小田原から小田急ロマンスカーで東京入りした時の写真。
時期がずれているものもあるがご容赦願いたい。
今も昔も、僕は東京の電車では京急、京王が大好きで、上京の度に立ち寄っている。
(その分、西武、東武、京成が等閑になってしまった)
京王の電車。
今でいう「乗り鉄」で、まともに列車の写真を撮影しようとした形跡は見られない。
すでに特急は6000系になっていたと思うが5000系が健在だったのがうれしい。
京王八王子、なんとものどかな駅だった。
5116。
こちらは5865。
2023、緑色の電車は数を減らしつつあり、初めて行ったときに比べれば出会う回数が減っていたと記憶する。
井の頭線3767、たぶん明大前、ここから渋谷に向かったのだろうか。
三軒茶屋かと思われる。
(下高井戸とご教示いただきました)
東急世田谷線、71、更新後の姿だ。
正面。
反対側から。
相当、この電車が気に入ったようだ。
こちらは更新されていない72。
正面から。
江ノ電が少しだけ入っていた。
もっと撮影したはずで、またネガが見つかり次第、出していきたいと思う。
304。
352。
踏切を通過する。
停車するニッサンガゼールが懐かしい。
通過時に電車の床下。
なんでこういう撮り方をしてまともに電車を撮影していないのか、我ながら理解に苦しむ。
湘南モノレール、311。
カーブで強烈に左右に振られる乗り心地には圧倒された。
いきなり横須賀線電車、スカ色の113系が写る。
久里浜だろうか。
京急600形には是非、乗りたいと願っていた。
折よく久里浜に600形の快速特急が入る。
624。
電車がゆっくり進む、大きな窓の2ドアという理想的な美しい電車だ。
623、かつて2連単位での編成だったであろうこの系列を見ると、いかに関東の乗客増が過激だったかが分かる。
先頭車同士の連結面。
621。
617、国鉄の真似にならず、二枚窓の新しい形を作ったのが京急。
美しい。
真横から。
京急の車両思想がにじみ出てくるデザインだ。
さて、この列車に乗り込む。
独特の顔。
こうしてみると、どこを見ても美しい車両だと思う。
そして走り出すとその速さにしびれ、固定クロスの私鉄らしいムードも相まって、この電車をさらに好きになった。
品川駅での1000形。
長年増備が続いた系列だが、この頃のものはクーラーも装備されている。
この何年か前、一人で京急に乗ったときの1000形、たぶん横浜駅か。
そして東京を出たのは上野駅から。
特急「ひばり」を眺め・・・・
急行「越前」のグリーン車で信越本線経由、福井へ向かった。
スロ60と読めるが、この時期にあるはずもなく、これはスロ622060だろう。
どうしてきちんと撮影してないかなぁ…
その当時のワタシ。。。
京王5000は名鉄5500似の狭幅貫通扉・パノラミックウィンドウの端整な車輌、次代の6000系を見て、えーっ?と思ったものでした。
当時の江ノ電は連接車主体で、あのアングルからの撮影は連接部分を狙ったものと容易に理解出来ます。
湘南モノレールのあの振り回される揺れは天然振り子式と呼べばよいのか、故に立っていてもよろける事はありません。
京浜急行600形は、同類阪神3011、神有300、西鉄1000が3扉化される中、最後迄看板車輌として美しくありました。
高速域に達するとブーンと唸るモーターの独特の唸りが1000形に無い特徴で、ボックスシートに身を沈めてその音に浸ると不思議と安らいだものです。
1053はラインデリア時代の貴重な姿で、厚みのあるモニタールーフがしっかり写っていますね。
〆がスロフ62とは、奮発の価値がありましたね。私も急行桜島とニセコで堪能しました。残念なのは、スロ54には縁がなく、フルリクライニングでTR23の乗り心地を味わう機会を逸した事でした。
今日も楽しく記事、お写真を拝見させて頂きました。
関東の私鉄にもそれぞれの会社にカラーがあり、まだ幼く小さな世界で生きていた私にとっての地元意識のようなものと重なり合って、“自分の電車はこれ”と決まったものがあったように感じます。
私にとってのそれは、京王線や井の頭線、世田谷線(皆、渋谷から二子玉川園までの路線があった頃のまま玉電と呼んでいました)でした。
通っていた学校の学区の少し向こうに行けば小田急も通っていましたし、親に連れられてよく行った渋谷には東急の路線も通っていましたが、それはあくまでも他所の電車といった感覚でした。
京王の緑の電車は記憶も朧げですが、5000系や3000系は本当に懐かしく感じます。
5000系は、車両ごとにクーラーの形が違い、台車も様々な形があって、どの編成が来ても見ていて飽きることはありませんでしたし、3000系は前面のカラーのバリエーションと共に、お写真にもありますパイオニア台車の変わったデザインが記憶に残っています。
今ではどの路線も本当に様変わりしました。地元と他所が交差していた下北沢は、小田急は既に地下線となり、列車の走る様子を見ることはできなくなりましたし、どの路線も車両は世代交代し、お写真の車両は見られなくなって久しいです。
あの頃、乗り物酔いしやすく、京急では気分が悪くなってしまい、三浦海岸まで行けなかったのも、セピアになりつつある思い出です。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/
ありがとうございます。
高高40年ほど前のものでも思い出せないというのは・・ちょっと自分に呆れます。
その時は気になっていても、それ以後はたいして気に停めていなかった証拠ですね。
ただ、京急の600、これは非常に嬉しい車両でした。
そしてその走り、乗ったのはわずかに一度だけですが、忘れられない名車ですね。
ありがとうございます。
東京は地域に根差した会社の、人間臭いカラーがなんとも魅力でしたね。
今も、世田谷線や京急、京成にはそのカラーを感じます。
そしていつも上京の折、京急を第一に回るものですから、未だに北側の各社には疎い自分があります。
今年こそは、少し乗ってみたいですね。
さて今回は幼少期に慣れ親しんだ玉電(世田谷線)が出ていたので懐かしいです。
70型の更新改造後の姿は生で見たことはないのですが、改造前の顔は武骨で子供の頃はあまり好きではありませんでした。
その71+72を撮影された場所ですが、72を正面から撮った右側に京王線の線路が見えていますので下高井戸のようです。
大昔まだ京王線が小型車ばかりだった頃(私は知りません)、この先で玉電が京王線に乗り入れる計画があったそうです。
東急側のホームが京王の下り線に寄り添うようにあるのはその計画の名残だそうです。
ご教示有難うございます。
頻繁に用務や遊びで東京に出かけた若いころはともかく、この頃はなかなか関東の電車とも縁が遠く、記憶も飛んでしまっていたりして、ご教示いただくのはとてもありがたいです。
今後ともよろしくお願いいたします。
東急世田谷線と京王線は、軌間は同じなので、つながっていなかったのか、調べたことがありました。
一応線路はひとときつながっていて、貨物電車のみ東急から京王に乗り入れていたそうです。
72号車をとらえたお写真の手前右側に京王への渡り線があり、京王も明大前方のほうに渡り線があって、上りホーム裏に貨物ホームがあったそうです。またその時代は世田谷線のホームは2面2線だったようですが、詳しい配線はわかりません。京王線のホームが上下線でずれているのは、東急-京王の渡り線をかわしたためのようですが、もうお写真の時代以降は、渡り線が存在した当時の様子を推定するのも困難でしたね。
かつての東京の電車は都電や国鉄を挟んでいろいろと複雑な運営をしていたのでしょうね。
この場所は後に訪問したはずですが、当時の記憶も何も思い出すことができませんでした。