2024年08月31日

広電、単車時代の終焉へ。

いよいよ、広電の広島駅高架乗り入れが来春に迫った。
このところ既存の路面電車をLRT化して活性化する手法が各都市で見られるが、高架橋によるJR駅への直接乗り入れというのは、これはその最たるものだろう。
しかし、高架橋であるゆえ、市街地区間との接続でどうしても急こう配が存在する。
今、発表されている勾配は40‰で、これは阪神なんば線と同等、神戸電鉄の50‰にも迫る、鉄道車両としては強烈な勾配だ。
‰(パーミル)とは、1000メートルでいくら登るかという単位で、鉄道車両の最高は箱根登山鉄道の80‰、通勤鉄道の最高は神戸電鉄の50‰、東京都電、京阪京津線、宇都宮ライトレールには一部に60パーミルを超える区間も存在する。

もちろん、新鋭の連接車などはこの勾配を上下できる性能を有しているのが、高架化の大前提だろう。
しかし、古くから「電車の博物館」と呼ばれた広電を形成してきた多くのツリカケ式単行車(広電では単車と呼ぶ)がこの勾配を上下できるのだろうか。
基本全ての車両のモーターが搭載されている路面電車は、ある程度勾配には強いと言われる。
今現在、広電に存在する最急こう配は猿猴橋と的場町の間の35‰だそうだ。
またこの計画設定時に、広電に在籍するすべての電車が勾配を走れるという前提があったそうだ。
0804広電的場町706.jpg

だから勾配が急になるから古い電車が淘汰されるというのではないかもしれないが、今や急激に数を増している新型グリーンムーバLEX1000形は単車の運行をどんどん置き換えていき、すでに広島駅前で日中に単車を見かけるのは5号線(皆実線→広島港)、6号線(本線→江波)くらいになってしまった。
従来の単車が高架線を「走れる」と言っても、やはりそこは「安定的に速く」走れるようになる必要もあるだろう。

広島高架新ターミナルに乗り入れる広電がそれを機に、一気に残る単車の淘汰を考えていても不思議ではなく、すぐには資金面の問題もあり実現できないだろうが置き換え完了の時期は案外早いような気がする。

そこで今回は広電の「単車」を取り上げていきたいと思う。
広電に連接車が登場したのは、昭和32年の宮島線1040形改造車が最初だがこれは鉄道線用車両で、路面電車区間としては昭和36年の2500形連接車からということになる。
広電2504.jpg

この電車は鉄道線を走る充分な高速性能を備えた画期的なものだった。
それまでにも宮島線へ直通する車両は存在したが、いずれも普通のボギー車だった。

それでは数字の若い順に進めていきたいと思う。
350形。
元は宮島線直通の単行車として昭和33年に完成した電車で、のちの350形に改番されている。
353号、昭和52年ごろの広島駅前。
広電353広島駅.JPG

500形。
昭和28年から29年にかけて完成した電車。
全車両廃車済み。
504号。
広電504広島駅.JPG

502号。
広電502広島駅Ⅱ.JPG

570形、神戸市電500形のうち、J車(大正13年製造)、L車(大正14年~昭和3年製造)、K車(昭和6年製造)を譲り受けたもので車体が大型で使いやすく、今も一両が残る。
571号(神戸市電K車)本川町。
広電571本川町.JPG

573号(K車)。
広電573.jpg

広告電車、576号(K車)。
広電576原爆ドーム前.JPG

580号(K車)。
広電580広島駅雨.JPG

583号(J車)
広電583.jpg

584号(L車)
広電584.jpg

582号、今も唯一残り神戸市電のあの魅力的な塗装が健在だ
0822広電582広島駅.JPG

600形。
初代600形は撮影ができていない。
二代目600形は西鉄北九州線500形がその前身。
ソアラと並ぶ602号、この電車は今も残る。
広電602ソアラ本川町.JPG

650形、現存する被爆電車として有名。
昭和17年、今はなき木南車両製造。
651号。
広電651.jpg

652号、紙屋町。
広電652紙屋町.JPG

654号、宇品にて。
広電654宇品.jpg

700形(初代)
昭和23年から25年にかけて旧500形から機器を流用して製造された電車。
撮っているのはこのワンカットのみ。
705号。
広電705広島駅雨.JPG

750形、大阪市電1601形、1651形、1801形を譲受した車両を纏めた形式。
753号、昭和3年から4年にかけて製造された大阪市1601形がその前身。
広電753広島駅正面.JPG

756号。
こちらも大阪市電1601形がその前身。
広電756広島駅.JPG

762号、昭和15年に散水車を改造して登場した1651形がその前身、施工は木南車両。
広電762本川町.JPG

768号。
昭和25年に登場した大阪市電1801形がその前身。
広電768宇品.jpg

769号、こちらも大坂市電1801形。
広電769八丁堀.JPG

広電には初代800形もあったがこちらは出会えていない模様。

900形、元大阪市電2600形で大阪市電の顔ともいえる存在だった。
昭和30年から35年にかけて登場した休車部品流用の電車で、広電には後期車ばかりが譲渡された。
913号、本川町。
広電913本川町.jpg

冷房化後の907号。
広電907本川町.jpg

904と913が出会う。
広電904・913本川町.JPG

1100形。
元神戸市電1100形で昭和29年と35年に製造された。
1101号、昭和29年グループで、神戸市電としては初めて前中扉を採用している。
広電1101広島駅雨.JPG

1103号こちらも昭和29年製造。
広電1103広島駅Ⅱ.JPG

1104号、こちらは昭和35年製造、窓回りなどが若干異なる。
広電1104己斐.JPG

広島駅前で大阪市電と並ぶ1105号、初代ハノーバー電車となった。
広電1105・753広島駅.JPG

1150形、昭和30年から31年にかけて製造された神戸市電1150形で和製PCCとして名高いが、現場での扱いにくさゆえ、大阪市電の機器を流用して旧型化された。
広電には廃止時に譲渡。
1151号。
広電1151本川町.jpg

1153号。
広電1153広島駅.JPG

1155号。(1158号だったが後に改番)
広電1155緑.jpg

かつては広告電車だった今も残る1156号
広電1156紙屋町.JPG

1157号。
優雅な全面窓が美しい。
広電1157広島駅.JPG

1900形、京都市電1900形で、つい最近まで廃車もなく全車が稼働していた。
昭和32年生まれで、大型で使いやすく、今も13両が活躍する。
1913号。
広電1913本川町.JPG

広告電車もあった、1905号。
広電1905的場町.JPG


京都市電が並ぶ。
広電1915ほか本川町.JPG

二代目700形、初期車は旧型車の機器流用、ツリカケ式だ。
昭和57年登場。
702号。
広電702本川町.jpg

711号、昭和60年製造、駆動方式がカルダンに変更され名実ともに新車となった。
711広電.jpg

800形。
今現在、広電が製造した最後の単行車だ。
昭和58年、チョッパ制御装置を持って生まれた801号。
0805広電本社前801.JPG

昭和62年の増備からはデザインがより近代的になった。
805号。
0805広電本社前805後追い.JPG

803と807が並ぶ。
広電807・803江波.jpg

今現在広電が製造した最後の単行車、平成6年製造の814号。
VVVF制御だ。
010719広電袋町814.JPG

いまやかつての単車運行路線、比治山線(皆実線)でも大型の連接車が走る。
江波線でもLEXが走る。
その中にあって単車の活躍シーンがどんどん減少している。
大都市広島の輸送を支えるにはそうしなければならないのだろう。

602号の現在の姿。
広電602.jpg

広電本社前で神戸・京都の電車が並ぶ。
010731広電本社前582.JPG

朝の広島駅前、朝日がこぼれ、電車が行き交う。
広電1154・583広島駅.JPG

広電新線、こちらは駅前線延長部で、段原町に向かう。
0804広電新線比治山下.JPG

広電新線、広島駅に向かう。
新線の総距離は1・1キロに及ぶ。
なお、猿猴橋町は廃止されるが、的場町は新たな循環ルートの停留所として活用されるという。
0804広電新線工事.JPG

神戸市電1156号、ハノバーカラーを纏う電車だがここしばらくは車庫以外では出会えていない。
新しい高架線に彼らが来ることはあるのだろうか。
広電1156 (2).jpg

最後に804の夜景。
広電804流し.jpg
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2023年08月10日

神戸高速鉄道

神戸市には東西を貫く二つの地下鉄がある。
一つは神戸市高速鉄道=神戸市営地下鉄。
もう一つはこれより歴史の古い、神戸高速鉄道だ。
阪急5053阪神7801並び高速神戸.JPG

正式名称では「市」の文字が入っているかいないかだけの差でややこしいが、通常は「神戸市高速鉄道」は「神戸市営地下鉄」と呼ばれ、案内にもそうなるのでここではそちらを「市営地下鉄」、本題の主人公を「神戸高速鉄道」と呼ぶことにする。

かつて神戸市には、国鉄東海道・山陽本線のほかに、4つの鉄道会社が乗り入れていて、それぞれ別個のターミナルを有していた。
歴史の古い順に、阪神電鉄が三宮・元町、山陽電鉄が兵庫、京阪神急行電鉄(今の阪急電鉄、以下、阪急)は阪急神戸=阪急三宮、神戸電鉄は湊川だ。

これら私鉄各社のターミナル間は東洋一と謳われた神戸市電が結んでいたが、戦前戦後の都心と言われる湊川への延長は、阪神、山陽の悲願でもあり延長線の免許を有していたし、神戸電鉄は湊川からさらに南へ神戸駅までの路線免許も保有していた。
戦後、神戸市が主導してこれらをまとめ、市内の私鉄路線を結ぶ地下鉄として、神戸高速鉄道が設立されたのが昭和33年だ。

昭和43年4月7日、神戸高速鉄道東西線、南北線が開業。
各社の電車は高速神戸、新開地に集結した。

その頃の僕はまだ小学生で、ある日、梅田から兵庫へ行くのに、いつもなら元町で阪神電車を降りて国電に乗り換えるのに、父が「このまま乗っていく」という。
高速神戸に着いた時、隣のホームに高運転台、青とクリームの山陽3000系を見た時、なんと格好の良い電車があるものだろうと感嘆したのを覚えている。

さて、僕がこの路線とその周辺で写真を撮影するようになったのは昭和50年頃からだから開業後すでに7年も経過していた。
それ以降の思い出ではあるが、路線の大半が地下線ゆえ、当時のカメラやフィルムでは撮影そのものが難しく、結果として路線外側の各社において乗り入れ列車を撮影することが中心になっている点はご承知くださればと思う。

神戸高速開業から長らく、相互乗り入れの免許は山陽須磨浦公園、阪神御影、阪急御影間となっていた。
実際の旅客営業上の乗り入れは須磨浦公園、阪神大石、阪急御影間だった。
各社、特急列車を中心に神戸高速を介して相手方に乗り入れが行われていた。
この開業に際して当時日本で最先端のATSである電波を使った「連続制御式」が採用されている。
これはJRのATS-P並みの高機能をこの当時に実現した画期的なものだ。

神戸高速には基本は山陽は全営業車両が乗り入れてくる。
高速線内で新車を見ることもあった。
黒Hゴムで知られた3060Fだ。
山陽3060旧色高速神戸.JPG

こちらは3030F、この頃のネガカラーフィルムは褪色が激しく、画像処理を施してみられるようになった。
山陽3030旧色高速神戸.JPG

ところが、撮影から30年ほどたったころ、なんとこの編成が復刻塗装車となり高速神戸駅に停車。
30年の時間距離が一気に縮まった。
1225高速神戸山陽3030.JPG

こういう企画は大賛成だし、鉄道ファンならずとも沿線住民からも好感を持って受け入れられるはずだが、昨今の「撮り鉄」による鉄道営業などへの妨害は甚だしく、乗務員の中には鉄道ファンを危険視する人まで出てきてしまう。
こうなると、鉄道ファンを集めるこういったイベント列車はNG扱いとなってしまうのが昨今の哀しいところだ。

では南北線新開地駅。
神戸電鉄の初期高性能車、今でも懐かしむ人が多い300形電車が停車する。
「準急・岡場行」
300形は310形を間に組み込んで4連化され、3000系などと同じような運用だったから、当時、3連しか入れなかった岡場以北、志染以西へは行かなかった。
神鉄新開地304.JPG

その新開地駅でこういう光景が時に出現する。
神戸電鉄1350形1357F・・復刻ツートンだ。
神鉄はこういうイベント列車に熱心で、この辺り山陽とはちょっと社風が異なるようだ。
集まるファンも穏やかな人が多いのかもしれない。
そう言えば、神鉄沿線で鉄道ファン同士の不愉快な事案に遭遇したことはない。
1204新開地神鉄1360.JPG

阪神の電車は、西灘から半地下の岩屋に達してそこから地下に入る。
西灘駅を通過しようとする赤胴2000系(7001系7801系の形態が同じ車両を再編成した系列)の須磨浦公園特急。
西灘阪神2210.JPG

阪神三宮でここから先へは行かない快速急行。
神戸高速には入れない端っこのホームで7801系。
阪神赤胴7844三宮.jpg

高速神戸にて、阪神3801系、大出力・エアサス装備の優秀車だったはずだが、一部編成で製造の際のミスがあったらしく、乗り入れ先の山陽電鉄で事故を起こした。
使用停止となり、この写真の当該編成以外も編成組み換え、内装のリニューアルを行い番号も変更された。
阪神赤胴3902高速神戸.jpg

阪急に乗り入れた山陽の車両は御影駅西方で折り返す。
山陽3010旧色御影.jpg

阪急線内を普通扱いと言えど駅間の長さゆえに高速運転する山陽電車はなかなか楽しかった。
阪急六甲山陽3056姫路特急_01.JPG

六甲駅に初めて6両編成が乗り入れた。
阪急六甲駅俯瞰山陽5022他6連.jpg

阪急三宮駅で‥
山陽の初代アルミカーが引退を前に登場時のイメージに復刻され、停車する。
1121阪急三宮下り山陽3000.JPG

国鉄三ノ宮駅から・・山陽3615(3030F)が折り返す準備をしている。
この編成は後に復刻塗装となったが、元々の塗装の頃だ。
山陽3615旧三宮.JPG

神戸高速鉄道は阪神淡路大震災で大開駅が押しつぶされ、阪急と結ぶ高架橋が崩落した。
それゆえ、震災後から長らく阪急・山陽方面と繋がれず、地下に残った車両で、阪神三宮と新開地の間だけを運行していた時期があった。
僕も当時は神戸市垂水区から大阪市中央区へ通勤していて、真横ではJRがやはり不通になっていて、高速神戸・阪神三宮間をよく利用した。
高速神戸駅も阪神三宮駅も地下は地震などがあったのかという、ほとんど地震前と変わらず不思議な静けさを保っていたが、そこにやってきた山陽5000系の赤いクロスシートに強烈な復興への意思を感じたものだ。

その山陽5000系、大開駅崩壊の際に、この駅を通過するところだったそうで、辛うじて通過して大破は免れたものの、脱線しパンタグラフは吹っ飛んでいたそうだ。
当該は六甲駅の写真にも写る5022で、なんの因果か、僕の手元にはこの編成が「直通特急」運転開始をアピールする看板を付けて走る「阪急六甲行特急」の、それも今はここに駅がある西二見での写真がある。
山陽5022現西二見付近レタッチ済み.jpg

なお、大開駅崩壊・阪急との接続高架線崩落・阪神本線での連続高架崩壊でここに閉じ込められたのは山陽が5022・5018の6連2本、3070の4連1本、阪神が5131・5139の4連2本、阪急が8001Fの8連一本で、これらで阪神三宮・花隈~新開地間を運行していた。
地下の2駅間だけを走り、お客もほとんどいない阪急8000系が当時はまだ珍しかったVVVFの制御音を響かせて高速神戸を出る姿には切ないものがあった。

西代駅は神戸高速開業時に移設・拡大され、6連対応の橋上駅となった。
旧駅のあった場所から当時の西代駅を見る。
ちょうど山陽3000系特急がゆっくりカーブを曲がる。
長田須磨西代山陽3637.JPG

橋上駅から阪急7020Fを。
画面左の立派な木造建築は山陽電鉄の旧本社だ。
西代阪急7020俯瞰.JPG

こちらはカラーで阪急5006F。
一時、阪急5000系は須磨浦特急専門のような運用をされていてなじみのある系列だ。
山陽西代阪急5006.JPG

阪神の旧特急車、3011系を改造した3061系が入線する。
左側は蓮池の体育館。
山陽西代阪神3568須磨浦特急.jpg

停車する7601系7708。
サイリスタチョッパ制御車に改造された急行系赤胴。
山陽西代阪神7708.jpg

道路高架下を潜る阪神7001系7117F。
山陽西代阪神7117.jpg

西代から板宿の間の地上線。
この区間は地下化されているが山陽電鉄の路線だ。
阪神7801系の初期タイプ、7829。
山陽西代阪神7829.JPG

こちらはすっきりと美しい阪神7101系7105。
山陽西代阪神7105.JPG

板宿・・仮設駅舎になる前の下りホームで阪急5100系5132が停車。
山陽板宿下りホーム阪急5132.JPG

商店街を背景に阪神3501系3515が行く。
この踏切はいつも混雑していたが、朝などは一時間に片道30回以上の電車が通過し開かずの踏切だった。
急ぐ学生が遮断機をくぐるのは日常の事だった。
山陽板宿商店街阪神3515.JPG

板宿を行く阪急6000系6111。
板宿阪急6111.jpg

大手付近、真夏の踏切を行く、阪急7000系7020F。
東須磨阪急7020.JPG

須磨寺の急カーブを行く阪神3501形3503。
阪神3503須磨寺.jpg

電鉄須磨駅の副本線に停車するのは当時の優秀車3801系3904。
この車両は3801系の系列廃止後、武庫川線7890形に改造され、現役引退後の今も武庫川団地で保存展示されている。
阪神3904須磨.jpg

山陽2700系は国鉄63形の更新車であり、大馬力ツリカケモーターの音を地下線内部に反射させていたのが印象的だ。
電鉄須磨駅に入線する新開地行2708。
山陽2708須磨.jpg

電鉄須磨に入線する阪急梅田行き特急。
5100系5130F。
阪急5130須磨.jpg

ブレーブスの看板を付けた阪急5000系5010F。
須磨阪急5010ブレーブス看板.JPG

須磨浦公園での阪神8801系8901、かつての3903だ。
山陽須磨浦阪神8901.JPG

阪急5008が桜満開の須磨浦公園を発車する。
桜須磨浦阪急5008.jpg

阪神7601系7709、二連の窓が美しい。
阪神7709須磨浦公園 (2).jpg

こちらは7801系7826。
阪神7826須磨浦俯瞰.jpg

春の須磨浦公園で阪急と阪神が並んだ。
春須磨浦阪急7020・阪神8219?.jpg

春のぼんやり感、ソフトフォーカスで。
阪急・阪神の並び。
春須磨浦阪神8229・阪急7223.jpg

阪急6000系が緑の公園内を行く。
6015F。
阪急6015須磨浦.jpg

阪急の最新8000系も須磨浦公園まで乗り入れた。
H5阪急8120須磨浦公園.JPG

新開地駅、神鉄の復刻塗装「メモリアルトレイン」と3000系が並ぶ。
0820新開地神鉄3010・1360.JPG

菊水山駅近く、新開地行を表示して神鉄3000系トップナンバー編成が行く。
神鉄菊水山3002新開地行.JPG

こちらは急行新開地行、1300系1306。
1300系は全車が引退してしまっている。
神戸電鉄1306菊水山.jpg

神戸電鉄はかつては神戸市が最大の株主で阪急・阪神の持ち株比率が公平であり、山陽・神鉄も応分の株を保有していた。
それゆえ、よく言えば公平、悪く言えば会社の壁が厚く、都市部地下線の直通運転としては本邦でごく初期であったにもかかわらず、長らく各社間の完全直通運転とはいかなかった。
それが変わってきたのが阪神淡路大震災後の復興期で、JR神戸線があの大被害から先に復旧し、そのスピードで大量の乗客が私鉄から流れ込んだ。
危機感を持った各社ではあったが神戸高速復旧後のダイヤ改正では僅かに利便性を向上させただけにとどまった。

大きな変化はすぐに表れた。
もっとも強い危機感を持った山陽電鉄は、車体寸法、編成長などが共通する阪神に対して直通特急による両社間の相互乗り入れを提案、元々、山陽沿線から阪神方向への流動が多いこともあり、平成10年2月、阪神・山陽の直特急が運転を開始した。
当初は「大阪ライナー」「姫路ライナー」の表示も誇らしげだった。
阪神9206旧垂水.JPG

この直通特急は平成13年には大増発され、西元町・大開にも停車する「黄直特」も登場し、早朝から深夜まで毎時4~5回と頻発運行している。
阪神9501・山陽5010.jpg

しかし、阪急と山陽との直通運転は終了し、阪急はその分、神戸高速線発着の神戸線列車をすべて8連として編成増強、さらには自社内の線路改良でのスピードアップも果たしている。
三宮の神戸高速高架橋を行く阪急8000系8035。
0109三宮阪急8035.JPG

神戸高速を取り囲む情勢も近年には大きく変化し、阪急・阪神HDが誕生しかつてのライバルが同じ企業グループに所属することになった。
そして神戸市が株の一部を阪急・阪神に譲渡したことで、神戸高速鉄道は神戸市主体の第三セクターから、阪急・阪神HD内の子会社ということになった。
路線も阪神電鉄神戸高速線と、阪急神戸高速線となり、実務社員は阪神電鉄に移りいまや会社は線路保有だけだ。
評判の良くない初乗り運賃の各社分がかかる制度は、今も継続されているが、実はこの鉄道、運賃に関しては日本でも極めて安い方で、三宮・西代・湊川間だけの利用ならむしろその安さを享受できるという状況にある。

今後は可能であるならば阪急と山陽の何らかの直通の復活、阪神と山陽の間の普通列車を含めた完全相互乗り入れ、神戸電鉄をせめて、高速神戸に乗り入れできないかという方法の検討などするべきことはたくさんあると思う。

僕は今後もこの鉄道は使うし、僕の生活には深くかかわってくる鉄道であると認識している。
直通特急はそれなりの成功を収めてはいるが、JRや市営地下鉄への乗客の転移、都市内高速バスの台頭など厳しい要件もあり、乗客数は減り続けている。
神戸で始まった本邦ごく初期の相互乗り入れを未来に生かす、その方向へもう少し考えて欲しいものだと思う。
199山陽5600須磨浦公園阪神2000系.JPG
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2021年12月25日

島原・・遠い鉄道

気になりながらも行けない鉄道がある。
行きたくても行けない鉄道もある。
たぶん、僕は生涯、日本国から出ることはなさそうなので一度は見たい、米国・シカゴの「L」や欧州の路面電車は見ずに終わるだろうが、日本の中でも自分の経済力や時間的余裕を考えると、どうしても行きづらいところがあるのも確かだ。

島原鉄道はそういう鉄道の一つで、かつて頻繁に長崎電気軌道を訪問した折にも、途中の諫早で降りれば簡単に行ける場所でもあったのに、訪問はわずかに二回、それも島原以北だけの時間に追わた形となり、本当はもっとも見たかった南目線には足を踏み入れることもなかったのは返す返すも残念ではある。

そして島原鉄道と言えば名物役員だった宮崎康平氏のことも忘れられない。
激務で失明したと言われている氏だが、島原鉄道の先進的な取り組みには氏の功績が大きい。

写真は大三東で…
島原キハ2001大三東.JPG

初めて訪問したのは昭和50年代前半、急行「雲仙」を諫早で降りて、訪問したと記憶している。
その時、諫早から愛野までの強烈な高速運転に驚いた。
島原2601諫早.JPG

島原駅はまるで国鉄のような雰囲気で、歴史を感じさせてくれた。
島原駅舎.JPG

こちらは2エンジンのキハ5501。
島原5501島原.JPG

構内にはD3703 という機関車がいた。
島原D3703島原全景.JPG

この機関車は普賢岳災害復旧工事でも使用された後、廃車になり、今も保存されていると聞く。
島原D3703島原.JPG

福岡在住のこの道の先輩からは南目線廃線の前後に相当な情報をいただいた。
だが、僕は行けなかった。

二回の訪問とも大三東駅を訪れていたようだ。
島原大三東駅名標.JPG

波のほとんどない有明海に面した静かな駅で、当時の僕は非常に気に入ったのだろう。
国鉄から移籍したキハ17形がやってきた。
島原キハ17大三東.JPG

こちらは国鉄型をそのまま採用したキハ20形だ。
島原2001大三東.JPG

単行列車が去っていく。
島原2001大三東後追い.JPG

キハ4502、国鉄キハ44500形の車体にキハ45000形の機構を組み込んで登場させた意欲的な気動車で、島原鉄道の先進性を見ることのできた車両だ。
この頃はすでに活躍も少なくなっていた。
島原キハ4502大三東1.JPG

駅を出て下っていく。
島原キハ半流.JPG

後追い。
島原キハ4502大三東2.JPG

こちらはキハ5501による急行、国鉄準急用気動車の協力型を島原にアレンジして登場させた形式。
2エンジンの高出力車だ。
島原キハ5501大三東.JPG

キハの急行で島原を後にする。
島原5505急行島原.JPG

この頃は急行は日に数本走っていて、キハ26形や55形が使われていた。
列車によっては国鉄列車に連結し遠く博多まで行くのもあった。
キハ26は冷房化され、国鉄急行につながれていた。
しかもこの車両はエアサスを履いていた。
島原キハ2603博多.JPG

少しでも余裕ができれば、長崎県を再訪し、島原鉄道をゆっくりと楽しみたいと願う。
アクセクした鉄道オタクの動きではなく、ゆっくりと旅を楽しみに行きたいと思う。

あの大三東の風情は今も変わらぬようでぜひともまた行きたい場所の一つでもある。
島原キハ2001大三東入線.JPG
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2021年10月10日

下津井電鉄線、バブル崩壊に消える。

下津井電鉄を初めて訪問したのは昭和53年、1978年だった。
当時はまだ、僕は国鉄部内の学園に居て、私鉄好き友人たち数人で向かったものだ。
80系電車で岡山に行き、そこからも多分、80系で茶屋町、そして数年前に廃止になった茶屋町・児島間代替バスで児島へ向かう。
茶屋町の構内は舗装されバス発着場となっていた。
茶屋町駅下電跡1978.JPG

児島のバス停ほど近く、駐車場の端っこのような目立たない場所に下津井電鉄線の駅があった。
(なお、下津井電鉄株式会社は現在、バス事業、不動産事業で盛業中のため、鉄道そのものを指すときは「下津井電鉄線」と表記することに努めた)

下津井児島駅1978.JPG

ほどなくして下津井からの電車がやってきた。
はじめての下電はモハ103・クハ24の編成だった。
下津井103児島入線1978.JPG

電車が停車する。
下津井児島24停車1978.JPG

停車した電車の正面。
下津井クハ24正面1978.JPG

762ミリの軽便鉄道だが、いつも自分が乗っている別府鉄道よりは乗り心地は良いなと思った。
軽便鉄道にしては本格的な設備を備えた、本四連絡のバイパスルートだったというのもあるだろう。

それでも電車は唸りながら鷲羽山の中腹に至り、そこからは淡々と坂を下る。

はじめての下津井駅は工場と車庫もあり、広々していた。
下津井車庫遠望1978.JPG

停車するクハ24・モハ103の編成。
昭和36年、ナニワ工機製の近代的な電車だが、ワンマン化対応による大工事でドア位置が変更されている。
下津井クハ24編成1978.JPG

カラーで。
24下津井.jpg

構内を見せてほしいとお願いすると、快く許可をいただいた。
向こうに見えていた3両編成が気になる・・
近づくと立派な編成だ。
下津井モハ102編成1978.JPG

中間に挟まっているのがサハ2、元をただせば宮城県の栗原電鉄が改軌した際に譲り受けた電車を改造したもの。
下津井サハ2・1978.JPG

工場内には井笠鉄道の気動車がいて、事前情報を持たない僕たちは驚いた。
井笠のホジ3で、児島以北の廃止に際し、線路を撤去するために持ち込んだものだとか。
下津井井笠ホジ3車庫内1978.JPG

そしていかにも気動車然としたバケットスタイルのクハ5。
これは昭和6年、日本車両製のガソリンカーを戦後の電化時に電車の付随車として改造したもの。
下津井クハ5車庫内1978.JPG

外にやや荒れた状態で放置されていたモハ110。
こちらも元をただせば戦前生まれの大型気動車で、電化時にモハ50に改造、後に大工事をしてスマートな外観になっている。
下津井モハ110廃車体1978.JPG

貨車もあった。
不思議な屋根形状をしたワフ2。
下津井ワフ2・1978.JPG

下津井駅待合室の情景。
下津井下津井駅待合室.JPG

この時、モハ1001はモハ23から改造されて存在していたはずだが見た記憶がない。
後にクレヨン電車として走っていた姿を。
下津井鷲羽山1001橋2.JPG

下津井電鉄線は比較的神戸から近いことからよく訪問した。
平成に入ってからの訪問ではクハ24・モハ103の塗装が、当時の国鉄185系に合わせたかのような斜めラインになっていた。
平成2年と記録にはある。
H2下電.JPG

そして昭和63年、瀬戸大橋が開業した。
下津井からの船便を失った路線はある意味では存亡の危機にあったが、珍しいナロー電車として観光路線へと変貌しようとしていた。
余はまさにバブル絶頂期である。
さほど大きくない交通事業者が過大な投資が出来たのはバブル期という背景があったからだろう。

だが、鷲羽山へはクルマもしくは観光バスが主流で、JR児島駅から10分以上も歩かねばならない軽便鉄道に乗りに来る旅客は少なかったようだ。

派手になった児島駅外装、まるでパチンコ屋かと驚き、ある意味では失望した。
観光客が求めているのはこういう事ではなかろう。
下津井児島駅1988.jpg

広くなったホーム、そこに鳴り物入りで登場した新型電車、メリーベル号2000系が入ってきた。
下津井児島駅メリーベル1988 .jpg

アルナ工機製、モハ2001・サハ2201・クハ2101からなる立派な観光電車だ。
明らかに輸送力過剰で、この日も大変空いていた。
車内は、両先頭車は密閉室では冷房付き、中間車と先頭車後部は開放感あふれる開放型でトロッコのようだ。
写真は先頭車の車内。
座席は観光バスから転用したクロスシートだ。
下津井メリーベル先頭車車内.jpg

こちらは開放的な中間車、ベンチシートが海のほうを向く。
乗ったが、乗り心地はゴロゴロしていて、しかもナローゆえ、床が低く、踏切ではそこで待っている歩行者や車の運転者と目が合い、微妙に恥ずかしく思った・・
下津井メリーベル車内1988.jpg

不思議な感覚にどうも足元が浮くような気分を覚えながら下津井に着いた。
下津井メリーベル到着1988.jpg

メリーベル号の編成を。
なんだか、アメリカの古いインターバンの面影を見るような気がする。
下津井メリーベル編成1988.jpg

モハ2001サイド。
下津井メリーベル電動車サイド1988.jpg

サハ2201サイド。
下津井メリーベル中間車サイド1988.jpg>

クハ2101サイド。
下津井メリーベルサイド1988.jpg

あのクハ24・モハ103の編成は、なんと、フジカラー広告電車となっていた。
下津井モハ103フジカラー1988.jpg

井笠のホジ3はきれいに保存されていた。
下津井井笠ホジ3・1988.jpg

謎の蒸気機関車がいた。
本稿を書く前にSNSで友人たちに伺うと、下松工業高校が保有していた「下工べんけい号」とのこと。
この頃は動態復元がなり、全国で巡回して運転し、当時はここで落ち着いていたようだ。
元は、明治40年に東京の石川島で製造され、海軍徳山練炭製造所の専用線で使われいた機関車ではないかと言われているそうだ。
(製造元については諸説あるそう)
下津井下工べんけい号1988.jpg

この機関車は下津井電鉄線が廃止された時に下松へ返還され、学校敷地で運転されたり、三重県阿下喜で保管展示されたりしていたようだ。
情報によると、今は下松市役所内で大切に保管されているという。

観光鉄道を目指した下津井電鉄線だが、わずか3年でバブルは崩壊、時を同じくして瀬戸大橋で沸いた観光地も静かになっていってしまう。
元々、大した観光客誘致が出来ていない鉄道線では、もはやその維持も困難となり、平成2年・1990年年末で廃止、せっかくの新車も僅か3年弱でその使命を終えた。

廃止の近いころ、輸送力過剰のメリーベル号の姿は見られず、もっぱら、車体の落書きを消されたモハ1001が走っていた。
下津井東下津井1001後追い2.JPG

写真はビニールハウス風の屋根も抜け落ちた構内に留められるメリーベル号。
0602下津井メリーベル.JPG

貨車も残る。
0602下津井貨車.JPG

構内の様子。
0602下津井全景.JPG

下津井駅跡では保存会の方々による整備が行われ、車両は往年の姿を維持している。
地域を支えた鉄道の歴史を、少しでも永く伝えていけたらと、今現在、自分も神戸のD511072の保存活動に携わるがゆえに、余計に強くそう思う。

立派な歴史・実績を持ちながらも、最後はバブルの夢があっという間に潰え消え去った小さな鉄道、それが762ミリ軌間、のナローゲージ軽便鉄道、下津井電鉄線だ。
下津井東下津井1001後追い3.JPG
posted by こう@電車おやじ at 15:05| Comment(2) | 私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年08月09日

鹿児島市電

僕は昭和50年代後半時点で存在していた全国の路面電車をすべて訪問し終えていた。
ただ、このブログではこれまでに紹介できなかったところがあり、頻繁に訪問しても一二度しか紹介できなかったところもある。
また、地方私鉄や大手私鉄の路線でも訪問しながら紹介していないところ、国鉄の路線で紹介していなかったところもまだあるわけで、しばらくはそういう鉄道を取り上げてみたいと思う。
今回はそれらのうちから「鹿児島市交通局」鹿児島市電を取り上げたい。

僕が当時も今も日本最南端の路面電車である鹿児島市電を訪問したのは、そこが目的ではなく県内の鹿児島交通南薩線を訪問することを目的とした旅行で、昭和50年代前半、一年以内の期間に二度訪問している。
当時の情報で宿泊地を探すのは時刻表しかなく、安いビジネスホテルが鹿児島市くらいにしか見当たらず、鹿児島市内で宿泊、すると鹿児島市電も見ることが出来るという計画だった。

なお、40年前という事もあり当時の記憶がほとんど飛んでしまっていて、写真については撮影場所も記憶がない状態となっているが、SNSで友人たちからご教示をいただき、ある程度判明した部分もある。
また、当時の「鉄道ピクトリアル」誌などを参照に少しずつ読みほどいたものであること、ご承知おきいただきたい。
間違い等あればご教示いただくと幸いだ。

460形
旧車の機器流用車だが、エアサスを履いている。
461、西鹿児島駅前。
鹿児島市電461西鹿児島駅前.JPG

こちらは鹿児島駅近くの462。
鹿児島市電462鹿児島駅前.JPG



500形
昭和30年から近代的な純新車として登場した車両で、細身の独特のデザインは最北の札幌市電にも通じると思う。
当初は湘南タイプの二枚窓だったようで、後にワンマン化の際に600形に似たイメージになった。
501、市役所近くにて。
鹿児島市電501市役所前.JPG

510と504、この後間もなく廃止された伊敷線への系統だ。
鹿児島駅前。
鹿児島市電510・5043系統伊敷線鹿児島駅前.JPG

504、鹿児島駅前。
鹿児島市電504鹿児島駅前.JPG

507、谷山にて。
鹿児島市電507谷山.JPG

503、西鹿児島駅前。
鹿児島市電503西鹿児島駅前.JPG

600形。
鹿児島市電のイメージを決定的にした形式で溢れる個性と近代味がよくミックスされていると思う。

610、西鹿児島駅前。
鹿児島市電610西鹿児島駅前.JPG

続き番号が並んだ。
604と605、市役所前。
鹿児島市電604・605市役所前2.JPG

615、西鹿児島駅。
鹿児島市電615市役所前2系統後追い.JPG

607、市役所前。
鹿児島市電607市役所前.JPG

601、県庁前、今は水族館前というらしい。
鹿児島市電601県庁前.JPG

谷山にて、609と800形815。
鹿児島市電609・815谷山.JPG

800形。
大阪市電の代表車ともいえる2601形を譲受し、大改造により鹿児島市電流のイメージになった形式だ。
この点、ほとんど大阪時代の面影を失っていない広電900形と比べるとやや懐かしく感じない部分も確かにあった。

812、市役所前。
鹿児島市電812市役所前2.JPG

818、市役所近く。
鹿児島市電818市役所前.JPG

こちらは815。
鹿児島市電815市役所前.JPG

803、県庁前。
鹿児島市電803県庁前.JPG

鹿児島市電への3度目の訪問はあれから40年、未だに実現していない。
これは最北の札幌市電にも言えることで、なんとか改めて訪問したいと願っている。

ただ、当時は「まつかぜ」→「かいもん」、「阿蘇」→「有明」(たぶん)という列車の旅だったが、次回訪問するなら航空機になるのだろうか。
神戸からだと、わずか3時間台の新幹線だろうか、あの、遠くへ来たという実感がとても心地よかった気もする。

最後は谷山の停留所票。
再訪問できることを祈念して。
鹿児島市電谷山駅名票.JPG

posted by こう@電車おやじ at 19:58| Comment(0) | 私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする