コダック社のポケットカメラから端を発して、OLYMPUS 35EDで好きな鉄道を撮影した。
その後、一眼レフ、PENTAX SPを借りて岡山へ人生最初の鉄遠征したが、本格的には国鉄に入社して購入したKonica Acomi-1からとなる。
何故このカメラを選んだか、当時、AEが主流になってきていた一眼レフの中で、CanonとKonicaはシャッター速度優先を採用していたからだ。
鉄道撮影に大事なのは列車を写真上で止めること、あるいは流すにしてもシャッター速度のコントロールが必須だったと考えたからだ。
ところが当時のフィルムの性能ではこの理屈が破綻していたことを知る。
せいぜいASA(今のISO)400のTRY-Xが高感度の一般フィルムだった実情の中で、シャッター優先にすると薄暮などのシーンでは露出不足に気が付かずということになる。
2年使ってレンズも3本そろえたKonicaだったが、酷使で故障したカメラの修理に際しメーカー送りにしてもまともに直らないので嫌気がさし、丸ごと、Nikonに買い替えてしまった。
絞り優先AEのNikon FEで、まだ出たばかり、小型で使い勝手の良いカメラだ。
絞り優先の方が絞りさえ開けておけば常時最高のシャッター速度が使えるわけで(もちろん、日中はそこまで絞りは開けない)これは使い勝手が良かった。
加えて、ゴーストの少ない、そして明るいニッコールレンズ、当時は単焦点レンズの時代、28ミリ、35ミリ、50ミリ、105ミリ、200ミリをそろえ、カメラもすぐにF2、やがてFMを手に入れて旅行にはカメラ二台とレンズ3本・・これは今のデジカメセットよりはるかに小さな荷物で済んだ・・・を持っていくようになった。
地元での撮影は当時、親の都合で加古川市にいたので良く自転車で線路際に行った。
地元の時はサブカメラは持たず、大抵カメラ1台に35ミリと105ミリを持っていったものだ。
さてその当時からワタシの地元と言えばまずは山陽本線、今のJR神戸線だ。
ご多聞に漏れず、ワタシも当時は特急や機関車を追った。
今思えばOLYMPUS 35EDを購入して50年、相変わらず地元で撮影を続ける機関車を追ってみたい。
ほとんどの写真は既出、Archivesになることをご承知おきいただきたい。
*EF58
当時の本線用旅客機だ。
設計製造は戦後すぐと古いが、関西初の夜行列車ではまだ特急を牽引していた。
また荷物列車でも活躍、よく見る機関車だった。
EF58167 、後期型。
宝殿・曽根間はこんなにも長閑だった。
EF5891、宝殿駅、当時構内の北側に橋梁部材などが置かれていた土地があった。

EF58158、同じ場所で。

EF58157、宝殿駅通過中の荷物列車。
背景は農業倉庫。

同じ位置を走るEF58155。
12系の団臨を牽くEF58128。
金光臨など、よく貸切の臨時が走ったし、急行但馬の臨時も姫路まではEF58が牽引した。

トップナンバー、EF581、せめて窓枠がHゴム化されていなかったらもっと人気が出ただろうに。

番号不明、早朝の寝台特急。

こちらは「阿蘇」番号が流れて読めない、明け方はシャッター速度を思うようには上げられなかった。

急行を牽いて加古川に停車するEF5843。

須磨にて美しい大窓のEF58119。

*EH10
マンモスと呼ばれた重厚なニ両連結の貨物専用機、EF60以降の軽快さとはまた違う魅力を見せてくれた。
初期型番号不明、加古川橋梁。
初期型4両はパンタグラフが中央に寄っていた。
EH1036、宝殿・曽根間、珍しくワムとヨだけを牽引する。

EF1024、パンタグラフが交換された個体もあった。

宝殿駅構内EH109、手前の線路は長期間、車両を留置している場所だ。

同じ場所でEH1013、黒い貨物列車が良く似合う。

明け方のEH108。

EH1052 、こういう流し撮り的手法はNikonを購入してから可能になった。

須磨にて、EH105、量産一号機だ。
須磨での撮影は宝殿に比すと少なかったが後に自らの意志で須磨に転居、ここが日常になった。
EH104、宝殿駅停車中。
たぶん50ミリレンズしかなく、これ以上広く撮れなかったのではなかろうか。

車体連結部、永久連結とされていた。

短いワムとヨだけの貨物列車を牽いて上っていく。

EF60以降については次の機会とさせていただきたい。
今思えば、山陽本線特に宝殿付近での撮影は、ワタシが鉄道ファンとして確立していく大きなステップになったように思う。
逆に言えば、あの時、宝殿にいてNikonを買わなければ鉄道ファンとして進化することもなく、さらには写真の世界で苦労を嘗めることもなかったのは確かで、まぁ、そう言う人生を振り返る時期に来ているということだろう。
当方昔、三ノ宮駅手前で走行しているEF58の荷物列車とすれ違った時、暖房の蒸気を蒸気機関車みたいに激しく機関車の上部から噴き上げながら走行していたのが印象的でした。蒸気を激しく噴き上げる時と、そうでない時の差は、蒸気の圧力調整をしているからなのでしょうか。
EH10は昭和53年頃、待避線にゆっくりと進入している貨物列車を見たのが最後でした。あの黒くて迫力のある2車体連結の機関車を見られたのは良かったです。長らくの間を経て現在再度EH200、500、800とEH型が復活したのは興味深いところですね。
蒸気暖房の湯気、いい感じでしたね。
荷物列車が存在したというのも忘れたくないことです。
湯気の多少は外気温にも関係していると思います。
今、EHの子孫たちが頑張っていますね。
やはり貨物は力強くなければ・・