2025年12月29日

東播磨・北播磨における鉄道の衰退に思う。

昭和50年代から国鉄再建法による鉄道路線の廃止が全国で進んだが、ここ播磨でも例外ではなかった。
特に、戦前に播州鉄道→播丹鉄道より開業した区間や、それら路線に関わる区間において、これ以降は、まさに鉄道の衰退といえる状況を呈してしまう結果となった。
写真は在りし日の西脇駅。
西脇駅S53.JPG

播州鉄道は繊維産業の盛んな加古川流域や、播磨灘沿岸の工業地域の加古川と結び、物資や人の流れを支え、地域経済を興していくことを目標に敷かれた鉄道路線だった。

軽く歴史的経緯を箇条書きにしていく。
先ずは開業篇。
写真は加古川総合文化センターで展示された、播丹鉄道の列車。
1109加古川総合文化センター展示播州鉄道高砂線 (2).JPG

1913年(大正2年) 4月1日 播州鉄道、加古川町・国包(のちの厄神)間開業
           8月10日 国包・西脇間開業
           12月1日 高砂線加古川町・高砂口間開業
1914年(大正3年) 9月25日 高砂線、高砂口・高砂浦間開業
1915年(大正4年) 5月14日 加古川町駅を鉄道院線加古川駅と統合
           3月3日 北条線、粟生・北条町間開業
1916年(大正5年) 11月22日 三木線、厄神(国包を改称)・三木間開業
1921年(大正10年) 5月9日 西脇・市原間開業
          9月3日 別府軽便鉄道野口線開業
1923年 (大正12年) 5月6日 市原・鍛冶屋間開業
          3月18日 別府軽便鉄道土山線開業
          12月1日 播州鉄道の経営が播丹鉄道に譲渡される
1924年(大正13年)12月27日 加古川線、野村・谷川間開業
       以後、加古川・谷川間を加古川線、野村・鍛冶屋間を鍛冶屋線とする。
1928年より播丹鉄道全線において順次気動車の運行を開始。
       国有鉄道買収時点では19両もの気動車「レカー」が使われていた。
1936年(昭和11年)12月28日 三木電気鉄道、鈴蘭台・広野ゴルフ場前間開業
       電化工事が間に合わず播丹鉄道の気動車を借り入れて運行したという
1937年(昭和12年)4月15日 三木電気鉄道全線電化
         12月28日 三木電鉄広野ゴルフ場前・三木東口間開業
1938年(昭和13年)1月28日 三木電鉄三木東口・三木福有橋間開業
1943年(昭和18年)6月1日 播丹鉄道の全路線が国有化される
             鉄道省、加古川・高砂・三木・北条・鍛冶屋線となる。
         10月1日、播丹鉄道の路線バス事業が神姫合同バスに譲渡
1947年(昭和22年)1月9日  三木電気鉄道、
              神戸有馬電気鉄道と合併、神有三木電気鉄道に
1949年(昭和24年)4月30日 神有三木電気鉄道、神戸電気鉄道に社名を変更
1951年(昭和26年)12月28日 神戸電気鉄道、三木福有橋・電鉄小野間開業
1952年(昭和27年)4月10日 神戸電気鉄道、電鉄小野・粟生間開業

日本の繊維産業の中でも大きなシェアを誇っていたのが加古川流域であり、戦前はそ
こへの人口集積も大きかった。
中国・四国・九州地方などから連れてこられた学校を卒業したばかりの少女達には、
彼女たちの故郷と等しい、あるいはもっと長閑な景色が車窓から見えるのを警戒し
て、列車の北向き進行方向左側鎧戸あるいは幕をおろして、少しでも人家の多い右
側、川側の景色しか見せなかったという逸話も伝わっている。
青野ヶ原付近。
加古川線キハ23・35青野ヶ原.jpg

戦前にあって播丹鉄道の運行は活発で、加古川町に近いところや高砂線では30分へ
ッドの高頻度運行もされていたという。

だが、栄光は長く続かない。
日本の産業構造が変化すると、繊維業界はその優位性を失い、これら鉄道群は輝きを
失っていく。

繊維から離れた海岸部重化学工業の輸送機関であったのは高砂線と別府鉄道土山線で、いわゆる臨海鉄道の雰囲気を有していた。
しかし、これも国鉄改革による激変に晒されることになる。
高砂線には沿線大工場群とともに、国鉄高砂工場の存在もあった。
高砂線貨物.jpg

ワタシが写真を撮影し始めたころ、加古川線、高砂線、別府鉄道はいわば地元の鉄道であり、中坊の頃からよく自転車で見て回った記憶がある。
別府鉄道のもう一つの顔だった白砂青松の海岸への観光客(就中、海水浴客)輸送は、巨大な神戸製鋼の出現によって過去のものとなっていたが、高砂線や別府鉄道土山線の貨物列車が活発で、これを見るのは楽しいことだった。
別府鉄道土山線の混合列車。
別府鉄DBハフハフ.jpg

高砂線の長編成貨物列車。
高砂線DD13・ワム貨物.jpg

加古川線は乗客が多く、朝夕には長編成が走り、小気味よくまとまり、整備の行き届いた美しいキハが今と変わらぬ頻度で走っていた。
神野・厄神間にて。
加古川線キハ35・30・23など5連神野.jpg

支線の中でも三木線は乗客が多く、3両編成も見られた。
加古川都市圏に相当する厄神以南の列車本数を確保する意味からも加古川から三木への直通は利用者、国鉄双方にメリットがあったのだろう。
街はずれとはいえ、三木駅にはいつもそれなりの人がいた。
国鉄三木駅夏.jpg

鍛冶屋線も沿線に北播磨の中枢都市、西脇市の中心部を抱え、西脇駅はいつも人であふれ、駅前からのバスターミナルもにぎわっていた。
西脇以北は列車の大半が加古川直通というのもあるのだろうか、利用者もそこそこにあり、閑散線区という印象はない。
鍛冶屋で発車を待つ加古川行きの荷物兼用気動車、キハユニ15。
加古川線鍛冶屋線鍛冶屋キハユニ15発車.jpg

北条線は、このグループ線区の中で、一番大人しく感じる路線だった。
淡々と2両編成のキハがのんびり走るというイメージだ。
ここだけは、現在の北条鉄道による賑わいを三セク転換時に誰が予想しただろうか。
北条線キハ20.jpg

だが、国鉄改革とともに悪魔の足音が忍び寄る。
本来、地域インフラであるはずの鉄道に無理に単独収支など求めなくてもよさそうなものだが(収支を求めるなら地域経済全体で見たいといけないだろう)各線区の単独の収支決算がなされ一定の数字をこなせないところは脱落させられていく。

1981年国鉄第一次廃止対象線区として、高砂線、北条線、三木線がやり玉に挙げられる。
三木線と北条線の沿線協議会は第三セクター化を選ぶが、本来、人口稠密地帯を走り、国鉄山陽本線と山陽電鉄線という二つの幹線鉄道を結び、沿線に大量の貨物取り扱いをする重化学工場群が立ち並ぶ高砂線が、あえなく廃止に至ってしまった。
これには「国労」で纏まっていた国鉄高砂工場そのものを消してしまうというその意志が強く出た結果ともいわれている;
だとしたら地元や、経済界には大きな迷惑でしかなかったのではないか‥
そして国鉄貨物輸送の変革により、これまでの顧客を無謀にも断ち切る暴挙に出て、別府鉄道の貨物受け入れを国鉄が拒否、あえなく別府鉄道も廃止されてしまう。


