2025年04月01日

公共交通崩壊の時代へ

この3月末で名鉄美濃町線の代替バスとして機能していた岐阜バスの「岐阜美濃線」が事実上の廃止となった。
0110美濃市駅岐阜バス美濃町線.JPG

名鉄美濃町線は明治44年に「美濃電気軌道」として神田町・上勇知間(後の柳ケ瀬・美濃)間を開業した古い電気鉄道で、会社は名岐鉄道、愛知電気鉄道などとともに今の名古屋鉄道(名鉄)を構成する重要な企業であり、美濃電気軌道が開業した路線のうち一部は今も名鉄名古屋本線の一部でもある。

岐阜市から美濃市へは、JR高山線から美濃太田で長良川鉄道への乗り換えをすることで多分、美濃市を訪れる観光客への影響は少ないだろうが、美濃町線沿線住民が岐阜へ出るのは著しく不便になる。
写真は長良川鉄道美濃市駅。
0110長良川鉄道美濃市駅舎.JPG

名鉄美濃町線が健在だった頃、途中の関を境に大きく乗客数が変化していて、名鉄も関・美濃間の維持には苦労していた。
今現在も、関から岐阜へ出るバスは頻発していて、都市交通として機能しているがそこから北はこれまでは減ったとはいえ、一時間~二時間ヘッドで終日バスが走っていたわけで、ワタシ自身も過去に二度ほどこのルートのバスを使ったことはある。

鉄道時代の数倍の運賃、1.5倍の所要時間を要するが、それでも美濃太田経由より安くて早かったし、何より乗り換えが必要ないのがありがたかった。
両端を結ぶ乗客は自分しかいなかったが途中乗降が結構あり、あの人たちが乗るべき乗り物を失うのかと思うと現地の人々の落胆も分かるというものだ。
かつての美濃駅。
名鉄美濃市駅.jpg

美濃駅に並ぶ車両たち、左が600形、意欲的なローカル線ロマンスカー、右は830形、なんと札幌からの移籍だ。
名鉄美濃モ600・A830.jpg

今現在の美濃駅、保存会によって美しく保たれている。
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車両もまた代表的なものがボランティアの手により保存されている。
0815美濃駅モ876・601・512・593_02.JPG

美濃市の現在の人口は17000人ほどで、これは岐阜県の市としては最も少ない数字だそうだ。
ちなみに同じ岐阜県の養老町でも人口は25000人以上あることを思えばバスとて美濃市で営業を継続するのが難しいという事情は見えてくる。
また、養老町の人口ピークが平成7年の33000人余りだったことに対し、美濃市では人口のピークは昭和30年代初頭で31000人、それ以後、ずっと減少を続けているわけであり、美濃市域の長期低落傾向というのは今後も続くしかないだろうという印象を持ってしまう。
ただ、美濃市も昭和40年から平成2年までは人口は26000人台を維持している。
平成11年、名鉄は長良川鉄道と完全に並行している関・美濃間を廃止(これによって開業時からの美濃町(→美濃市)へは行かなくなった)したが、以降は雪崩のように人口が減り続けている。
名鉄の廃止が原因というよりは、人口減少の中で鉄道を維持できぬほどに乗客が減少し、体力の限界を感じた名鉄が代替交通手段のある区間を廃止したというのが真相だろうが、鉄道の廃止は人口減少へのさらなる追い打ちをかけたのかもしれない。
さらに名鉄美濃町線は平成17年3月末で全線が運行を終了、すでに美濃市へ来なくなっていた路線だが以降は美濃市の人口の減少が加速した感もある。

名鉄の岐阜県内600V線区が全廃となって本年4月でちょうど20年、その期日に代替バスもが姿を消すのは、これは、ごく小さな地方の物語ではないようにも思える。

同じ岐阜地区600V線区である名鉄谷汲線は、美濃よりさらに先を行っていた。
良い意味ではなく、悪い意味でだ。
写真はかつての谷汲駅。
名鉄谷汲駅舎.JPG

谷汲線に岐阜と結ぶ臨時直通急行が入った。
名鉄谷汲線511急行.JPG

谷汲駅での様子。
名鉄谷汲線522外から.JPG

谷汲線は名刹谷汲華厳寺への参拝を主な目的として美濃電気軌道が支援して開業した路線だが、華厳寺の祭礼の際の乗客は多くとも、普段は人口数千人(平成17年で3900人余り)の小さな村であり、当初から乗客は少なかった。
だが、参拝客も自家用車や観光バスが大多数で、鉄道利用客が限られるようになると路線維持すら困難になってくる。
廃止は平成13年で、最末期の谷汲駅での一日平均利用客は390人ほどだったようだ。
廃止後、揖斐川町に営業所を持つ名阪近鉄バスが代替輸送を担ったけれどこれも平成17年に廃止。

この時と期を一にして谷汲村は揖斐川町に合併、揖斐川町コミュニティバスが名阪近鉄バスに業務を委託する形で、運行をするようになったが、結果としてはこれも長続きせず、令和元年よりタクシー会社に運行を委託する形で大幅に便数を減らしコミュニティバス、ディマンドバスの運行に切り替えられている。
名阪近鉄バスが受託していた揖斐川町コミュニティバス。
0401谷汲双門前名阪近鉄バス.JPG

地元住民ではない旅行者が公共交通機関で谷汲を訪れる場合、土日祝日には最低限の便数が揖斐もしくは谷汲口から運行されるが、特に平日は便数が非常に少なく、結果として一旅行者がふらりと訪問することは著しく困難である。
ワタシは名阪近鉄バスの最終期に時間を合わせて谷汲を訪問したが、以降は立ち寄れないでいる。

バス運転士不足が言われて久しいが、小泉改革によってバス事業への新規参入が簡単になり、ドル箱路線には他の事業者が簡単に参入するのに対し、既存事業者はローカル路線の維持を地元より懇願され、足がニ抜け出せなくなっていたところに新規参入により黒字路線すら赤字となってしまい、もはや事業としての旨味もないのだろうし、運転士の収入や勤務形態は悪化の一致をたどり、さらにコロナ禍で多くの運転士が解雇、他事業へ移るあるいは引退ということになってしまい、そこに急速に進む高齢化、なにもバス運転士のような過酷な労働をしなくても人手不足の世の中、他条件の良い仕事を探せばよいわけで、普通に考えて運転士が足らなくなるのはこれは必然だろう。

つい先月、妻の両親の里である大分県南部に行ってきた。
鉄道を見るためではなく、高齢の義母の10年ぶりの里帰りの付き添い兼運転手だ。
集落の半分は無人で、家が崩壊しているところもあるし、公共交通は隣の市との間に走る日に3便の路線バスがあったが最近廃止され、近くの駅と結ぶ3便のコミュニティバスに切り替えされた。
しかしこの近くの駅というのが日豊本線で上りは日に3本、下りは1本しかないという(特急はそれなりに通過する)代物で、かつて町内を走っていた路線バスは悉く撤退、自治体運営のコミュニティバスバスも大半は前日までの予約が必要なディマンドバスに切り替えられていた。
写真はかつて路線バスの正規バス停だった「ととろ」バス停。
アニメキャラが楽しいがここに来るには、余所者には自家用車しか手段はない。
0303宇目ととろバス停2.JPG

ローカル路線だけではなく、工場地帯への通勤バスすら事業者の代替交通なしの撤退という事例もある。
山陽電鉄系の山陽バスが、明石市交通部から譲り受けた路線のうち、二見人工島企業群への通勤バスがすべて休止(事実上の廃止)されたのも今年4月1日だ。
便によってはバス定員いっぱいの50人以上が乗車する路線だったが、垂水区の営業所から遠く、回送に時間と人を要することなどの要因が重なり、他の事業者への譲渡もなく一気に廃止となってしまった。
現地へ鉄道駅から徒歩で向かうのはあまりにも現実的ではなく、企業各社において送迎バスを準備したり自家用車乗り合わせを推奨するなどの騒ぎになっている。
この前に、同社は明石市から受託していたミニバス「タコバス」事業の受託も廃止している。
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バス事業者としては、この路線の回送のために要する時間と人で、他の重要路線の便数を確保したい気持ちが伝わってくる。
いつまで公共交通を交通事業者の犠牲、交通労働者の低賃金・悪条件で賄うつもりだろうか。
公共交通という以上は、ここで国家が自国内の安全と労働環境、居住環境維持、向上のためにそれらすべてを安全で高品質な国家政策として補助すべきではないだろうか。
国鉄改革はそれまで全国津々浦々にまで張り巡らされていた鉄道というサービスを、幹線で儲かる路線だけを民間事業者にさせるという大胆で大きな勘違いの政策だった。
国鉄の路線から外れた地域や、もとより細々とした民間事業者しかない地域は国家の交通政策から最初から放り出されでいたが、それがこの国鉄改革で国鉄だった場所にも広がってしまった。

その中で、地元地域を大事にしていた名鉄のような私鉄グループでは、弱体化する地方の不採算路線まで抱え込むことが出来なくなってしまい、それを引き継いだバス事業者もあまりに不採算ぶりに音を上げてしまい、さらにはそこから引き継いだ自治体ですらも交通を維持することが難しくなっていく・・・
それが国家の弱体化でなくてなんだろう。
いやいや、岐阜では、まだまだ可能性のある、それゆえ国土交通省が提唱していたLRT推進事業のモデル都市となるはずだったが、それを拒否し、みすみす街を衰退させた市長というのも存在した。
名鉄600V線区でも揖斐線黒野・美濃町線関以南と、岐阜駅前の間は鉄道として十分に発展する可能性があったのをわざわざぶっ潰したのだ。
美濃町線。
廃止路線名鉄美濃町線野一色.jpg

揖斐線。
名鉄780形揖斐線赤.jpg

新岐阜駅前の喧騒。
岐阜市内線556新岐阜.JPG

いまや柳ケ瀬や徹明町にはかつての賑わいはなくただ、JR東海によって活性化した岐阜駅周辺だけが賑わっているというのが実情だ。
先日、久しぶりに夜の徹明町や柳ケ瀬に行ってみたが、静まり返るアーケードが悲しかった。
今も残る電車の切符売り場。
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人の消えた山野で売電のためのソーラーパネルだけが広がり続け、人の消えた商店街の店舗や土地を買うのは外国人不動産屋だというのは、これは国家の崩壊でなくて何だというのだろうか。
ローカル鉄道が走り、ローカルバスが走り、何処の集落のひとでも日本中へ旅をし、日本中の何処へでも旅行者が安全に自分の足で到達できることこそが、本当の意味で「豊かな日本」なのではないか。
愛すべきローカル鉄道が廃止され、その行き着いた先を我々は今、見ているのだ。
その目を逸らすことは日本の未来に目を背けることではないのか。
政治家、実業家、すべての国民に問いかけたい。

最後に、長閑に走るローカル電車。
三岐鉄道、背景は藤原岳。
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手前の川のように見えるのは全てソーラーパネルだ。
誰が得するか分からないような国家崩壊への指向を今すぐやめるべきではないか。

posted by こう@電車おやじ at 21:29| Comment(0) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月11日

保存車両への雑感

国鉄時代、最初は引退する蒸気機関車を、やがては電機、ディーゼル機、電車や気動車、客車、新幹線車両などが各地で保存されるに至っている。
車両というものはまさにその時代の文化の集積物であり、保存されるというのは意義の大きなことだとは思う。
だが、その車両が保存された後、荒廃するのはこれは、国鉄など鉄道事業者には見えていることであり、それゆえに、それと国鉄の場合は「廃車解体」というその行きつく先を明らかにすることによって帳簿上の問題点を亡くしてきた部分もあり、自治体などからの保存要請には「無償貸与」という形をとってきていた。

国鉄が解体され、保存車両の原簿は各JRに移行されたが、その頃より役所の予算、人手不足により保存されている車両の状態が劣化し、時にはほとんど崩壊するような状態になってしまったのは、それを見る地元住民や、鉄道ファンには哀しいことであった。
状況が若干改善されたのはここ数年で、鉄道ファンや地元ボランティアの方々の意識が変わり、積極的に地元の文化遺産として活用しようという機運が満ちてきている。

それには博物館として多くの車両を保管してきた各団体の努力というものが認められてきたという事もあろう。
鉄道会社でも保存の意義を理解してくれて、これまで保存には熱心でなかった会社でも積極的に自社の文化遺産を守ろうとする傾向がみられることは良いことだと思う。

北海道、安平町のD51 320号機・・
おそらく日本で一番美しい静態保存機だろう。
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この罐は雪のない季節には週に一度、建物の外に出てくる。
そのための移動機が一緒に保管されている。
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安平にはキハ183もある。
なおこの町内には他にキハ183もう一両と、スハフ45がある。
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北海道、室蘭の旧駅舎。
線路は外されたが建物は見事に保守されている。
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その真横にD51 560号機が保存されている。
海の見える場所であり、保存には絶望的な場所であるはずが、ロッド磨き出し、きちんと手入れのされた個体だ。
国鉄から貸与された時からずっと磨き続けているのだろうか。
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九州、鹿児島県吉松のC55 52号機。
ここもロッドは磨き出しだ。
昨今の九州山間部は人口の減少著しく、こういった地道な作業も人を集めるのに難儀しておられないだろうか。
一人の意を決した人があれば機関車の美観は保たれる。
吉松がかつては鉄道の街というほどに、鉄道員やその家族、関連企業により栄えたその証を伝える証人でもある。
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岐阜市梅林公園のD51 470号機。
ここは友人にご教示いただいて初めて訪問したが、その美しさに絶句した。
岐阜と言えば、あっさりと名鉄600V ネットワークを崩壊させた、鉄道をないがしろにするイメージがあっただけに意外な、そして嬉しい出会いだった。
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その岐阜市、駅前には懐かしい御大がいる。
名鉄揖斐線急行用だったモ513だ。
市内の公園で劣化していたものをここに移設、岐阜市が本腰を入れて保存されている。
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様々なイベントを行いながら、車体を磨き続けているボランティアの存在は大きい。
夜景は美しい。
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和歌山県、有田川鉄道保存会にいたころのD51 827号機、油が滴りおち、艶を放つ罐は本当に美しかった。
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このあと、827号機はえちごトキめき鉄道に貸し出され今に至る。
有田川には看板代わりのD51 1085号機もいる。
こちらも良好な保存状態だ。
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有田川鉄道保存会はこのほかにも富士急行出自のキハ58、樽見鉄道や北条鉄道出自のレールバスも保存されいずれも見事な整備状況でもある。
そしてワタシが神戸のD51 1072号機を整備するのにまず最初に訪問し、実際の保存車両の扱いについてご教示をいただいたところでもある。
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片上鉄道保存会、
貴重な国鉄キハ07出自の気動車、キハ702。
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国鉄キハ04出自のキハ303。
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そして自社発注のDD13を先頭にした客車列車編成。
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鉱山記念館の一角である吉ヶ原駅構内に見事な状態で車両たちが並んでいる。
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惜しむらくは、コロナ禍以降、中止されている運転イベントが未だに復活しないことで、これには町の支援やボランティア側の都合もあるだろうが、どうか再開を心から祈る。

加古川市鶴林寺にあるC11 331号機。
SLブームの前に国鉄から貸与された罐で、昨今はその痛みが酷い状況だった。
だが、同じ加古川市のキハ2を手掛けるメンバーの一人が意を決して市と交渉、作業が始まった。
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今では非常に美しい状態となり、同市を代表する公園で市民のアイドル的存在に帰り咲いた。
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長野県小諸市、同市の象徴的観光地である懐古園駐車場、しかも蕎麦の名店、草笛本店の真ん前に位置する場所にあるC56 144号機。
保存というにはあまりにも酷い状況だった。
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それが最近手入れされ、見違えるように美しくなった。
これは行政によるものだが、美装なった後に日常の手入れをするボランティアが必要で、その点ではまだ不安が残る。
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岐阜県美濃市、かつての名鉄美濃駅はボランティアによりきちんと運営されている。
駅舎も美しい。
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保存されているのはかつて岐阜地区で走った電車ばかりで、この地域の路線が大好きだったワタシには涙が出る思いだ。
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こうして見ると、現役の頃のままだという錯覚さえ起こる。
この美しさを日常的に維持するのは大変なはずで、しかもここは独立採算を維持して、グッズや鉄道、音楽のレトロな商品などの売り上げで車両を維持し、自治体に家賃まで支払っているという。
神戸でD51イベントをする際、大いに勉強させてもらったところだ。
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岐阜県谷汲村、旧名鉄谷汲駅跡。
駅舎の建物は建て替わった。
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だが、改札口付近の雰囲気は営業当時を思わせてくれる。
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かつての車両が並ぶ。
それも非常に美しい。
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だが、かつて活発な鉄道路線で容易にアクセスできた谷汲へは今や公共交通は殆ど崩壊状態にある。
岐阜県で有数の観光地であるというのに・・

新幹線車両も保存されている。
大阪府摂津市、新幹線公園に保存されている0系21形。
非常に美しい。
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ここにはEF15も保存されているが見事なコンディションだ。
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四国、鳴門市のC11は非常に荒れた状態だった。
鉄道ファンではないが地域をこよなく愛する女性が神戸のD51に相談に来られた。
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そこでいろいろ助言させていただき、ただメンバーに鉄道ファンという人が皆無で、公園を美しくしたいとの思いの人ばかりだった。
結果、機関車は見事に美しくなった。
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そして美しくなったからとイベントを開催し、機関車の前で皆が阿波踊りを踊る。
この機関車こそが日本一、幸せな機関車ではないだろうかと思った。
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加古川市のキハ2、貴重な別鉄道の遺産だ。
ボランティアの活動が活発で非常に美しく整備されている。
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同じ別府鉄道でもこちらは加古郡播磨町大中遺跡公園。
DC301とハフ5が現役当時のままの美しさで保存されている。
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美しい保存車両を見ると嬉しいが、そうではないもの、荒れたものを見ると哀しい。
小樽市博物館のキハ82、準鉄道記念物とのことだ。
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だが、台枠は腐蝕し外板と台枠が剥離し始めている。
もはやこれ以上の保存にこのままで耐えられるとは思えない。
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解体されそうになりながら救出された事例もある。
兵庫県加東市播磨中央公園のC56 135号機。
解体の予算がついて万事休すかと思われたが、ワタシの目には根本的なところは痛んではいないように見えていた。
後に大井川鉄道が引き取っていったとのこと、今整備中だそうだ。
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保存車両の維持は経年や環境による腐食との戦いだ。
昨今ではクラウドファンディングが大流行りで、例えば福岡市貝塚公園のナハネフ22をクラウドファンディングにより資金を集めて綺麗にという事も行われた。
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よく見ると窓ゴムが違う・・というか、窓回りが原形を失っている。
0705貝塚公園ナハネフ221007_3.JPG

鉄道車両を扱っていない業者に委託したからこうなったのだろうか。
だが、窓ゴムも窓ガラスも今現在でも本来のものは入手可能だ。
もちろん、保存にあたり様々な部分をメンテナンスフリー化することを否定はしない。
ワタシ自身も車両保存にあたって窓枠の構成をアルミに変えてしまえばと提案したこともある。
そして同じ綺麗にするなら、連結して保存されている蒸気機関車49627も綺麗にしてほしかった。
0705貝塚公園49627.JPG

問題は補修方法ではなく、業者に委託して綺麗になった車両を今度はボランティアなり自治体也がその美しさを保つために、定期的な手入れができるのかというところだ。
神戸市でもその問題はあるわけだが今もなんとかなっているという感じだろうか。
東灘区小寄公園の神戸市電1155号、台風で破損し、そのまま解体とも思われたが、市によって美しく再整備された。
0924東灘小寄公園神戸市電1155北側.JPG

兵庫区御崎公園の広電から里帰りした1103号。
0212御崎公園神戸市電1103.JPG

尼崎市のD51 8号機。
ここは行政とボランティアの連携で美しさを保っている。
0924大物公園D518 全景.JPG

企業で保存されている好例、兵庫県小野市カコテクノスにある神戸電鉄1117号。
余りの美しさに涙が出る。
0926カコテクノス神鉄1117.JPG

ワタシもスタッフで参加している神戸電鉄デ101、クラウドファンディング成立により保存車両の仕事に手慣れた企業に依頼して美しさを取り戻した。
今はさらに原形への回帰という事で二度目のクラウドファンディングも成立、間もなく工事にかかる。
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先にも書いたが、保存車両の維持は腐食との戦いだ。
それにはいったん綺麗にした後の常時の手入れが必要だ。

そこを忘れて資金集め、業者に委託だけでは車両の保存は継続できない。
また、車両が文化遺産であり、それを地域の方々に知らしめる運動も必要だ。

先達から学び、自分たちで考え、地域とのつながりを持ちながら神戸駅前のD51 1072 を今後も維持していけるよう改めて決意を表明する。
1019神戸D511072 全景.JPG

夜景、街灯の少なかったところでもあり、神戸市からLEDによる街灯扱いでライトアップが為されている。
周囲が明るく、華やかになり街の治安が向上した。
1102神戸D511072夜景5_01.JPG

イベント、D51前を中心に地元団体とイベントを行った。
機関車を背景に「安平町雪だるま大使」の高橋涼子さんが歌う。
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博物館でもない、普通の街中の公園や、道端、駅前などにある機関車や電車、それらにはそこに保存された意義があるわけで、今必死の人たちが維持に努めている。
北海道狩勝峠近く、新内の59672と後ろの20系客車。
特に客車は貴重なもので、個室寝台車も含まれる。
現地の方々が一生懸命に維持しているが、哀しいのは鉄道ファンによる車両部品や銘板類の盗難だ。
暖房機キセまで持って行ってしまう浅ましさには強い怒りを覚える。
こうなると、鉄道ファンは車両保存にとって敵でもある。
1004新内59672・20系客車.JPG

今、ワタシが力を入れさせてもらっているのが北海道津別町のオロネとスハネの2両。
ほぼ原形を保っているがここでも銘板類はずいぶん盗難の憂き目にあっている。
1104津別21世紀の森スハネ16510後尾.jpg

だが鉄道業界の方のご教示により補修用の窓ゴムを入手でき、その作業ができた。
1104津別21世紀の森オロネ10502側ゴム交換後.jpg

車両保存を今後も進めていくには世代交代も必要で、さてそれ上手くいくかが我々の大きな任務なのかもしれない。

最後に鉄道ファン諸氏へ。
クラウドファンディングの登場により、「口だけ出す」から「口もカネも出す」になったのは良いとして
もうひとつ、「カラダ」も出してほしい。
そして保存車の部品を盗むなどという恥ずかしい行為をしないで欲しい。
切なる願いだ。

posted by こう@電車おやじ at 23:48| Comment(0) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月07日

神戸駅150周年。

阪神間鉄道が明治7年に開業して150周年になる。
イベントは神戸駅でも5月11日に開催されるが、神戸市垂水区の「絵葉書資料館」で購入した複製絵葉書と拙撮影の写真で神戸の鉄道を振り返ってみたい。
なお、絵葉書資料館によれば商用目的ではないSNSなどでの利用は自由という事なのでここでは最初に同館の資料であることを宣言して書き進めたいと思う。
本ブログはあくまでも個人運営であり、blog上の宣伝などもブログ運営者には一切入ってこない設定としている。
純粋に個人ブログであることを貫きだいためだ。
絵葉書資料館の概要は以下アクセスから。
https://www.ehagaki.org/

日本の幹線鉄道は当時は「官鉄」として主に港と都市を結ぶ路線に手を付けられた。
関東・関西を結ぶ鉄道は軍事上の理由・・主に艦砲射撃を避ける意味合いから、中山道経由として進められていた頃、まずは緊急に必要だった貿易用の支線から始まったという事だ。
明治5年6月12日(太陽暦)、品川・横浜(桜木町)間仮開通。
同年10月14日、新橋・横浜間正式開業。

そして明治7年5月11日、大阪・神戸間鉄道開業。
当時、大阪・西ノ宮・三ノ宮・神戸の各駅が設けられ、二十日後の6月1日には神崎(今の尼崎)駅・住吉駅も開業している。
これまで徒歩だと丸一日を要していた阪神間がわずか1時間7分で結ばれることとなり、経済活動は一気に花開いた。
この時の三ノ宮駅は三ノ宮神社の近くだという事で、今の元町駅の場所であり、元町駅も事実上は同時に150周年を迎える。
明治10年2月5日、京都・大阪間鉄道が開業、同時に京都・神戸間鉄道の開業式典が行われている。

なお、さらに明治15年、敦賀・長浜間鉄道が開業、琵琶湖の水運と日本海の海運を連絡する術が出来上がったが、幹線鉄道の敷設は経済的事情と戦術の軍事上の理由からの意見があり、遅々として進まなかった。
東海道五十三次をトレースする東海道経由が明らかに当時の日本にとって重要だったはずであるにもかかわらずである。
(中山道鉄道は結局、高崎線、信越本線の一部、中央本線の一部、東海道本線のごく一部が出来たものの、中間地点の軽井沢・塩尻間は未だに鉄道としてもあるいは高速道路としても実現もしていない)

開業間もない時代の神戸駅、相生橋からの撮影とされる絵葉書。
絵葉書資料館所蔵資料より。
絵葉書明治相生橋から見た汽車 (2).JPG

手前が今の多聞通、中央幹線だ。
ここに鉄道が駅ができるにあたり、町のど真ん中・・当時は湊川神社や元町周辺が神戸の都心だった・・を分断してしまう事から先進的な鉄道跨線橋「相生橋」が架けられた。
この橋は汽車を眺めるところとして神戸市民にとって名所と化し、のちには市電もここを通ることになる。

三ノ宮駅、今の元町付近にあった駅だ。
昭和初期の高架化・複々線化工事で三ノ宮駅は旧生田川を埋め立てた広大な土地に移されることになり、のちに阪神電鉄も三宮にターミナルを持つことになる。
列車がかなり立派で、長距離列車の雰囲気があるので東海道本線全通後の撮影だろう。
絵葉書明治三ノ宮駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

政府による鉄道建設が遅々として進まない中、民間資本による幹線鉄道敷設を許可することになり、明治16年には関東・東北に広く路線網を作り上げていく日本鉄道が、明治18年には関西私鉄最初の産声として阪堺鉄道(今の南海電鉄)が開業、そして山陽鉄道は明治21年に兵庫・明石間を、この年の年末に明石・姫路間を開業した。

翌明治22年7月1日、東海道本線がようやく全通し、東京新橋から神戸駅まで一本の鉄路で結ばれた。
当時の新橋・神戸間は20時間5分という事だから、今現在、新幹線で新神戸から東京まで約2時間45分、いやいや、青春18きっぷを使った鈍行旅ですら快速や普通で同じ区間を行けば9時間以内でいけるわけであり、現代人には何とものんびりした旅に感じられるだろうが、徒歩でおよそ12日を要した東海道区間を一日足らずで行けるようになったという事はまさに移動の革命でもあった。
同じ年の9月、山陽鉄道が神戸駅まで延伸し、新橋から姫路までが一本の鉄路でつながった。

この当時の列車はもちろん、蒸気機関車牽引で客車は当初は英国式のコンパートメントごとに扉がある形態のものだった。
阪神間鉄道の工事用に導入され、そのまま開業後は牽引機となり、のちに売却された加悦鉄道2号機。
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当時の各座席区画ごとに扉のある形態の客車、加悦鉄道ハ4995号。
0211加悦ハ4995.JPG

ただ、この形態では車内の移動も自由にならず、列車の長距離化にともない便所や車内移動も必要となり、米国式の中央通路式となっていく。

山陽鉄道が開業した頃の須磨海岸。
絵葉書明治須磨海岸と汽車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

山陽鉄道は明治24年に岡山、明治27年に広島、明治34年に馬関(下関)まで開業するが、明治39年、突然の鉄道国有化法により国有化され、今の山陽本線となった。

しかし一地方の私鉄に関しては国有化の対象から外され、阪堺鉄道はそのまま私鉄として残ることになり、やがて、阪堺鉄道に範をとった純然たる私鉄も登場する。
日本の市街電車以外の電化私鉄で二番目の開業となったのが阪神電気鉄道で、これは日本最初の幹線電気鉄道という画期的なものだった。
明治39年4月12日、大阪出入橋・神戸三宮(滝道)間を開業。
官設鉄道に比して数倍の駅を擁しながら、阪神間をおよそ60分で結んだ。
開業初期の阪神電鉄、場所は大石付近だろうか。
絵葉書明治大石付近阪神電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

さらに明治43年4月15日、今の山陽電鉄の前身にあたる兵庫電気軌道が兵庫から須磨までを開業、大正6年には明石に達する。
舞子公園駅における兵庫電気軌道の電車。
絵葉書大正舞子公園駅と兵庫電気軌道 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

須磨付近の神姫電鉄との合併後の電車。
宇治川電気か、山陽電気鉄道になっていたか・・・
絵葉書須磨国道と山陽電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

今の山陽本線舞子駅は構内に皇族専用ホームを有する駅で、通常の駅設備も公園中にある風流な駅だった。
絵葉書大正舞子駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

明治43年4月5日、神戸電気鉄道(今の神戸電鉄とは無関係の会社)により、市内電車が開業。
市内電車は建設の遅滞、市民からの利便性の追求などのため大正6年に市営化されるが、この辺りの事情は昨今の北神線市営化などとも似ている気がして、神戸独特の風潮というものがあるような気がしてならない。
多聞通を行く、市内電車。
絵葉書明治多聞通と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

大正期、湊川神社前を走る市内電車。
絵葉書大正湊川神社と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

栄町通の市電。
絵葉書明治栄町と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

二代目神戸駅の堂々とした外観と駅前の神戸市電。
絵葉書大正神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

昭和5年9月、東京・神戸間に画期的な超特急「燕」が運転された。
神戸市垂水区在故又野氏所蔵、新聞記事の「燕」試運転・・地上時代の神戸駅。
神戸駅マイテ燕試運転又野氏.jpg

こちらは2線で高架なった神戸駅に停車するC53形。
おそらく試運転だろうか。
これも又野氏所蔵、新聞記事より。
神戸駅C5343燕試運転又野氏.jpg

神戸駅を含む、三ノ宮・鷹取間は昭和6年10月10日に高架化された。
この高架工事にあたっては当時の技術の粋を集め、しかも駅の部分は可能な限りバリアフリーとしたゆったりとした設計で、さらに複々線化への準備工事も為されていた。
複々線化は昭和12年に完成、今のJR神戸線の形態に近くなった。
写真は高架化ができた当時の元町付近を走る列車。
絵葉書昭和元町付近の省線 (2).JPG

昭和9年には旧三ノ宮駅跡地に元町駅が開業している。

昭和6年の高架化で相生橋跨線橋は消滅したが、今も高架工事中の仮受けをするために設けられた梁を高架下で見ることができる。
神戸D51PARKの一番北の端、高架の橋脚に横渡ししてある梁が当時の相生橋仮橋の受けではないかと言われている。
1019神戸D51PARK相生橋仮橋跡.JPG
もちろん、昭和12年に完成した南側2線では、相生橋は消滅していたのでこのような横梁は存在しない。


昭和12年、電化なった東海道線のスターとして京都・神戸間に「急行電車」が登場。
最新の性能とデザインを備えた画期的な流線形電車は私鉄王国と言われた関西で、鉄道省の存在感を見せつけた。
写真は今も吹田工場で保管されている急行型電車、モハ52.
1031吹田モハ52全景.JPG

神戸駅を含む神戸市内高架線や、阪神・阪急・山陽などの私鉄はは阪神大水害、神戸大空襲、いくつもの台風、そして阪神淡路大震災を経験し、その都度、復旧されて今に至る。

そして市電廃止の前に、昭和43年4月7日、神戸高速鉄道が開業、相生橋跡地の地下に電車が走るようになった。
この場所では阪神電車と山陽電車が、線路北側の三宮方向には阪急電車と山陽電車が走るようになった。
同時に高速神戸駅の隣にできた新開地駅には神戸電鉄が乗り入れ神戸市内の私鉄が一堂に会するようになった。
この神戸高速鉄道は戦前から計画されていた私鉄各線の免許線を繋いだもので、例えば阪神電鉄の構想では以下の図のように考えられていた。
阪神乗り入れ予想図.jpg

当時、湊川が神戸の中心と考えられていて、神有電鉄(今の神戸電鉄)は省線神戸駅を目指したものの、阪神・山陽はいずれも湊川を目指していた。
もしこれができていると、神戸駅周辺は今現在は場末的な雰囲気になっていたかもしれない。
神戸高速鉄道が高速神戸駅を設けたことは、神戸駅にとっては都市の中心駅である最後の砦となったのかもしれない。

昭和12年ごろの阪神三宮駅、この建物は長年「そごう」として神戸市民に親しまれたが、今は「神戸阪急」として健在である。
絵葉書昭和阪神三宮駅 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

同じころの阪急神戸駅、今の阪急神戸三宮駅。
絵葉書昭和阪急神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

初の電車特急「こだま」は神戸から東京への日帰りを可能にした。
写真は今も川崎重工で保存されるクハ26001→クハ151-1→クハ181-1車両。
1018和田岬線川重クハ26.JPG

神戸駅は三ノ宮に都市中心部を持っていかれ、さらに新幹線新神戸駅の開業で東への長距離列車も消滅しながらも、駅南の湊川貨物駅は今やハーバーランドとなり、巨大なビジネス・ショッピング街を形成している。
神戸市の構想では数年で、都市中心駅に相応しい雰囲気を持たせるとのことで、期待も高まる。
なお、神戸駅東側に保存されているD511072 は、この湊川貨物駅まで、貨物列車に組まれて北海道からやってきた。
神戸に到着した際の写真が残っている。
昭和53年7月、奥清博氏撮影。
19780527湊川貨物駅D511072編成.jpg

今現在の神戸駅。
堂々たる3代目駅舎は健在だ。
0729神戸駅 (2).JPG

皇族専用に作られた貴賓室が近年まで健在であったのも神戸駅の特徴だ。
昨年までは「がんこ」店内の部屋として予約すれば使わせてもらったが、閉店、いま「Starbucks」の店として改装工事中だ。
改装後もあの雰囲気は残してもらえるのだろうか。
20220828神戸駅貴賓室.jpg

駅舎正面。
神戸駅2012.jpg

夕刻の神戸駅を。
歴史的建造物にも指定された駅舎が未来を見据えて建つ。
0423神戸駅.JPG

夜の神戸駅と月。
1028神戸駅と月.JPG


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2023年06月14日

雨と鉄道

梅雨の季節、雨は撮影者や旅行者にとっては憂鬱なものだ。
そして時には大雨、豪雨、昨今では線状降水帯なるものができると、列車の運行は規制され、さらには線路や路盤への被害があると長期間にわたって当該線区の運行ができない可能性もある。
なにも最近だけではなく、大雨による水害で被災し、そのまま廃線になった鉄道もいくつも存在する。

しかし、雨は晴れと同じく気象現象の一つでしかなく、度を越さぬ雨はまたなんともいえぬ風情を持つものでもある。
今回は過去に出した写真の中からそんな雨のシーンを振り返ってみたいと思う。

函館本線桂川・・雨に煙る海岸線をキハ183が行く。
S62桂川キハ183.JPG

こちらは普通列車、キハ22だ。
S62函館本線桂川キハ22カラー (2).jpg

名鉄、廃駅になった東笠松にて。
7500系の豊川急行、長く見えるが同じ毛糸の列車と上下で出会っているところだ。
東笠松名鉄7500雨.jpg

通過する下り急行。
S61名鉄7500急行東笠松雨.JPG

蒲原鉄道、一度しか行けなかったがその時は大雨だった。
蒲原鉄道五泉.JPG

餘部駅に入線するDD51牽引、普通客車列車。
雨の餘部駅.jpg

豊橋駅前、豊橋電鉄の路面電車が入構する。
名古屋市電から来た3101号だ。
雨鉄豊橋3101.jpg

広島駅前、広電も初めて訪れた時は大雨だった。
旧神戸市電、1101号。
広電1101広島駅雨.JPG

雨が小降りになってきた。
帰宅する学生たち、そしてカラフルな電車たち。
通学広電雨1105.jpg


余部橋梁、DD51牽引の普通客車列車、下り。
餘部雨DD51.jpg

その列車の後尾、旧型客車独特の雰囲気、雨情というにふさわしい。
餘部雨客車.jpg

上り列車が発車していく。
餘部雨客車最後尾.jpg

名鉄知立駅。
雨の中、蒲郡線特急が入線。
知立特急三河湾7000.jpg

パノラマカーに運転士が乗り込む。
雨は小雨になってきたが、急な手すり、独特の姿勢をとる必要のある乗務員扉、足を滑らさないようにと思いながらの乗務だったのだろう。
知立7000運転士.jpg

雨の中、走るパノラマカーの展望席から。
うちつける雨、列車は淡々と走る。
固定窓のこちら側は外とは別世界だ。
名鉄パノpラマカー雨展望.JPG

地上時代の電鉄明石駅と山陽3000系特急。
山陽3066明石雨.JPG

「雨あがったね」声が聴こえそう。
山陽電鉄明石女子高生.jpg

犬山橋を行く当時の最新鋭車両・・・
キハ8500。
雨犬山名鉄キハ8500.jpg

パノラマスーパー。
雨犬山名鉄1000.jpg

3連化されたパノラマデラックス。
雨犬山名鉄8800.jpg

「特別なトワイライト」が来る寸前、豪雨になった。
EF65トワイライト・207雨の須磨.JPG

EF66が長い貨物列車を牽引する。
雨EG6633.jpg

トワイライトの後を受けた、「瑞風」が雨の中突っ込んでくる。
瑞風・223垂水雨.jpg

驟雨の中、神戸電鉄3000系。
081015神鉄道場3014雨.JPG

未だに晴れたことのない、雨晴。
1018雨晴キハ40×2義経岩.JPG

雨が晴れぬという意味ではなかろう二と、これは自分の運のなさへの自虐。
1018雨晴キハ40×2後追い.JPG

明けどころか霧も出てきた。
帰路につこう。
1018雨晴キハ40・47×3.JPG

水しぶきを巻き上げN700が走る。
0507西明石N700水しぶき.JPG

国鉄型がたくさんいた当時の王寺駅。
105系王寺雨.jpg

梅雨の雨の向こう、靄ってきた橋梁を山陽3000系が渡る。
0615加古川橋梁山陽3000系雨_01.JPG

デジカメになって撮影枚数に気を遣わずに済むようになり、雨の撮影も増えた気がする。
EF6627が雨を降り払って走る。
雨垂水EF6627.jpg

まだ大型電車の残っていた福井鉄道。
雨鉄福井602・802.jpg

山陽電鉄と近鉄の電車が阪神線路上で出会う。
雨山陽5603・近鉄1027.jpg

保存車両にも雨。
自分が神戸で車両保存に関わるようになってから、雨の多い時期には車両の痛みを気にするようになった。
雨小松クハ489-501.jpg

雨の東武鉄道佐野駅にはいる一日一本の特急列車。
0901佐野東武200系りょうもう.JPG

阪急松尾駅で嵐山線6300系が出会う。
20090725松尾阪急6452.jpg

嵐山駅の照明が雨に濡れ、電車のマルーン共々美しい。
20090725嵐山阪急6300系.jpg

雨の北条鉄道、梅雨時の田を見て走る。
雨北条鉄道.jpg

南海電鉄汐見橋支線、一編成しか運用されない電車が下町風情の中を行く。
雨鉄津守南海2231.jpg

山陽新幹線、雨の中で列車が出会う。
雨加古川橋梁500系N700  .jpg

雨あがり間近のドクターイエロー。
1129加古川橋梁D.Y.2.JPG

雨の西明石、ドクターイエローが来た時には小降りになってしまった。
0117西明石500・D.Y.2 (4).JPG

犬山橋を行く名鉄6000系。
スカーレットは雨の日にも良い。
犬山橋6000系旧.jpg

鉄道専用橋となった姿、やはり6000系がゆっくり進んでくる。
犬山橋6000系.jpg

熊本市電、当時最新鋭の軽快電車が豪雨を突いて走る。
熊本市8202田崎橋行き.JPG

雨には市電も走りにくそうだ。
熊本市1095後追い.JPG

最後に、広島市の雨。
雨の都会の風情に神戸市電が昔の街を懐かしんでいるようだ。
雨広電1153.jpg
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2023年05月21日

Monochrome Memory

僕は国鉄退職後に写真屋になり、当時は未だモノクロが強い時代。
徹底的にモノクロの作業を叩きこまれた。
だからある時期までは撮影する殆どの写真がモノクロだった。

メリットはと言えば、現像プリントを作業のついでにできるので低コスト、そして高品質のモノができるという事だろう。

当時、コダックのトライエックスは長巻での入手も可能だったが、それをすると前後の手順が増えることで、僕自身はコダックの商品を扱う写真展でトライエックスを安価で入手していた。

だが、最初にカメラを持った時の写真はカラーネガフィルムで、モノクロは作業を覚えてからやり始めたという事を白状しておく。
モノクロを教えてもらったのは後に長い付き合いとなる写真店の主人で、中学校の帰り、部活動の如く店の暗室を狩りて写真を焼き付けていたものだ。
さてその頃の写真を‥
昭和50年代前半、姫路駅の80系電車。
80系姫路.jpg

そして未だ一眼レフを持つことが出来ず、OLYMPUSのコンパクトカメラの性能をぎりぎり使って当時としては大冒険な夜の撮影などもやってみた。
トライエックスは増感現像ができて、OLYMPUSのコンパクトカメラのレンズは高性能で明るかった。
通過する特急「富士」
宝殿EF65富士.JPG

ただ、シャッター速度のマニュアルコントロールができず、この時期に流し撮りを覚えたのかもしれない。
こちらも宝殿駅を通過する153系急行「鷲羽」。
宝殿鷲羽.jpg

駅の情景などを写しこむのもモノクロが良いのではと自分で思うようになった。
阪和線天王寺駅で。
つるんとした不思議な旧型国電、ノーシル・ノーヘッダのクモハ60か。
クハ60天王寺.jpg

夜の駅撮りはモノクロの絶好の被写体だった。
そこに人があり、列車がある・・ドラマを生み出すこともできたのではと思う。
札幌駅で、通勤列車の発車合図のために待機する駅員。
S62札幌駅711系発車前.JPG

南海阪堺線(今の阪堺電気軌道)神ノ木駅の風景。
阪堺神之木女性 (2).jpg

京阪七条駅における発車風景。
車掌京阪七条.jpg

大阪駅、長距離列車ホームだった11番線で列車を待つ乗客たち。
S56大阪駅7・11番線.JPG

九州・長崎でも冬は寒かった。
通学長崎309.jpg

谷汲駅改札での風景。
名鉄谷汲線改札.JPG

松江駅で特急「おき」を見送る女性。
発車2松江キハ181おき.jpg

夜の風景なども漆黒のモノクロゆえだからこそ出せる味もある。
大阪駅での581系回送。
S56大阪駅9・581系回送.JPG

西条駅でのEF59。
EF5913西条夜間.JPG

その横に停車した夜行急行、14系。
14系西条駅.JPG

山陽電鉄板宿駅の夜の情景。
山陽板宿夜景1.JPG

冬場だけ見られた別府鉄道野口駅の夜景。
別府鉄野口夜景.jpg

明け方の小郡駅で発車準備中の宇部線電車。
宇部線クモハ51小郡夜景.jpg

古色蒼然とした列車や駅もモノクロームによればさらにその深さを実感できるような気がする。
山陽電鉄月見山駅。
月見山駅旧駅舎.jpg

こちらは京福電鉄福井支社、勝山駅。
京福福井勝山駅舎.JPG

身延線の旧型国電、富士駅にて。
身延線クモハ51半流.jpg

まさに古豪の車内、名鉄モ3350形だろうか。
S55名鉄AL800形車内.JPG

同じ車内でもこちらはドイツ生まれの電車内。
広島電鉄ドルトムント電車。
広電ドルトムント76車内.jpg

一畑電鉄の51形電車。
53一畑.jpg

朝の景色、色のないモノクロームだからこそ出る感情もあるかもしれない。
長崎本線東園付近。
海東園キハ35.jpg

大好きな電車を好きなように撮影する…
デジタル化以前でそれができたのは、低コストで高品質なモノクロフィルムがあってのことだ。
東笠松駅での名鉄パノラマカー。
S55東笠松7500流し_01.JPG

木曽川を渡るパノラマカー、連写のできない当時、よくぞこんな撮影をしようと思ったものだ。
名鉄木曽川橋梁7500流し.jpg

モデルになってくれた女性と組んで撮影できた大阪駅の情景。
ポートレート大阪駅3.JPG

モノクロームの可能性は高い。
完璧に再現されたカラー写真に比せば情報量は少なく、見る人の想像力にゆだねられる。
だがそれこそが、写真の真骨頂だろう。
僕が今まで人様に偉そうに蘊蓄を垂れることが出来るような写真など撮っているとは思えないが、やはり、僕自身、永年モノクロを愛し続けてきたのは事実だ。

雨の日、山陰本線東浜にて。
キハ82「はまかぜ」
キハ82東浜.jpg

だが、今やモノクロは一表現手法でしかない。
聞けば某カメラメーカーからモノクロ専用機も出るという。
だがそれはやや違うと思う。
なにも、デジタルカメラの機能を制限してまでモノクロにする必要はなく、ここはやはりモノクロフィルムの出番ではないだろうか。
だが正直に告白すると、僕はデジタル化後、一切、アナログ写真は撮影していない…
本当はあのモノクロの実感をもう一度味わいたいとは思っているが、コストと時間がそれを許さない。

朝の光の中、古豪電車がクラシカルな駅に入線する。
一畑電鉄出雲大社前駅。
一畑6出雲大社前.jpg

広島駅前の夕方、元神戸市電が転線する。
広電584広島駅前夕方.JPG

四国の表玄関、高松駅は気動車の王国だ。
高松キハ28並び夜景.jpg

冬の武田尾を行く旧型客車編成の普通列車。
武田尾客車編成.jpg

小雪舞う武田尾近く、オハフ33の最後尾に旅情が漂う。
武田尾冬オハフ33.jpg

好きな列車もモノクロームで撮影・・
矢張りカラーで撮るべきだったと当時は思ったものだ。
阪急6300系。
阪急6354上牧.jpg

国鉄部内での撮影。
こういったものこそ、モノクロがほとんどだ。
だがモノクロであればこそ今の時代にも写真がきちんと残る。
マニ36、全般検査の際の様子。高砂工場。
新高砂工場マニ36全般検査車内.JPG

キハ815、廃車時の様子。
キハ815高砂1.JPG

C571の全般検査、鷹取工場。
鷹取C571キャブバック.jpg

そして門司港駅の夜、旧型客車からなる夜行普通「ながさき」が発車を待つ。
夜汽車ながさき門司港2.jpg

モノクロームの表現方法よ、どうかどうか永遠に。。。
posted by こう@電車おやじ at 21:56| Comment(0) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする