車になったことに感無量で、そして自分が鉄道ファンであることを思い出すひと時でもあった。
そして純粋に新快速が221系に統一されていたこの時代こそ彼らの全盛期だったのではないだろうか。
221系新快速須磨ベルコン.JPG

阪神淡路大震災は1995年の1月に起きた。
当時の僕は、神戸の垂水から大阪、OBPまで通っていたが、その通勤経路はずたずたに引き裂かれた。
新車の221系には大きな被害がなく、分断されたJRの最重要線区で東西に分かれて活躍していた。

路線の復旧が進み、新快速はやがて大阪から住吉まで19分で走ってくれた。
西側では快速電車の運行も再開されていたが複々線が使えず、221系は朝には各駅停車として走らざるを得なかった。
それも、日中に限り複線のまま新快速が復活、やがてわずか3か月足らずで全線復旧したJRは、工事が進まない私鉄各社の乗客を一手に引き受けることになる。

221系新快速の混雑は激しく、臨時に117系の新快速をも用意して、乗客を捌く。
須磨117新快速.JPG

時には福知山線用の車両も引っ張り出してくる。
一部ロングシート化されているがそんなことに拘っている場合ではない。
須磨117緑.jpg

この時、JRに移った乗客の大半は、元の私鉄が復旧してもそこに戻ることはなかった。
JR西は前倒しで223系の投入を決定、テレビコマーシャルで有名女優を起用して「223系しんかいそく~♬」と歌わせた。
223系登場時.jpg

震災の被害を乗り越えるどころか、むしろ大きく売り上げを伸ばし、今に至るJR優位の状況ができてしまう。
それでも、まだこの頃は223系は限定的で、221系は間違いなく京阪神のトップスターだった。
JR出会い221207201.jpg


221系はこの震災を機に、徐々にトップスターとしての活躍を後継に譲っていくことになる。

やがて新快速は130キロ対応の223系に移行、221系は快速や、さらには山陰線、奈良線などへ活躍の場を移す。
奈良線・宇治付近。
0104奈良線221系宇治.JPG

山陰線京都駅にて。
霜取りのパンタグラフ設置でまさかの前パンとなった編成。
京都駅JR2011年221系.jpg

嵯峨野線(山陰線)嵯峨嵐山駅近く。
嵐山221系俯瞰.jpg

大和路線今宮駅。
0818今宮221.JPG

王寺駅での奈良行きと大和高田行きの分割作業。
20110106王寺221系分割.jpg

一時的に福知山線にも入った。
黒井付近。
221系福知山線黒井.JPG

それでも車齢25年の頃から更新工事も始まった。
正面に行先表示が出るようになった。
0908須磨221更新快速.JPG

大和路快速の車両も更新される。
221系D11更新ホロ未設置野田.jpg

ただし車内では混雑時への対策として一部座席の撤去、折り畳み式補助椅子の設置も行われる。
0729関西線221リニューアル車内.JPG

この後、舞子駅での乗客転落事故を重く見たJR西日本は、通勤・近郊型電車の編成ごと連結部に転落防止柵を取り付けることを決定。
221系にもこの柵が設けられた。
しかし、元々のデザインにこの柵のない221系では、柵を白く塗ったこともあり、なんだか仙人のひげのように見えてしまうのは僕だけだろうか。
出来れば黒に塗れば全体のイメージにさほど変化がなかったのにとは思う。
0412大蔵谷221前幌.JPG

223系のさらに後継、225系も登場。
ここでまさかの近郊型電車が通勤型電車を駆逐する事態が発生。
JR西日本では大和路線・阪和線・大阪環状線においては全車両を3ドア車に置き換え、環状線ではロングシート3ドアの323系に、阪和線には新車の225系を、大和路線・奈良線では京阪神から追い出される221系に統一という方向性になった。
環状線の323系ですらゆったりしたロングシートで3ドアというのは、関東から見れば立派な近郊型だろう。

関西のJR線においては純粋な通勤型電車が走るのは、京阪神区間とJR東西線・学研都市線部分とだけになるという事になった。
今現在、201系・103系の置き換えにさらに奈良への転出が進んでいる。
ロングシート普通電車の置き換えにクロスシートの221系が投入される。
トップスターから一歩引いて、それでも活躍を続ける。
奈良にいる車両で6連、8連の先頭車は更新されても転落防止柵はつかない。
柵のない姿はやはり美しい。
221系D11更新ホロ未設置野田.jpg

いずれ221系も追われるときは来るのだろうが、いましばらくは彼らの活躍を楽しみたいと持っている。
ただ、僕にとってはやがて地元のJR神戸線では見られなくなるのが辛い。
塩屋にて223系との併結。
塩屋221.jpg

最後は大阪のシンボル、通天閣、天王寺公園とともに。
0524天王寺223.JPG



posted by こう@電車おやじ at 16:59| Comment(4) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする