2022年04月06日

和田岬線103系詩情

山陽本線の支線である和田岬線に103系が走り始めたのは平成13年(2001年)7月1日の全線電化による同線のダイヤ改正からだ。
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和田岬支線は元々、兵庫区の臨海工業地帯への通勤輸送として、貨物輸送と併用して運行されてきた路線だった。
神戸臨海部には東灘操車場と鷹取操車場を起点とする二つの貨物線が複雑に敷かれていて、僕も幼少期は目の前を貨物線が通る安アパートに住んでいたものだ。
貨物鉄道と市民生活はいろんな場面で直結していた。
だが、貨物輸送の相次ぐ合理化、企業の運営形態の変化で次々に貨物輸送が削減され、ついに神戸市臨海部から貨物線のすべてが消えた。
国際港湾都市であった神戸市は、貨物鉄道の衰退と合わせその機能を大幅に低下させ、国際競争力をなくし、今や大阪港にも後塵を拝する状況でもある。

今現在は「阪神港」として大阪港、周辺の港湾と合わせ一元管理されているようだが、ここでは港湾そのものには触れない。

さて、壊滅した(大阪港には今も安治川貨物駅が存在する)神戸臨海部の鉄道だが、唯一生き残っているのが和田岬支線だ。
貨物輸送としては沿線の川崎車両工場の搬入、搬出が残り、それは時として「甲種輸送」として鉄道ファンの熱い視線を浴びる。
そして旅客輸送の部分では朝夕にのみ運行される通勤電車が、減ったとはいえ大量の乗客を今も運ぶ。
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詰込みをしなければならない路線で、通勤型大量輸送用の103系と言えばまさに彼らにとっては願ってもない働き場所なのだろう。
そしてかつて3500両近くも仲間がいた、彼ら103系は、今や4線区に残るだけになっていて、九州の唐津に3両編成5本、播但線に2両編成9本、加古川線に2両編成8本、そしてここの明石支所(旧明石電車区)所属の6両編成一本の合計55両だけで、和田岬線103系は、実に本来の大都市通勤輸送で使われる唯一の103系という事になろうか。
九州のものは筑肥線でも西側区間でワンマン運転で使われているので、加古川・播但のワンマン運行と似た状況だと言えるだろう。

通勤電車であり、元より味のある設計ではない。
だが、昭和の高度経済成長時代のイメージを今に残すその姿は、時としてみる人、乗る人を記憶の彼方へ誘う。
かつては乗るのも見るのも嫌だった車両がいまや懐かしい、大昔の自分が若かった頃や、その頃に出会った人たちを思い出させる叙情すら感じさせるのだから、時の流れというのは不思議なものだと思う。

さて、和田岬線通勤列車と言えば高々2.7キロの路線を4~5分、一駅だけ走ればいいわけで、快適性より詰込みが効いて、乗降が素早くできればいいわけで、かつてはオハ61を改造した日本の鉄道史に残る究極の通勤車両オハ64、そのあとは気動車化され通勤気動車のキハ35をさらに専用車両化したものが使われていた。

あの阪神淡路大震災は平成7年(1995年)1月17日で、大被害を受けたJR神戸線同様、和田岬線も運行が休止された。
そして神戸線復旧の過程で、新長田駅部分の被害が酷く、被害の少なかった和田岬線連絡線(鷹取操車場~兵庫)に急遽、電化工事を施し、神戸線電車をそこに走らせたのが電化の始まりだ。
おりしも、兵庫駅付近は国鉄貨物駅の廃止により余った広大な土地を副都心に変貌させる「キャナルタウン」計画が始まっていて、和田岬線もそのために半高架化された。

震災でキャナルタウンの出来たばかりの建物にも被害が見られたが、それは外観部分が中心だったようでほどなく復興され、建設工事も再開された。
この町は震災直後の家を失った多くの神戸市民の住まいとして機能していく。
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さて、鷹取から兵庫まで電化してしまえば、あとは和田岬まで3キロもなく、わざわざ検査に不便な気動車を使う意味もなく、所属の鷹取機関区はとうに廃止されていて、鷹取工場も網干へ移転、さらに広大な鷹取操車場を新しい神戸貨物ターミナルとして整備という話が出るに及んで、和田岬線の電化もあっさり決まった。
ちなみに、キハ35、キクハ35では、エンジンを半分撤去したことでバッテリーの充電に手間取り、一晩中、エンジンを駆動させる必要もあったとのことで、現場から気動車が扱いづらいと言われていた。

和田岬線電化と同じころに地下鉄海岸線が開通し、これができると和田岬線利用客が激減するとも言われたが、JRと新地下鉄の乗換駅である新長田には快速が停まらず(ホーム有効長が足りず停車できない)、停まったとしても朝ラッシュ時の快速は列車線を走っているわけでそもそも新長田にはホームはなく、反対側の神戸駅は新快速や快速が停車するものの、和田岬線乗客の流動の大半が神戸市西部、播磨地域から来ていることを考えれば、わざわざ通勤に遠回りをすることも考えられず、和田岬線を電化して車両を明石の所属にすることで、大幅なコストの低減ができるわけで、地下鉄と共存となった。

和田岬線電化開業は、平成13年(2001年)7月1日で、これは地下鉄海岸線開通の7月7日より僅かに早かった。
結局、この後地下鉄海岸線は輸送量の低迷にあえぎ、和田岬線は淡々と走る。
5年前のデータでは和田岬線の輸送密度は20万人に達していて、JR西管内では上位に食い込んでいる。
今は、和田岬周辺でも工場の撤退や合理化が相次ぎ、これよりはかなり数字を落としていると思われるが、それでも大幹線よりはるかに多くの輸送量を誇っているのは確かだろう。

長くなったがその和田岬線、103系もいよいよ終焉とのうわさもある。
これは、コロナ禍によるダイヤの見直しが通勤時間帯にも及ぶことで、多くの余剰車両が発生し、わざわざ古い103系を一生懸命に走らせる必要もなくなってきているわけで、もしかしたらこのブログを書いた直後にでも置き換えが現実のものになるかもしれない。
ただし、鉄道ファン諸氏の過激な暴走により、車両の引退にはJR各社は非常に気を使っていて、阪和線、奈良線の103系も何も言わずに「サイレント」引退となったことを思えば、和田岬線でも車両の置き換えに何らかの発表があるとは思えない現状だ。
これは同じ鉄道ファンとして哀しい。

さて、唯一生き残っている103系は色がスカイブルー、戸袋が埋められているとはいえ黒サッシのN40施行車で、このデザインは後の大きく変貌した張り上げ屋根・広窓のN40や、簡素化されたN30に比して、103系の良さを生かしたデザインで好感が持てる。
僕は震災前後に大阪環状線経由で通勤していたけれど、その頃に登場したのがこのN40だ。
そして、和田岬線103系は6両とも大阪環状線にいたわけで、彼らの環状線時代に僕も乗っていたかもしれない。

最後の通勤用103系の編成は次の通りだ。
和田岬側から
1両目クハ103-254
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2両目モハ102-553
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3両目モハ103-397
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4両目モハ102-545
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5両目モハ103-389
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6両目クハ103-247
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車内・・化粧板は張り替えられ、窓も交換されているが天井付近の造作は103系冷房車のオリジナルだ。
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扇風機は元々JNRマークのあったところをJR西日本に変更している。
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午後の光が差し込む、休日の夕方。
MT55、110キロワット4M2T・・和田岬線には出力過剰だが、明石支所からの回送には、高速列車が頻発するJR神戸線を通るわけで、精いっぱいの高出力にしておかないといけないという事だ。
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さてその回送シーンだ。
明石支所からいったん、西明石駅ホームを通過して大久保へ向かう。
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大久保駅で折り返す。
これは、明石支所から直接には列車線に出でられないことによるもの。
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そのあとは西明石も明石も通過して鷹取まで「爆走」する。
この時のモーターの唸りはこの区間の名物でもある。

山陽電鉄人丸前駅の目の前を高速で通過。
標準時子午線の時計台の前を行く。
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山陽電鉄大蔵谷駅より
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こちらは下り回送。
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朝霧駅通過。
明石海峡を望む。
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朝霧近くの高台を行く。
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西舞子、大歳山公園から。
海と103系。
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舞子駅通過。
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舞子駅から東へ。
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舞子駅を俯瞰。
舞子の松が鬱蒼と茂る。
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垂水駅を通過する下り回送。
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山陽本線をモーターをうならせて爆走した回送車は、やがて鷹取にていったん停止してゆっくり新長田へ。
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実は、ここの103系は一度、日根野で余剰になったより新しいタイプの編成と交換が企画された。
ただ、日根野から疎開留置を兼ねて送られた編成はクハのみN40、モハはN30で、結局それならこれまでの編成のほうが、気心が知れているし、何よりすべてわかっているというのが、これは想像だがお守する明石支所の方々の気持ちだろう。
疎開留置を終えて吹田工場へ廃車回送される編成。
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兵庫駅での風景。
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103系が専用ホームに入る。
1018和田岬線兵庫103入線2.JPG

発車していく103系。
1018和田岬線兵庫103発車.JPG

川崎重工(当時)前の国道から俯瞰。
1018和田岬線川重前俯瞰103上り2.JPG

川崎重工前にて。
1018和田岬線川重前103下り3.JPG

この先の兵庫運河旋回橋は和田岬線最大のポイントだ。
0104和田岬線兵庫運河下り103.JPG

夕方から夜にかけての情景が美しい。
0202和田岬103兵庫運河上り2.JPG

水鏡もいい。
0202和田岬103兵庫運河下り2.JPG

夜、すっかり日の暮れた旋回橋。
運河にはさざ波が立ち、通過する電車の窓からの光が波で滲んで反射し、この世のものとは思えぬ美しい光景が出現した。
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103系は国鉄標準型の単なる通勤輸送用だ。
だが、詩情豊かな風景を時として見せてくれる。
夕景の播磨灘を望む。
20101226狩口103系と夕日.JPG

グローブ型通風機と播磨灘の夕陽。
1110狩口103屋根.JPG

夕景の明石海峡。
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詩情豊かに見るには、すでに引退が確実なものとして噂される今、時すでに遅しかもしれないが、僕は今日一昼夜勤務明けでほとんど寝ずに和田岬駅へ向かった。
今年で多分最後となるだろう、桜と103系の競演を見ておきたいし、それが彼らへの僕自身の惜別の気持ちということだ。
0406和田岬沿線桜と103系_01.JPG

和田岬駅に電車が到着した。
0406和田岬駅到着103系_01.JPG

駅に停車する103系。
大勢の乗客が降りてくる。
一時的に駅前の歩道が人であふれ、駅構内からの動きがとれないほどだ。
この写真はピークを過ぎたころに撮影した。
0406和田岬103系到着_01.JPG

駅前の桜。
まさに満開。
0406和田岬103系と桜_01.JPG

詩情を味わいに来られているのだろうか。
女性ファンの姿も。
0406和田岬駅女性と桜と103系_01.JPG

桜と103系。
本当はこの姿を来年も再来年も見ていたい。
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神戸の夕景を背景に103系が行く。
この電車を最後に神戸市民が見ることが出来た倖せと、そして儚い希望とが交錯する。
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posted by こう@電車おやじ at 19:08| Comment(8) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする