夜汽車の窓に映るあなたの横顔を見ていると
これがふたりの最後の旅ととても思えない
静けさが不安を募らせれば二人の恋はもう戻せないと
涙があなた曇らせてもまだこんなに暖かい
二年の恋は雨を降らせて古いフイルムのよう、
帰る日差しもあんなに遠く、遠くにしてしまう
伊藤敏博「夜汽車」から。
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このシンガーソングライターは国鉄の車掌さん出身で、しかもこの人の曲をはじめて知ったのは、特急「白鳥」で北へ向かう旅行の途中、富山あたりを走っていた列車の中で聞いていたFMラジオだったと思う。
さすがに国鉄出身の方らしく、作品には鉄道の旅情が色濃く反映されていて、聴くほどにかつての鉄道の情景が思い浮かび涙なしではいられない。
さて、僕らは国鉄改革から20年余りを経て大切な風景というものを多く失くしてしまったように思えてならない。
その中から夜汽車の情景を少しばかり。
画像の中の夜汽車は「ながさき」と「きたぐに」である。
旧型客車の夜行列車には格別の情景があったように思えてならない。
深い青の車体、決して明るすぎない車内の照明。
長旅に倦んできた多くの旅行者の表情。
そして、深夜時間帯であっても煌々と明かりをつけ営業をしている駅。
駅員がカンテラを持ってホームに佇み、荷扱車掌が黙々と仕事をこなす。
質素な車両、質素な駅、それでも今から思えば十分すぎる贅沢だった。
なにより、その情景の中に自分がいた。
それは夜の通勤電車などとは異なる異質の空間。
夜汽車であってはじめて得られる異質の空間で、その空間の存在を貴重なものだと本能的に感じることのできる旅行者だけがその甘い空間を自分のものとすることができた。
それ以外の旅行者にとっては苦痛以外の何物でもないかも知れない空間でもある。
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アタイを見かけたうわさを聞いて
あんたが港を発つ汽車と
居所もたずのアタイを乗せた夜汽車が3時にすれ違う
忘れていくなら窓もこんなに滲みゃしない
あんたの涙とアタイの涙
夜汽車は03時にすれ違う
このまま切るなと話は続く
アタイは受話器の手を離す
優しい夜汽車が着かないうちに
アタイは今夜も町を出る
忘れていくなら窓もこんなに滲みゃしない
あんたの涙とアタイの涙
夜汽車は03時にすれ違う
あんたを乗せてる眩い窓が
あたいになぜでも見られない
似合いの暮らしを続けるために
アタイは今夜も町を出る
中島みゆき「03時」から
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この人には「ホームにて」などの名曲があるけれども、この03時という短い曲は当時の夜行列車の性格を言い当てているように思えてならない。
人の呼吸、汗、そして思い・・
それらを乗せた夜汽車がすれ違うのは確かに午前2時から3時の間だ。
同じ名前の上下列車がすれ違うのを確認できるのは鉄道ファンか鉄道職員か・・
だけれども、人生を歌い上げる若き日のシンガーはその情景をしっかり心にとどめていたと言うことか。
日本の鉄道はあの国鉄改革から大きな変貌を遂げた。
それは確かに大多数の利用者には便利でスマートな鉄道への変身として好意的に受け止められていただろう。
でも、鉄道が真にすべての国民の足として持っていた普遍性は随分失われてしまったのではないか。
便利なものから僕らは旅情を得ることができない。
それはこの国の文学が、音楽が廃れるさまにも似ているような気がしてしまう。
朝、列車は夜の明けきらぬ空の下を走る。
目にするのは空と海の判別もつきがたい海の水平線か、それとも、いまだ眠っている大都会の夜明けか・・
24時間休むことなく日本の何処かで走り続けていた列車、働いていた鉄道職員・・・そんな”国鉄”の記憶が消えてなくなる日も遠くないような気がします。
大阪駅ですらも深夜にはシャッターを閉じ、朝4時半まで一般人が立ち入れない状況・・
貨物列車は走っているものの、夜行旅客列車が激減した現在では、深夜の駅の旅情すら味わうことが出来なくなってしまった・・
本当に国鉄の面影が消えていきますね。
♪動き始めた列車の窓に
二人の顔が映って揺れる
喜びと悲しみのレールを
誰もがそうして乗り継ぎながら
それぞれに、それぞれの
愛を、生きている。
だったか?(さだまさし/それぞれの旅)
国鉄の分割民営化反対キャンペーンのCMに起用されていました。真っ暗闇の前面展望の画面をバックに流れていました。私自身は一貫して反対なので、暗闇に浮かぶレールを不安な思いで見たものです。
この歌では、一言も夜汽車とは言っていないのですが、歌われている思いでほぼ分かります。夜汽車の空気感とはそういうもののように思います。
暗闇の中、時々見える明かり、車内から聴く踏切の音、真夜中の民家に灯りがともっていれば夜更かしなのか早起きの仕事なのかと思いを馳せてみたり。そんなところに雰囲気を感じていました。
夜汽車の哀愁とは、安価な移動手段であったが故に貧しさと共に感じられたものなのかも知れないと思います。それが末期には快速ですら高速バスの価格の前に勝てない状況になってしまいました。18きっぷのような切符を使用範囲を限定する事で(大都市圏、混雑時の無効化)通年販
以前家族で広島日帰り旅行にいきましたが、新幹線がなければ実現不可能だったでしょう。
あの速度が非常に魅力的ですが、やはり自分はなじめないものでした。
夜行列車は「旅をした」との思いがありましたが、新幹線は「移動した」としか感じません。
すべてに余裕が無くなった昨今ですが、残った列車もなんとか生き延びて欲しいものですね。
新幹線開業前の東海道線は、20時を過ぎると10~15分毎に「寝台専用急行」が雁行して行きました。
所謂20系以降のブルトレに隠れてしまい、派手さはないものの、四国を除く日本中で当たり前に姿を見たのも今は昔の語り草です。
語れば尽きぬ中で、特に印象的な列車を以下に。
1.安芸…呉線ではC59・62が急行としては異色のヘッドマークを掲げて走った。寝台専用とは云え、ロザ1、ハザ4を全車指定で連ねる。
2.大和…東海道夜行急行数ある中で、ただ一本関西線経由湊町行。五条ではハネ1輌を和歌山線ローカルへ繋ぎ替え、和歌山市へ。
3.能登…東海道を西下、米原から金沢へ至る。
4.九州観光…団体設定ながら余席は一般売りされ、側面裾に白線入りの専用客車。オールハネ編成にテールマーク付き。
5.からまつ…4本あったハネ付普通列車にあって、池田迄はハネ2輌を連ねる。
6.八甲田…上野を一番に経ち、23時半頃の仙台からハネ2輌を増結。末端区間切放はよくあるが、下り途中連結は珍しい。このハネは22時から利用可能として旅客に利便を供す。
7.きたぐに…あの北陸トンネル火災の頃である。ロネ、ハネ、ロザ、ハザ、シと以前は当たり前であった長距離急行の姿を残した最後の列車。
10系寝台車が3等旅客への寝台提供を全国的に広めた功績はもっと評価されてしかるべきと思います。上段寝台の目前にある通風器が懐かしく思い出されます。
佳き新年をお迎え下さい。
さだまさしの唄にはたくさん、鉄道が出てきますね。
この唄のほかにも「檸檬」「案山子」などは大好きです。
国鉄が解体され20年で夜汽車は過去のものになろうとしていますね。
なんとも、悔しいです。
麻呂さん>
新幹線は便利ですよね。
僕自身、今の新幹線は嫌いではありません。
というか、見るのは好きです。
でも、ゆったりとした時間の流れる夜汽車・・残しておいてほしかったです。。
残る列車たちこそ、どうかがんばってほしいものです。
あづまもぐらさん>
10系寝台車の構造は決して好きになれないのですが、あの風情は好きでした。
飾らず、穏やかな外観こそ夜汽車にふさわしいですね。
横川の碓氷峠文化村に保存されている車両があるはずです。
オシ17までありますよ。
それでは良い新年をお迎えくださいね。
ありがとうございました。
撮影最終日には、下関から米子まで「さんべ3号」に乗りましたが、すでに満員でやむなく最前部の車掌室横の補助席に入りました。狭い所に中学生とはいえ6人もよく入れたものです。牽引するDF50の顔がよく見えました。
翌昭和50年3月には北海道まで撮影に行きました。当然青森までは「きたぐに」の自由席。当時大阪駅は夜行列車の自由席の旅客は早くから構内で列を作って待っており、時間になると係員に案内されてホームに上がるようになっていました。先発隊3人を見送りに行ったのですが、自由席は座れるどころかデッキまで人があふれ通勤電車並みのすし詰め状態。すでに普通車は12系に替わっていたのが幸いでした。でもトイレへ行くにも一苦労で、彼らは一晩立ったままで過ごし糸魚川でようやく座れたそうです。其の混雑を見た翌々日出発の私達後発隊4人は17時ごろから大阪駅に行き列に並びました。22時10分発まで途中交代で買い物などをしながら過ごしました。おかげで座れましたが、列車そのものも2日前ほどの混雑はありませんでした。途中北陸トンネルでは昭和47年の「きたぐに」火災事故を思い出し、亡くなられた方々のご冥福を祈られずには居られませんでした。
17時9分に青森着、そして青函連絡船で函館へ。そこからまた夜行列車「すずらん4号」で苫小牧へ。道内では宿代を浮かすため、何度も夜行列車を利用しました。「からまつ」「利尻」「大雪5号」。特に印象深いのは網走から札幌へ向かった時の上り「大雪5号」。網走から北見までは普通列車で、C58牽引でした。北見までは起きていたのですが、そこからはDD51牽引の急行となり眠りました。ところが起きて見るとまだ遠軽。大雪で動けなくなり、結局動き出したのはその日の夕方になってから。札幌へは一日遅れで到着。途中国鉄からは一度だけ乗客に菓子パンが配られました。
帰りも「すずらん4号」から青函連絡船、「きたぐに」の自由席の乗り継ぎでした。夜行列車自由席の乗り継ぎなどは若い中学生だから出来た事。今では出来ないし、またやりたくても夜行列車の自由席が無い今は不可能。急行の自由席乗り放題の「山陰ワイド周遊券」「北海道ワイド周遊券」を利用したあの頃が懐かしいですね。
北海道や九州、山陰、北陸、四国などののワイド周遊券・・懐かしいですね。
国鉄退社後は良く使いました。
僕も「きたぐに」は12系、14系、583系、で乗車して、北海道の夜行列車も「まりも」「利尻」「すずらん」で乗車しました。
あのころが本当に懐かしく、今は使用と思ってもできない旅行であるだけになんとも切ないものを感じますね。
僕の夜行列車遅れの記憶は・・「日本海」の4時間遅れ、「銀河」の2時間遅れくらいかな。
ワタシは北斗星とは関わりがほとんどありませんから、同じ様な感覚を持った人がほかにいるということなのでしょうね。
今のペラペラに成った、ナンチャッテ旅情に浮かれている人々に読ませたいー
旅情とはグルメを追うことでもなく、デラックスなサービスに浸ることでもないはずですよね。
だからこそ、演歌やフォーク、小説の題材として夜汽車が選ばれ続けてきた・・
夜汽車なき日本は、果たして心の文化を維持することができるのでしょうか。
ちょっとの世代の差で憧れの旧客夜行に乗れませんでした。
それでも山陰本線の旧客には間に合ったので、夜の明けきらぬ始発列車でかつての夜汽車の雰囲気をすこしだけ味わったのを思い出します。
レスが大変遅れ、誠に申し訳ありません。
旧型客車独特の雰囲気、あれを少しでも味わえたなら幸せなのかもしれませんね。
そういいつつ、現役当時の客車はなかなかつらい列車であったことも確か、それこそが時代だったのでしょうね。
キラキラペラペラはもううんざり。
重くて余韻のあるあの時代が恋しい。
ありがとうございました。
ありがとうございます。
ほんと、どっしりと落ち着いた旅を楽しみたいものですね。