また輸送人員が多く、生き残った鍛冶屋線は第三次廃止対象路線とされ、北播磨の中枢都市西脇市の都心から線路が消えた。
この後しばらくは再開発された西脇駅用地跡のターミナルより、神戸・大阪方面への特急・急行バスの発着などでにぎわったが、町の衰退とともに北播磨中枢のはずのこの町からバス営業所が消え、高速バスもJRバス撤退、神姫バスも神戸便の大半が廃止になるなど、かつての賑わいがなくなってしまっている。
(神姫バス西脇急行線は1969年からの歴史ある路線だが、大半が社営業所発着となり西脇発着はごく一部のみとなった)
国鉄健在の頃の神姫バス西脇営業所。
神姫バス西脇営業所S53.JPG

さらに第三セクター化された鉄道のうち、三木鉄道が「無用の長物」とされ、実際には特に朝夕には大勢の旅客があるのに、無用を叫んだ市長によって廃止を強行されてしまう。
この辺りの事情は名鉄岐阜地域の中速鉄道を全廃させた当時の岐阜市長と似たものがあるように思える。
三木線は人里離れた山間部を走るのではない。
都市と都市を結び、沿線人口も決して少なくなかった。
三木鉄道石野駅とレールバス.jpg

以下に衰退へ向かう現状への歴史を簡単に記す。


1981年日本国有鉄道第一次廃止対象路線確定

1981年(昭和56年)9月19日 
国鉄、高砂線・三木線・北条線を第一次廃止特定地方交通線として廃止承認する
1983年(昭和58年)11月25日 国鉄高砂工場廃止、正式決定
1984年(昭和59年)2月1日 国鉄高砂線、貨物輸送廃止
別府鉄道全線廃止
          7月1日 国鉄高砂工場廃止(この後、昭和62年まで稼働)

1985年(昭和60年)4月1日 北条線→北条鉄道へ 三木線→三木鉄道へ
            第三セクター鉄道始動

1987年(昭和62年)2月3日 鍛冶屋線、第三次特定地方交通線として廃止承認
          4月1日 日本国有鉄道、分割民営化。
             当地では西日本旅客鉄道(JR西日本)へ承継
1990年(平成2年)4月1日  JR鍛冶屋線全線廃止、バス転換
2001年(平成13年)9月1日 神姫バス、恵比寿快速線運行開始、当初一日30往復
2004年(平成16年)12月19日 加古川線全線電化、加古川駅高架化完成
2008年(平成20年)4月1日 三木鉄道全線廃止、バス転換
2017年(平成29年)3月25日 神戸電鉄粟生線、日中の急行列車廃止
2022年(令和4年)4月1日 神姫バス西脇営業所廃止

今現在、神戸電鉄粟生線が廃止の危機にあるという。
輸送人員15000人、輸送密度5000人近い路線がなにゆえに廃止危機になるのか、ワタシにはいまだに理解不能だが、ほぼ同じ利用状況である名鉄尾西線と比すと、列車の速達性、運行頻度、運賃など利用客の利便性がどうしても劣るように見えるのは致し方のないところなのだろうか。
北条鉄道が経営でき、粟生線が危険ということの、この差は何なのだろう。
急行列車の廃止、朝夕の快速列車の廃止、ここ数年、あえて利用者が離れるようなことばかりしてきている神戸電鉄が、本気で沿線のためを思っているとは考えられない。
三木の美嚢川を渡る粟生線電車。
1208三木神鉄1103サイド.JPG

加古川線も西脇市(旧野村駅)・谷川間での経営が厳しく、JR西日本関西統括本部で最下位の営業成績だそうだ。
ワタシの友人はかつて、西脇から大阪への通勤に谷川経由で向かっていた。
当時は今より本数が多く、福知山線列車も殆どが大阪直通の快速で、利便性が高かった。
今一度、西脇など北播の街と、三田、宝塚、大阪を結ぶルートを再構築しても良いのではないか。
加古川線現代谷川駅103系.jpg

北条鉄道。
活発に見えるが、それは加西市、北条鉄道、それに鉄道社員や利用者の積極的な努力によって成り立っていることは忘れてはならない。
鉄路は廃止してしまったらちょっとやそっとでは戻らない。
維持し、活用し、町の役に立てて行かねばならない。
桜北条鉄道2000-1大歳神社.jpg

クルマ社会の播州といわれるが、同じクルマ社会でも愛知県での鉄道の現状を見るに、寂しくもある。
愛知でも蒲郡線などでは厳しい状態が続くが、根底にあるのは社会を自分たちで守ろうという考え方ではないだろうか。

今一度、東播磨・北播磨の愛すべき鉄道を地域の総意で守り活用していく機運が生まれればと思っている。
posted by こう@電車おやじ at 18:02| Comment(4) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年10月29日

ロングシート一考

自分も参加させていただいている「鉄道insight」という雑誌6月号に「ロングシートの社会学」なる記事が出ていた。
なるほど、関東の方、趣味者から見ればこういう感じなのかなとは思ったが、関西人としてみれば全くその思考の方向性が変わってくる。
そこで本ブログにおいて、その反論ではないが関西人的思考から見たロングシート考というものをここで出してみたいと思う。
とはいっても関西人であっても世代、住んでいる地域、あるいは使っている路線で志向ももちろん異なるだろうし、普段は自動車やバイクを通勤に使いながら、休日に電車移動という人と、毎日電車で通勤通学する人の考え方は異なるだろう。
そこを踏まえてあくまでもワタシ個人の嗜好と思ってみていただきたい。
写真は京阪9000系、セミクロスからロングに改造された車両だが、デザインが非常に美しい。
0104京阪9000車内.JPG

鉄道のロングシートというのは、他の乗り物と大きく違う志向性であると思う。
というのは、鉄道以外の乗り物は常に前方へしか進行しない。
自動車でも船舶でも(一部、短距離のフェリーなどには例外もあるが)航空機でも乗り物は基本前に向かうものである。
そのうえで、自動車や航空機は加速度も大きく、前進するエネルギーを受け止めるために座席は前を向いていなければならない。
船舶にしても後ろへ進行することは、港内の着岸、離岸時くらいしかありえず、なので座席は基本、前方をむく。
ただ、船舶は基本的に加速がゆっくりのために、座敷でもロングシートでも、単距離であれば立ち席でもさほど問題はない。
鉄道車両というのは外国の路面電車など以外では、基本的に前後どちらの方向にも動くことができる。
終着駅へ着くと、そのまま向きを変えて反対へ走る。

そうなると、座席を一方向に向けていたのではかなり不便であり、その点でボックス型のクロスシートやロングシートは有効である。
かつて、国鉄の特急列車が座席の向き、あるいは展望車などを含めた編成の向きが前方向きに固定されていたころには、東京、大阪、福岡などの支線や出入庫線を使って編成全体の向きを変えていた時代もあったが、一日に数本という列車ならそれも可能だろうが、今のように例えば新幹線でも数分ヘッドの運転では非現実的で、座席の向きを変更する作業をしたほうが手っ取り早いということになる。
ロングシートはこの点でも特急列車などではない一般列車の座席としては何の手間もいらず、好都合だろう。
日本の鉄道が開業したころ、客車の作りは各ボックスごとに客用ドアのある英国式だった。
だがこのやり方では長編成化、トイレや化粧室の装備、列車編成の複雑化に対応できない。
やがて米国式の両端に出入り口のある中央通路の客車が標準になる。
しかし、当時の客車は車体幅も狭く、座席の仕上げも良くなかったに違いない。
そこで、上等の車両がまず、ゆったり腰掛ける際に有効なロングシートとなる。
写真はマイテ49。
マイテ車内.jpg

これに対し、大都市の路面電車などでは乗降のしやすさ、車体幅の狭い設計にならざるを得ないゆえに、詰め込みの利くことで当初よりロングシートとなる。
大阪市の保存電車30号。
0519緑木30号車内.jpg

この際も、国有鉄道の上等車を思わせるビロウド帳の座席など、意匠を凝らし小さな車体ながら高級感を打ち出すところもあった。
高速電車が登場したての頃、阪神や京阪、阪急などはその黎明期に車内の作りをより豪華に見せることに腐心している。
やがて車両の車体幅も拡大し、中・長距離には上等車でも固定式のクロスシートが一般化、私鉄においても路線の延長とともに乗り心地を重視したクロスシート車も登場していく。

その当初は国有鉄道が長距離客車に採用したベンチの様な転換式腰掛は、京阪電鉄が急行用に投入した1550形(のちの初代600形)において豪華な転換クロスを採用。
在阪、中京地区の私鉄はこぞってこれを採用した。
阪急900保存車。
1020阪急正雀900車内.JPG

しかし転換式腰掛は、特別な料金不要といえどあくまでも看板列車用であり、一般の普通列車などはロングシートだったし、一時的に阪神間特急用900形に転換式クロスシートを採用した阪急は、国鉄一等車のようなゆったりとしたロングシートのほうが好ましいと、増備の920形からロングシートに変更している。
阪急→能勢500形。
能勢電520車内02.jpg

阪急のこの思想はこれ以降も現在も転換式クロスシート車を保有しながら、ロングシート車であっても阪急独特の豪華さ、ゆとりを設計上の前提としている点で、いわばロングシートの模範生ともいえるものだ。
最近の車両の車内も美しい。
阪急1000系。
1013阪急1005車内.JPG

ふたつ前の世代の9000系車内。
阪急9104車内.jpg

今から40年ほど前の鉄道ピクトリアル誌で「車内アコモを考える」だったと思うがそういう企画があり、ロングシートや国鉄式クロスシートの問題点を挙げて、改善を求める動きがあった。
ロングシートは確かに詰め込みが利くが、問題は座っている人の足と、立っている人の足、身体が近すぎることでトラブルが絶えない。
JR西日本では阪和線の車両を一斉に更新する際、快速用途以外の車両もすべて転換式クロスシートに統一という。利用客やファンがあっと驚くことを成し遂げたが、これには阪和線独特の事情というのも存在する。
阪和線用223系225系はいずれも片側一列、両側で3列のクロスシートである。
(車端部は4人向かい合わせボックス型)
JR西公式サイトより引用、225‐100車内。
225系100台車内トレ旅公式.jpg

関西空港への荷物の多い乗客に向けて荷物置き場の確保という対外的な用途はともかく、3ドアにして、片側一人掛けにすることで座席定員は103系並みを確保できる。
そのうえで通路幅を広くとれるうえ、座っている人と立っている人の足元が重ならない。
これによってラッシュ時の車内での「足を踏んだ」というトラブルが激減したと聞く。
つまりラッシュ対策としても、必ずしもロングシートは万全ではなく、阪和線が一つの答えを出したといっては言いすぎだろうか。
逆に本来空いているはずの地方交通線や地方都市周辺通勤列車で、同じJR西日本がロングシートに設計変更した新車を投入したり、クロスシートだった車両をわざわざロングシートに改造したりして投入するのは、車内の治安維持と大いなる関係がある。
キハ47をオールロングシート化した吉備線用の3000番台。
キハ47-3000吉備線車内.jpg

クロスシートではどうしても車内見通しが良くない。
特に通学時間帯などは学生たちの悪ふざけが過ぎる場合があるが、ワンマン化や駅の無人化の進む今現在ではそれらを監視するためにもロングシートが有効というわけだ。
この歴史はすでにオハ41から始まっていた。
オハ41350代車内.JPG

これは昨今のJR東海が、ローカル区間へ投入する気動車などにも言えることだろう。
(中央線の315系ロング車投入はまた別の事由であると考えるし、その結果は成功であると思う→特に快速停車駅として一部の駅を指定していくより、各駅の乗降客数に変化が少なく、どうしても停車駅が増え、乗降が分散され、車内移動が少しでも楽になるようにという意図ではないだろうか)
JR東海315系車内。
0329古虎渓315系車内.JPG

幸いにして315系はその完成度の高さにより鉄道ファン以外からは好評であると聞く。

そして転換式クロス、固定式クロス、あるいはロングシートであっても、国鉄→JRの車体幅2930~2970ミリという数字は大きな意味を発揮する。
私鉄一般の2800ミリより150ミリ程度広いわけで、クロスシートの座席幅、ロングシートの座席奥行きをある程度確保しても、通路幅がそれだけ広くとれるということだ。

中京圏の名鉄もこのところは特急専用車以外はロングシート車の増備が進む。
JR東海と同じ座席幅を採用すると、どうしても通路が狭くなってしまう。
名鉄最新の9500系の車体幅は2744ミリ、これに対しJR東海313系は2930ミリ(雨どいを含む最大幅は2970ミリ)、なんと200ミリ近くも差がついてしまう。
これでは、快適さを味わってもらうにはロングシートもやむなしということになるのだろう。
名鉄9500系。
0402岐阜名鉄9500系車内.JPG

特急車両の一般席クロスシートは、今現在では片側一列の3列が基本のうえ、半分はロングシートとされている。
写真が名鉄2300系で奥がクロスシートだ。
010610内海名鉄2200系車内.JPG

当初はクロスシート設計だった車両でも増備途中からロングシートに変更せざるを得ない場合もある。
南海21001系は高野線急行用だが増備途中からロングシートになった。
だが当時の南海のシートは大変柔らかく、かけ心地の良いものだった。
写真は一畑へ移籍後だが座席の良さは健在だった。
窓上の照明がクロスシート設計の名残を表している。
南海21001車内・一畑分.jpg

ロングシートだからどうだとか、クロスシートだからどうだとか、それはワタシ自身の思考にはない。
ただ、路線や列車の特性に合った、より快適なサービスを求めるものであり、この点では関東のファンや識者のクロスシート悪玉論には大きな違和感がある。
鉄道を経営する側として、乗客がどうすれば快適に乗車いただけるか、その視点がなければ座席の形態いずれであれ、利用者が離れてしまうという結果をもたらす。
中距離電車でありながらロングシート主体になったE217系車内。
0802E217車内.jpg

JR東のロングシート車は最近はそのデザインも洗練されているように思う。
E531系にはセミクロス車とロング車の両方が連結されているがこれはそのロング車のほう。
0122いわきE531車内.JPG

ちなみにスマホばかり見ていると揶揄される今現在でも関西ではロングシートとクロスシートが混在する場合、間違いなく、クロスシートから席が埋まっていく。
阪神・阪急梅田や京阪淀屋橋などでその光景を目にすることができる。
名鉄においては短距離の乗客はロングシートを選ぶが比較的長距離の利用者は最初からクロスシートを目指して乗り込むのをよく目にする。
これらは男女の比ではあまり関係なく、女性がロングシートを特に好むといううのは、もしかしたらその路線の治安の点で不安があるからかもしれない。
治安を改善した阪和線の事例から見ても必ずしもロングシート万能ではないわけだ。
けれど、治安を改善するために国鉄末期から今現在もロングシート車しか走らない線区もあるわけで、やはり、これはすべてにおいての最適解はなく、線区や列車、地域の個性に委ね、そこから最適解を目指すのが筋だろう。

ロングシートでも趣向を凝らした楽しい車両もある。
叡電「ひえい」
0902叡電出町柳732ひえい車内.JPG

山陽電鉄はクロスシート主体の5000系からおもに普通用としてロングシートのみの6000系へ移行しているが、座席は柔らかく長時間乗車も苦にならない。
0429山陽6000車内全景.JPG

かつてはほとんどクロスシートだった北の鉄道もロングシートが主流になっている。
JR北海道733系、座席はゆったり作られていて好感が持てるが、窓の汚れた車両が多いのはいただけない。
1005新千歳空港駅733系車内.JPG

神戸電鉄は比較的乗車時間が長く、また沿線は冬季の寒さが厳しく、高性能車初期はボックス式クロスシート、やがて2ドアながらロングシート車となった。
長い座席が印象的な1100系。
0306有馬温泉神鉄1109車内.JPG

阪急系列となった今、神戸電鉄の最新ロングシート車の車内はシックで魅力的だ。
6500系。
0102神鉄有馬温泉6504車内.JPG

京阪といえば、ファンには特急用転換クロス車のイメージが強いが、最新通勤車両の車内も美しい。
ロングシートでもここまで設計にこだわってほしいものだとは思う。
0104京阪13000車内.JPG

ロングシートの代表格といえば国鉄103系。
冷房車両が新車で出始めた頃…
103系冷房車内.jpg

名鉄にかつて、ラッシュ用として登場した6000系の小さなクロスシート。
ここまでしてクロスシートにこだわることに驚いたものだ。
名鉄6012車内.JPG

早々にロングシート化されたがこの場合はロングシートのほうが余程サービスに則ったものだろう。
010612中部空港名鉄6000初期型車内.JPG

近鉄2610系の車内、かつては国鉄113系あたりより小さな向かい合わせシートでひじ掛けもなかった。
ロングシートのほうがゆったりと座れる。
0106近鉄2625車内.JPG

近鉄のLCカー、ロングクロス切り替えでこういう発想が関西だと思わせる。
昨今は関東でもこの手の座席変換タイプが増えているが関東は基本、有料座席とするのが関西との違いだろうか。
それだけラッシュの混雑が酷いわけだ。
近鉄Lc車内.jpg

山陽電鉄3000系の座席。
背中からあたる太陽の温かさを感じながら、ゆったりと座れる座面の広いシートは快適この上ない。
0913山陽車内.JPG

どうか、すべてを一辺倒に考え、当てはめるのではなく、地域柄、路線事情、歴史も考慮して乗客に精いっぱいのサービスを尽くす車両であってほしいと願うばかりだ。
5ドアながら閑散時はドア2か所を締め切り、そこに天井からロングシートを下ろして着席定員を増やした京阪の5000系。
通勤車両としては最高の配慮だったのではなかろうか。
1012中之島5000系車内.JPG
posted by こう@電車おやじ at 20:24| Comment(2) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年04月01日

公共交通崩壊の時代へ

この3月末で名鉄美濃町線の代替バスとして機能していた岐阜バスの「岐阜美濃線」が事実上の廃止となった。
0110美濃市駅岐阜バス美濃町線.JPG

名鉄美濃町線は明治44年に「美濃電気軌道」として神田町・上勇知間(後の柳ケ瀬・美濃)間を開業した古い電気鉄道で、会社は名岐鉄道、愛知電気鉄道などとともに今の名古屋鉄道(名鉄)を構成する重要な企業であり、美濃電気軌道が開業した路線のうち一部は今も名鉄名古屋本線の一部でもある。

岐阜市から美濃市へは、JR高山線から美濃太田で長良川鉄道への乗り換えをすることで多分、美濃市を訪れる観光客への影響は少ないだろうが、美濃町線沿線住民が岐阜へ出るのは著しく不便になる。
写真は長良川鉄道美濃市駅。
0110長良川鉄道美濃市駅舎.JPG

名鉄美濃町線が健在だった頃、途中の関を境に大きく乗客数が変化していて、名鉄も関・美濃間の維持には苦労していた。
今現在も、関から岐阜へ出るバスは頻発していて、都市交通として機能しているがそこから北はこれまでは減ったとはいえ、一時間~二時間ヘッドで終日バスが走っていたわけで、ワタシ自身も過去に二度ほどこのルートのバスを使ったことはある。

鉄道時代の数倍の運賃、1.5倍の所要時間を要するが、それでも美濃太田経由より安くて早かったし、何より乗り換えが必要ないのがありがたかった。
両端を結ぶ乗客は自分しかいなかったが途中乗降が結構あり、あの人たちが乗るべき乗り物を失うのかと思うと現地の人々の落胆も分かるというものだ。
かつての美濃駅。
名鉄美濃市駅.jpg

美濃駅に並ぶ車両たち、左が600形、意欲的なローカル線ロマンスカー、右は830形、なんと札幌からの移籍だ。
名鉄美濃モ600・A830.jpg

今現在の美濃駅、保存会によって美しく保たれている。
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車両もまた代表的なものがボランティアの手により保存されている。
0815美濃駅モ876・601・512・593_02.JPG

美濃市の現在の人口は17000人ほどで、これは岐阜県の市としては最も少ない数字だそうだ。
ちなみに同じ岐阜県の養老町でも人口は25000人以上あることを思えばバスとて美濃市で営業を継続するのが難しいという事情は見えてくる。
また、養老町の人口ピークが平成7年の33000人余りだったことに対し、美濃市では人口のピークは昭和30年代初頭で31000人、それ以後、ずっと減少を続けているわけであり、美濃市域の長期低落傾向というのは今後も続くしかないだろうという印象を持ってしまう。
ただ、美濃市も昭和40年から平成2年までは人口は26000人台を維持している。
平成11年、名鉄は長良川鉄道と完全に並行している関・美濃間を廃止(これによって開業時からの美濃町(→美濃市)へは行かなくなった)したが、以降は雪崩のように人口が減り続けている。
名鉄の廃止が原因というよりは、人口減少の中で鉄道を維持できぬほどに乗客が減少し、体力の限界を感じた名鉄が代替交通手段のある区間を廃止したというのが真相だろうが、鉄道の廃止は人口減少へのさらなる追い打ちをかけたのかもしれない。
さらに名鉄美濃町線は平成17年3月末で全線が運行を終了、すでに美濃市へ来なくなっていた路線だが以降は美濃市の人口の減少が加速した感もある。

名鉄の岐阜県内600V線区が全廃となって本年4月でちょうど20年、その期日に代替バスもが姿を消すのは、これは、ごく小さな地方の物語ではないようにも思える。

同じ岐阜地区600V線区である名鉄谷汲線は、美濃よりさらに先を行っていた。
良い意味ではなく、悪い意味でだ。
写真はかつての谷汲駅。
名鉄谷汲駅舎.JPG

谷汲線に岐阜と結ぶ臨時直通急行が入った。
名鉄谷汲線511急行.JPG

谷汲駅での様子。
名鉄谷汲線522外から.JPG

谷汲線は名刹谷汲華厳寺への参拝を主な目的として美濃電気軌道が支援して開業した路線だが、華厳寺の祭礼の際の乗客は多くとも、普段は人口数千人(平成17年で3900人余り)の小さな村であり、当初から乗客は少なかった。
だが、参拝客も自家用車や観光バスが大多数で、鉄道利用客が限られるようになると路線維持すら困難になってくる。
廃止は平成13年で、最末期の谷汲駅での一日平均利用客は390人ほどだったようだ。
廃止後、揖斐川町に営業所を持つ名阪近鉄バスが代替輸送を担ったけれどこれも平成17年に廃止。

この時と期を一にして谷汲村は揖斐川町に合併、揖斐川町コミュニティバスが名阪近鉄バスに業務を委託する形で、運行をするようになったが、結果としてはこれも長続きせず、令和元年よりタクシー会社に運行を委託する形で大幅に便数を減らしコミュニティバス、ディマンドバスの運行に切り替えられている。
名阪近鉄バスが受託していた揖斐川町コミュニティバス。
0401谷汲双門前名阪近鉄バス.JPG

地元住民ではない旅行者が公共交通機関で谷汲を訪れる場合、土日祝日には最低限の便数が揖斐もしくは谷汲口から運行されるが、特に平日は便数が非常に少なく、結果として一旅行者がふらりと訪問することは著しく困難である。
ワタシは名阪近鉄バスの最終期に時間を合わせて谷汲を訪問したが、以降は立ち寄れないでいる。

バス運転士不足が言われて久しいが、小泉改革によってバス事業への新規参入が簡単になり、ドル箱路線には他の事業者が簡単に参入するのに対し、既存事業者はローカル路線の維持を地元より懇願され、足がニ抜け出せなくなっていたところに新規参入により黒字路線すら赤字となってしまい、もはや事業としての旨味もないのだろうし、運転士の収入や勤務形態は悪化の一致をたどり、さらにコロナ禍で多くの運転士が解雇、他事業へ移るあるいは引退ということになってしまい、そこに急速に進む高齢化、なにもバス運転士のような過酷な労働をしなくても人手不足の世の中、他条件の良い仕事を探せばよいわけで、普通に考えて運転士が足らなくなるのはこれは必然だろう。

つい先月、妻の両親の里である大分県南部に行ってきた。
鉄道を見るためではなく、高齢の義母の10年ぶりの里帰りの付き添い兼運転手だ。
集落の半分は無人で、家が崩壊しているところもあるし、公共交通は隣の市との間に走る日に3便の路線バスがあったが最近廃止され、近くの駅と結ぶ3便のコミュニティバスに切り替えされた。
しかしこの近くの駅というのが日豊本線で上りは日に3本、下りは1本しかないという(特急はそれなりに通過する)代物で、かつて町内を走っていた路線バスは悉く撤退、自治体運営のコミュニティバスバスも大半は前日までの予約が必要なディマンドバスに切り替えられていた。
写真はかつて路線バスの正規バス停だった「ととろ」バス停。
アニメキャラが楽しいがここに来るには、余所者には自家用車しか手段はない。
0303宇目ととろバス停2.JPG

ローカル路線だけではなく、工場地帯への通勤バスすら事業者の代替交通なしの撤退という事例もある。
山陽電鉄系の山陽バスが、明石市交通部から譲り受けた路線のうち、二見人工島企業群への通勤バスがすべて休止(事実上の廃止)されたのも今年4月1日だ。
便によってはバス定員いっぱいの50人以上が乗車する路線だったが、垂水区の営業所から遠く、回送に時間と人を要することなどの要因が重なり、他の事業者への譲渡もなく一気に廃止となってしまった。
現地へ鉄道駅から徒歩で向かうのはあまりにも現実的ではなく、企業各社において送迎バスを準備したり自家用車乗り合わせを推奨するなどの騒ぎになっている。
この前に、同社は明石市から受託していたミニバス「タコバス」事業の受託も廃止している。
0828西二見山陽バス4644A.JPG

バス事業者としては、この路線の回送のために要する時間と人で、他の重要路線の便数を確保したい気持ちが伝わってくる。
いつまで公共交通を交通事業者の犠牲、交通労働者の低賃金・悪条件で賄うつもりだろうか。
公共交通という以上は、ここで国家が自国内の安全と労働環境、居住環境維持、向上のためにそれらすべてを安全で高品質な国家政策として補助すべきではないだろうか。
国鉄改革はそれまで全国津々浦々にまで張り巡らされていた鉄道というサービスを、幹線で儲かる路線だけを民間事業者にさせるという大胆で大きな勘違いの政策だった。
国鉄の路線から外れた地域や、もとより細々とした民間事業者しかない地域は国家の交通政策から最初から放り出されでいたが、それがこの国鉄改革で国鉄だった場所にも広がってしまった。

その中で、地元地域を大事にしていた名鉄のような私鉄グループでは、弱体化する地方の不採算路線まで抱え込むことが出来なくなってしまい、それを引き継いだバス事業者もあまりに不採算ぶりに音を上げてしまい、さらにはそこから引き継いだ自治体ですらも交通を維持することが難しくなっていく・・・
それが国家の弱体化でなくてなんだろう。
いやいや、岐阜では、まだまだ可能性のある、それゆえ国土交通省が提唱していたLRT推進事業のモデル都市となるはずだったが、それを拒否し、みすみす街を衰退させた市長というのも存在した。
名鉄600V線区でも揖斐線黒野・美濃町線関以南と、岐阜駅前の間は鉄道として十分に発展する可能性があったのをわざわざぶっ潰したのだ。
美濃町線。
廃止路線名鉄美濃町線野一色.jpg

揖斐線。
名鉄780形揖斐線赤.jpg

新岐阜駅前の喧騒。
岐阜市内線556新岐阜.JPG

いまや柳ケ瀬や徹明町にはかつての賑わいはなくただ、JR東海によって活性化した岐阜駅周辺だけが賑わっているというのが実情だ。
先日、久しぶりに夜の徹明町や柳ケ瀬に行ってみたが、静まり返るアーケードが悲しかった。
今も残る電車の切符売り場。
0401徹明町駅跡.JPG

人の消えた山野で売電のためのソーラーパネルだけが広がり続け、人の消えた商店街の店舗や土地を買うのは外国人不動産屋だというのは、これは国家の崩壊でなくて何だというのだろうか。
ローカル鉄道が走り、ローカルバスが走り、何処の集落のひとでも日本中へ旅をし、日本中の何処へでも旅行者が安全に自分の足で到達できることこそが、本当の意味で「豊かな日本」なのではないか。
愛すべきローカル鉄道が廃止され、その行き着いた先を我々は今、見ているのだ。
その目を逸らすことは日本の未来に目を背けることではないのか。
政治家、実業家、すべての国民に問いかけたい。

最後に、長閑に走るローカル電車。
三岐鉄道、背景は藤原岳。
0730三岐丹生川100形2連.JPG

手前の川のように見えるのは全てソーラーパネルだ。
誰が得するか分からないような国家崩壊への指向を今すぐやめるべきではないか。

posted by こう@電車おやじ at 21:29| Comment(2) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年01月11日

保存車両への雑感

国鉄時代、最初は引退する蒸気機関車を、やがては電機、ディーゼル機、電車や気動車、客車、新幹線車両などが各地で保存されるに至っている。
車両というものはまさにその時代の文化の集積物であり、保存されるというのは意義の大きなことだとは思う。
だが、その車両が保存された後、荒廃するのはこれは、国鉄など鉄道事業者には見えていることであり、それゆえに、それと国鉄の場合は「廃車解体」というその行きつく先を明らかにすることによって帳簿上の問題点を亡くしてきた部分もあり、自治体などからの保存要請には「無償貸与」という形をとってきていた。

国鉄が解体され、保存車両の原簿は各JRに移行されたが、その頃より役所の予算、人手不足により保存されている車両の状態が劣化し、時にはほとんど崩壊するような状態になってしまったのは、それを見る地元住民や、鉄道ファンには哀しいことであった。
状況が若干改善されたのはここ数年で、鉄道ファンや地元ボランティアの方々の意識が変わり、積極的に地元の文化遺産として活用しようという機運が満ちてきている。

それには博物館として多くの車両を保管してきた各団体の努力というものが認められてきたという事もあろう。
鉄道会社でも保存の意義を理解してくれて、これまで保存には熱心でなかった会社でも積極的に自社の文化遺産を守ろうとする傾向がみられることは良いことだと思う。

北海道、安平町のD51 320号機・・
おそらく日本で一番美しい静態保存機だろう。
DSC_3909.JPG

この罐は雪のない季節には週に一度、建物の外に出てくる。
そのための移動機が一緒に保管されている。
DSC_3919.JPG

安平にはキハ183もある。
なおこの町内には他にキハ183もう一両と、スハフ45がある。
1006安平キハ183仰望.JPG

北海道、室蘭の旧駅舎。
線路は外されたが建物は見事に保守されている。
1007室蘭旧駅.JPG

その真横にD51 560号機が保存されている。
海の見える場所であり、保存には絶望的な場所であるはずが、ロッド磨き出し、きちんと手入れのされた個体だ。
国鉄から貸与された時からずっと磨き続けているのだろうか。
1007室蘭d51560.JPG

九州、鹿児島県吉松のC55 52号機。
ここもロッドは磨き出しだ。
昨今の九州山間部は人口の減少著しく、こういった地道な作業も人を集めるのに難儀しておられないだろうか。
一人の意を決した人があれば機関車の美観は保たれる。
吉松がかつては鉄道の街というほどに、鉄道員やその家族、関連企業により栄えたその証を伝える証人でもある。
0711吉松C5552・1.JPG

岐阜市梅林公園のD51 470号機。
ここは友人にご教示いただいて初めて訪問したが、その美しさに絶句した。
岐阜と言えば、あっさりと名鉄600V ネットワークを崩壊させた、鉄道をないがしろにするイメージがあっただけに意外な、そして嬉しい出会いだった。
0815梅林公園D51470 全景.JPG

その岐阜市、駅前には懐かしい御大がいる。
名鉄揖斐線急行用だったモ513だ。
市内の公園で劣化していたものをここに移設、岐阜市が本腰を入れて保存されている。
0401岐阜駅前名鉄モ513.JPG

様々なイベントを行いながら、車体を磨き続けているボランティアの存在は大きい。
夜景は美しい。
0814岐阜モ513夜景1.JPG

和歌山県、有田川鉄道保存会にいたころのD51 827号機、油が滴りおち、艶を放つ罐は本当に美しかった。
0707有田川D51827.JPG

このあと、827号機はえちごトキめき鉄道に貸し出され今に至る。
有田川には看板代わりのD51 1085号機もいる。
こちらも良好な保存状態だ。
0707有田川D511085.JPG

有田川鉄道保存会はこのほかにも富士急行出自のキハ58、樽見鉄道や北条鉄道出自のレールバスも保存されいずれも見事な整備状況でもある。
そしてワタシが神戸のD51 1072号機を整備するのにまず最初に訪問し、実際の保存車両の扱いについてご教示をいただいたところでもある。
0707有田川気が58003キテツ1.JPG

片上鉄道保存会、
貴重な国鉄キハ07出自の気動車、キハ702。
片上現在キハ702.JPG

国鉄キハ04出自のキハ303。
片上現在キハ303.JPG

そして自社発注のDD13を先頭にした客車列車編成。
片上現在DD13551.JPG

鉱山記念館の一角である吉ヶ原駅構内に見事な状態で車両たちが並んでいる。
片上現在吉が原駅舎.JPG

惜しむらくは、コロナ禍以降、中止されている運転イベントが未だに復活しないことで、これには町の支援やボランティア側の都合もあるだろうが、どうか再開を心から祈る。

加古川市鶴林寺にあるC11 331号機。
SLブームの前に国鉄から貸与された罐で、昨今はその痛みが酷い状況だった。
だが、同じ加古川市のキハ2を手掛けるメンバーの一人が意を決して市と交渉、作業が始まった。
0522鶴林寺C11.jpg

今では非常に美しい状態となり、同市を代表する公園で市民のアイドル的存在に帰り咲いた。
0801鶴林寺C11331_2.JPG

長野県小諸市、同市の象徴的観光地である懐古園駐車場、しかも蕎麦の名店、草笛本店の真ん前に位置する場所にあるC56 144号機。
保存というにはあまりにも酷い状況だった。
1223小諸懐古園C56144.JPG

それが最近手入れされ、見違えるように美しくなった。
これは行政によるものだが、美装なった後に日常の手入れをするボランティアが必要で、その点ではまだ不安が残る。
0624小諸C56144.JPG

岐阜県美濃市、かつての名鉄美濃駅はボランティアによりきちんと運営されている。
駅舎も美しい。
0815美濃駅.JPG

保存されているのはかつて岐阜地区で走った電車ばかりで、この地域の路線が大好きだったワタシには涙が出る思いだ。
0815美濃駅モ876・601・512・593_02.JPG

こうして見ると、現役の頃のままだという錯覚さえ起こる。
この美しさを日常的に維持するのは大変なはずで、しかもここは独立採算を維持して、グッズや鉄道、音楽のレトロな商品などの売り上げで車両を維持し、自治体に家賃まで支払っているという。
神戸でD51イベントをする際、大いに勉強させてもらったところだ。
0815美濃駅モ593・モ512・モ601.JPG

岐阜県谷汲村、旧名鉄谷汲駅跡。
駅舎の建物は建て替わった。
0401谷汲駅昆虫館.JPG

だが、改札口付近の雰囲気は営業当時を思わせてくれる。
0401谷汲駅改札.JPG

かつての車両が並ぶ。
それも非常に美しい。
0401谷汲駅514・755.JPG

だが、かつて活発な鉄道路線で容易にアクセスできた谷汲へは今や公共交通は殆ど崩壊状態にある。
岐阜県で有数の観光地であるというのに・・

新幹線車両も保存されている。
大阪府摂津市、新幹線公園に保存されている0系21形。
非常に美しい。
0405新幹線公園21形.JPG

ここにはEF15も保存されているが見事なコンディションだ。
0405新幹線公園EF15120.JPG

四国、鳴門市のC11は非常に荒れた状態だった。
鉄道ファンではないが地域をこよなく愛する女性が神戸のD51に相談に来られた。
0721鳴門C1166全景1.JPG

そこでいろいろ助言させていただき、ただメンバーに鉄道ファンという人が皆無で、公園を美しくしたいとの思いの人ばかりだった。
結果、機関車は見事に美しくなった。
0330鳴門C1166.JPG

そして美しくなったからとイベントを開催し、機関車の前で皆が阿波踊りを踊る。
この機関車こそが日本一、幸せな機関車ではないだろうかと思った。
0330鳴門市機関車さくらまつり3.JPG

加古川市のキハ2、貴重な別鉄道の遺産だ。
ボランティアの活動が活発で非常に美しく整備されている。
0821円長寺別府鉄キハ2.JPG

同じ別府鉄道でもこちらは加古郡播磨町大中遺跡公園。
DC301とハフ5が現役当時のままの美しさで保存されている。
0801大中DC302.JPG

美しい保存車両を見ると嬉しいが、そうではないもの、荒れたものを見ると哀しい。
小樽市博物館のキハ82、準鉄道記念物とのことだ。
1006手宮キハ821.JPG

だが、台枠は腐蝕し外板と台枠が剥離し始めている。
もはやこれ以上の保存にこのままで耐えられるとは思えない。
1006手宮キハ80裾痛み.JPG

解体されそうになりながら救出された事例もある。
兵庫県加東市播磨中央公園のC56 135号機。
解体の予算がついて万事休すかと思われたが、ワタシの目には根本的なところは痛んではいないように見えていた。
後に大井川鉄道が引き取っていったとのこと、今整備中だそうだ。
0926播磨中央公園C56135 .JPG

保存車両の維持は経年や環境による腐食との戦いだ。
昨今ではクラウドファンディングが大流行りで、例えば福岡市貝塚公園のナハネフ22をクラウドファンディングにより資金を集めて綺麗にという事も行われた。
0705貝塚公園ナハネフ221007_2.JPG

よく見ると窓ゴムが違う・・というか、窓回りが原形を失っている。
0705貝塚公園ナハネフ221007_3.JPG

鉄道車両を扱っていない業者に委託したからこうなったのだろうか。
だが、窓ゴムも窓ガラスも今現在でも本来のものは入手可能だ。
もちろん、保存にあたり様々な部分をメンテナンスフリー化することを否定はしない。
ワタシ自身も車両保存にあたって窓枠の構成をアルミに変えてしまえばと提案したこともある。
そして同じ綺麗にするなら、連結して保存されている蒸気機関車49627も綺麗にしてほしかった。
0705貝塚公園49627.JPG

問題は補修方法ではなく、業者に委託して綺麗になった車両を今度はボランティアなり自治体也がその美しさを保つために、定期的な手入れができるのかというところだ。
神戸市でもその問題はあるわけだが今もなんとかなっているという感じだろうか。
東灘区小寄公園の神戸市電1155号、台風で破損し、そのまま解体とも思われたが、市によって美しく再整備された。
0924東灘小寄公園神戸市電1155北側.JPG

兵庫区御崎公園の広電から里帰りした1103号。
0212御崎公園神戸市電1103.JPG

尼崎市のD51 8号機。
ここは行政とボランティアの連携で美しさを保っている。
0924大物公園D518 全景.JPG

企業で保存されている好例、兵庫県小野市カコテクノスにある神戸電鉄1117号。
余りの美しさに涙が出る。
0926カコテクノス神鉄1117.JPG

ワタシもスタッフで参加している神戸電鉄デ101、クラウドファンディング成立により保存車両の仕事に手慣れた企業に依頼して美しさを取り戻した。
今はさらに原形への回帰という事で二度目のクラウドファンディングも成立、間もなく工事にかかる。
DSC_0859.JPG

先にも書いたが、保存車両の維持は腐食との戦いだ。
それにはいったん綺麗にした後の常時の手入れが必要だ。

そこを忘れて資金集め、業者に委託だけでは車両の保存は継続できない。
また、車両が文化遺産であり、それを地域の方々に知らしめる運動も必要だ。

先達から学び、自分たちで考え、地域とのつながりを持ちながら神戸駅前のD51 1072 を今後も維持していけるよう改めて決意を表明する。
1019神戸D511072 全景.JPG

夜景、街灯の少なかったところでもあり、神戸市からLEDによる街灯扱いでライトアップが為されている。
周囲が明るく、華やかになり街の治安が向上した。
1102神戸D511072夜景5_01.JPG

イベント、D51前を中心に地元団体とイベントを行った。
機関車を背景に「安平町雪だるま大使」の高橋涼子さんが歌う。
DSC_1860.JPG

博物館でもない、普通の街中の公園や、道端、駅前などにある機関車や電車、それらにはそこに保存された意義があるわけで、今必死の人たちが維持に努めている。
北海道狩勝峠近く、新内の59672と後ろの20系客車。
特に客車は貴重なもので、個室寝台車も含まれる。
現地の方々が一生懸命に維持しているが、哀しいのは鉄道ファンによる車両部品や銘板類の盗難だ。
暖房機キセまで持って行ってしまう浅ましさには強い怒りを覚える。
こうなると、鉄道ファンは車両保存にとって敵でもある。
1004新内59672・20系客車.JPG

今、ワタシが力を入れさせてもらっているのが北海道津別町のオロネとスハネの2両。
ほぼ原形を保っているがここでも銘板類はずいぶん盗難の憂き目にあっている。
1104津別21世紀の森スハネ16510後尾.jpg

だが鉄道業界の方のご教示により補修用の窓ゴムを入手でき、その作業ができた。
1104津別21世紀の森オロネ10502側ゴム交換後.jpg

車両保存を今後も進めていくには世代交代も必要で、さてそれ上手くいくかが我々の大きな任務なのかもしれない。

最後に鉄道ファン諸氏へ。
クラウドファンディングの登場により、「口だけ出す」から「口もカネも出す」になったのは良いとして
もうひとつ、「カラダ」も出してほしい。
そして保存車の部品を盗むなどという恥ずかしい行為をしないで欲しい。
切なる願いだ。

posted by こう@電車おやじ at 23:48| Comment(0) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年05月07日

神戸駅150周年。

阪神間鉄道が明治7年に開業して150周年になる。
イベントは神戸駅でも5月11日に開催されるが、神戸市垂水区の「絵葉書資料館」で購入した複製絵葉書と拙撮影の写真で神戸の鉄道を振り返ってみたい。
なお、絵葉書資料館によれば商用目的ではないSNSなどでの利用は自由という事なのでここでは最初に同館の資料であることを宣言して書き進めたいと思う。
本ブログはあくまでも個人運営であり、blog上の宣伝などもブログ運営者には一切入ってこない設定としている。
純粋に個人ブログであることを貫きだいためだ。
絵葉書資料館の概要は以下アクセスから。
https://www.ehagaki.org/

日本の幹線鉄道は当時は「官鉄」として主に港と都市を結ぶ路線に手を付けられた。
関東・関西を結ぶ鉄道は軍事上の理由・・主に艦砲射撃を避ける意味合いから、中山道経由として進められていた頃、まずは緊急に必要だった貿易用の支線から始まったという事だ。
明治5年6月12日(太陽暦)、品川・横浜(桜木町)間仮開通。
同年10月14日、新橋・横浜間正式開業。

そして明治7年5月11日、大阪・神戸間鉄道開業。
当時、大阪・西ノ宮・三ノ宮・神戸の各駅が設けられ、二十日後の6月1日には神崎(今の尼崎)駅・住吉駅も開業している。
これまで徒歩だと丸一日を要していた阪神間がわずか1時間7分で結ばれることとなり、経済活動は一気に花開いた。
この時の三ノ宮駅は三ノ宮神社の近くだという事で、今の元町駅の場所であり、元町駅も事実上は同時に150周年を迎える。
明治10年2月5日、京都・大阪間鉄道が開業、同時に京都・神戸間鉄道の開業式典が行われている。

なお、さらに明治15年、敦賀・長浜間鉄道が開業、琵琶湖の水運と日本海の海運を連絡する術が出来上がったが、幹線鉄道の敷設は経済的事情と戦術の軍事上の理由からの意見があり、遅々として進まなかった。
東海道五十三次をトレースする東海道経由が明らかに当時の日本にとって重要だったはずであるにもかかわらずである。
(中山道鉄道は結局、高崎線、信越本線の一部、中央本線の一部、東海道本線のごく一部が出来たものの、中間地点の軽井沢・塩尻間は未だに鉄道としてもあるいは高速道路としても実現もしていない)

開業間もない時代の神戸駅、相生橋からの撮影とされる絵葉書。
絵葉書資料館所蔵資料より。
絵葉書明治相生橋から見た汽車 (2).JPG

手前が今の多聞通、中央幹線だ。
ここに鉄道が駅ができるにあたり、町のど真ん中・・当時は湊川神社や元町周辺が神戸の都心だった・・を分断してしまう事から先進的な鉄道跨線橋「相生橋」が架けられた。
この橋は汽車を眺めるところとして神戸市民にとって名所と化し、のちには市電もここを通ることになる。

三ノ宮駅、今の元町付近にあった駅だ。
昭和初期の高架化・複々線化工事で三ノ宮駅は旧生田川を埋め立てた広大な土地に移されることになり、のちに阪神電鉄も三宮にターミナルを持つことになる。
列車がかなり立派で、長距離列車の雰囲気があるので東海道本線全通後の撮影だろう。
絵葉書明治三ノ宮駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

政府による鉄道建設が遅々として進まない中、民間資本による幹線鉄道敷設を許可することになり、明治16年には関東・東北に広く路線網を作り上げていく日本鉄道が、明治18年には関西私鉄最初の産声として阪堺鉄道(今の南海電鉄)が開業、そして山陽鉄道は明治21年に兵庫・明石間を、この年の年末に明石・姫路間を開業した。

翌明治22年7月1日、東海道本線がようやく全通し、東京新橋から神戸駅まで一本の鉄路で結ばれた。
当時の新橋・神戸間は20時間5分という事だから、今現在、新幹線で新神戸から東京まで約2時間45分、いやいや、青春18きっぷを使った鈍行旅ですら快速や普通で同じ区間を行けば9時間以内でいけるわけであり、現代人には何とものんびりした旅に感じられるだろうが、徒歩でおよそ12日を要した東海道区間を一日足らずで行けるようになったという事はまさに移動の革命でもあった。
同じ年の9月、山陽鉄道が神戸駅まで延伸し、新橋から姫路までが一本の鉄路でつながった。

この当時の列車はもちろん、蒸気機関車牽引で客車は当初は英国式のコンパートメントごとに扉がある形態のものだった。
阪神間鉄道の工事用に導入され、そのまま開業後は牽引機となり、のちに売却された加悦鉄道2号機。
加悦2号機.jpg

当時の各座席区画ごとに扉のある形態の客車、加悦鉄道ハ4995号。
0211加悦ハ4995.JPG

ただ、この形態では車内の移動も自由にならず、列車の長距離化にともない便所や車内移動も必要となり、米国式の中央通路式となっていく。

山陽鉄道が開業した頃の須磨海岸。
絵葉書明治須磨海岸と汽車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

山陽鉄道は明治24年に岡山、明治27年に広島、明治34年に馬関(下関)まで開業するが、明治39年、突然の鉄道国有化法により国有化され、今の山陽本線となった。

しかし一地方の私鉄に関しては国有化の対象から外され、阪堺鉄道はそのまま私鉄として残ることになり、やがて、阪堺鉄道に範をとった純然たる私鉄も登場する。
日本の市街電車以外の電化私鉄で二番目の開業となったのが阪神電気鉄道で、これは日本最初の幹線電気鉄道という画期的なものだった。
明治39年4月12日、大阪出入橋・神戸三宮(滝道)間を開業。
官設鉄道に比して数倍の駅を擁しながら、阪神間をおよそ60分で結んだ。
開業初期の阪神電鉄、場所は大石付近だろうか。
絵葉書明治大石付近阪神電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

さらに明治43年4月15日、今の山陽電鉄の前身にあたる兵庫電気軌道が兵庫から須磨までを開業、大正6年には明石に達する。
舞子公園駅における兵庫電気軌道の電車。
絵葉書大正舞子公園駅と兵庫電気軌道 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

須磨付近の神姫電鉄との合併後の電車。
宇治川電気か、山陽電気鉄道になっていたか・・・
絵葉書須磨国道と山陽電車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

今の山陽本線舞子駅は構内に皇族専用ホームを有する駅で、通常の駅設備も公園中にある風流な駅だった。
絵葉書大正舞子駅と列車 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

明治43年4月5日、神戸電気鉄道(今の神戸電鉄とは無関係の会社)により、市内電車が開業。
市内電車は建設の遅滞、市民からの利便性の追求などのため大正6年に市営化されるが、この辺りの事情は昨今の北神線市営化などとも似ている気がして、神戸独特の風潮というものがあるような気がしてならない。
多聞通を行く、市内電車。
絵葉書明治多聞通と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

大正期、湊川神社前を走る市内電車。
絵葉書大正湊川神社と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

栄町通の市電。
絵葉書明治栄町と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

二代目神戸駅の堂々とした外観と駅前の神戸市電。
絵葉書大正神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料より。

昭和5年9月、東京・神戸間に画期的な超特急「燕」が運転された。
神戸市垂水区在故又野氏所蔵、新聞記事の「燕」試運転・・地上時代の神戸駅。
神戸駅マイテ燕試運転又野氏.jpg

こちらは2線で高架なった神戸駅に停車するC53形。
おそらく試運転だろうか。
これも又野氏所蔵、新聞記事より。
神戸駅C5343燕試運転又野氏.jpg

神戸駅を含む、三ノ宮・鷹取間は昭和6年10月10日に高架化された。
この高架工事にあたっては当時の技術の粋を集め、しかも駅の部分は可能な限りバリアフリーとしたゆったりとした設計で、さらに複々線化への準備工事も為されていた。
複々線化は昭和12年に完成、今のJR神戸線の形態に近くなった。
写真は高架化ができた当時の元町付近を走る列車。
絵葉書昭和元町付近の省線 (2).JPG

昭和9年には旧三ノ宮駅跡地に元町駅が開業している。

昭和6年の高架化で相生橋跨線橋は消滅したが、今も高架工事中の仮受けをするために設けられた梁を高架下で見ることができる。
神戸D51PARKの一番北の端、高架の橋脚に横渡ししてある梁が当時の相生橋仮橋の受けではないかと言われている。
1019神戸D51PARK相生橋仮橋跡.JPG
もちろん、昭和12年に完成した南側2線では、相生橋は消滅していたのでこのような横梁は存在しない。


昭和12年、電化なった東海道線のスターとして京都・神戸間に「急行電車」が登場。
最新の性能とデザインを備えた画期的な流線形電車は私鉄王国と言われた関西で、鉄道省の存在感を見せつけた。
写真は今も吹田工場で保管されている急行型電車、モハ52.
1031吹田モハ52全景.JPG

神戸駅を含む神戸市内高架線や、阪神・阪急・山陽などの私鉄はは阪神大水害、神戸大空襲、いくつもの台風、そして阪神淡路大震災を経験し、その都度、復旧されて今に至る。

そして市電廃止の前に、昭和43年4月7日、神戸高速鉄道が開業、相生橋跡地の地下に電車が走るようになった。
この場所では阪神電車と山陽電車が、線路北側の三宮方向には阪急電車と山陽電車が走るようになった。
同時に高速神戸駅の隣にできた新開地駅には神戸電鉄が乗り入れ神戸市内の私鉄が一堂に会するようになった。
この神戸高速鉄道は戦前から計画されていた私鉄各線の免許線を繋いだもので、例えば阪神電鉄の構想では以下の図のように考えられていた。
阪神乗り入れ予想図.jpg

当時、湊川が神戸の中心と考えられていて、神有電鉄(今の神戸電鉄)は省線神戸駅を目指したものの、阪神・山陽はいずれも湊川を目指していた。
もしこれができていると、神戸駅周辺は今現在は場末的な雰囲気になっていたかもしれない。
神戸高速鉄道が高速神戸駅を設けたことは、神戸駅にとっては都市の中心駅である最後の砦となったのかもしれない。

昭和12年ごろの阪神三宮駅、この建物は長年「そごう」として神戸市民に親しまれたが、今は「神戸阪急」として健在である。
絵葉書昭和阪神三宮駅 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

同じころの阪急神戸駅、今の阪急神戸三宮駅。
絵葉書昭和阪急神戸駅と市電 (2).JPG
絵葉書資料館所蔵資料。

初の電車特急「こだま」は神戸から東京への日帰りを可能にした。
写真は今も川崎重工で保存されるクハ26001→クハ151-1→クハ181-1車両。
1018和田岬線川重クハ26.JPG

神戸駅は三ノ宮に都市中心部を持っていかれ、さらに新幹線新神戸駅の開業で東への長距離列車も消滅しながらも、駅南の湊川貨物駅は今やハーバーランドとなり、巨大なビジネス・ショッピング街を形成している。
神戸市の構想では数年で、都市中心駅に相応しい雰囲気を持たせるとのことで、期待も高まる。
なお、神戸駅東側に保存されているD511072 は、この湊川貨物駅まで、貨物列車に組まれて北海道からやってきた。
神戸に到着した際の写真が残っている。
昭和53年7月、奥清博氏撮影。
19780527湊川貨物駅D511072編成.jpg

今現在の神戸駅。
堂々たる3代目駅舎は健在だ。
0729神戸駅 (2).JPG

皇族専用に作られた貴賓室が近年まで健在であったのも神戸駅の特徴だ。
昨年までは「がんこ」店内の部屋として予約すれば使わせてもらったが、閉店、いま「Starbucks」の店として改装工事中だ。
改装後もあの雰囲気は残してもらえるのだろうか。
20220828神戸駅貴賓室.jpg

駅舎正面。
神戸駅2012.jpg

夕刻の神戸駅を。
歴史的建造物にも指定された駅舎が未来を見据えて建つ。
0423神戸駅.JPG

夜の神戸駅と月。
1028神戸駅と月.JPG


posted by こう@電車おやじ at 00:02| Comment(2) | 鉄道と社会 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする