当時はまだ、僕は国鉄部内の学園に居て、私鉄好き友人たち数人で向かったものだ。
80系電車で岡山に行き、そこからも多分、80系で茶屋町、そして数年前に廃止になった茶屋町・児島間代替バスで児島へ向かう。
茶屋町の構内は舗装されバス発着場となっていた。
児島のバス停ほど近く、駐車場の端っこのような目立たない場所に下津井電鉄線の駅があった。
(なお、下津井電鉄株式会社は現在、バス事業、不動産事業で盛業中のため、鉄道そのものを指すときは「下津井電鉄線」と表記することに努めた)
ほどなくして下津井からの電車がやってきた。
はじめての下電はモハ103・クハ24の編成だった。
電車が停車する。
停車した電車の正面。
762ミリの軽便鉄道だが、いつも自分が乗っている別府鉄道よりは乗り心地は良いなと思った。
軽便鉄道にしては本格的な設備を備えた、本四連絡のバイパスルートだったというのもあるだろう。
それでも電車は唸りながら鷲羽山の中腹に至り、そこからは淡々と坂を下る。
はじめての下津井駅は工場と車庫もあり、広々していた。
停車するクハ24・モハ103の編成。
昭和36年、ナニワ工機製の近代的な電車だが、ワンマン化対応による大工事でドア位置が変更されている。
カラーで。

構内を見せてほしいとお願いすると、快く許可をいただいた。
向こうに見えていた3両編成が気になる・・
近づくと立派な編成だ。
中間に挟まっているのがサハ2、元をただせば宮城県の栗原電鉄が改軌した際に譲り受けた電車を改造したもの。
工場内には井笠鉄道の気動車がいて、事前情報を持たない僕たちは驚いた。
井笠のホジ3で、児島以北の廃止に際し、線路を撤去するために持ち込んだものだとか。
そしていかにも気動車然としたバケットスタイルのクハ5。
これは昭和6年、日本車両製のガソリンカーを戦後の電化時に電車の付随車として改造したもの。
外にやや荒れた状態で放置されていたモハ110。
こちらも元をただせば戦前生まれの大型気動車で、電化時にモハ50に改造、後に大工事をしてスマートな外観になっている。
貨車もあった。
不思議な屋根形状をしたワフ2。
下津井駅待合室の情景。
この時、モハ1001はモハ23から改造されて存在していたはずだが見た記憶がない。
後にクレヨン電車として走っていた姿を。
下津井電鉄線は比較的神戸から近いことからよく訪問した。
平成に入ってからの訪問ではクハ24・モハ103の塗装が、当時の国鉄185系に合わせたかのような斜めラインになっていた。
平成2年と記録にはある。
そして昭和63年、瀬戸大橋が開業した。
下津井からの船便を失った路線はある意味では存亡の危機にあったが、珍しいナロー電車として観光路線へと変貌しようとしていた。
余はまさにバブル絶頂期である。
さほど大きくない交通事業者が過大な投資が出来たのはバブル期という背景があったからだろう。
だが、鷲羽山へはクルマもしくは観光バスが主流で、JR児島駅から10分以上も歩かねばならない軽便鉄道に乗りに来る旅客は少なかったようだ。
派手になった児島駅外装、まるでパチンコ屋かと驚き、ある意味では失望した。
観光客が求めているのはこういう事ではなかろう。

広くなったホーム、そこに鳴り物入りで登場した新型電車、メリーベル号2000系が入ってきた。

アルナ工機製、モハ2001・サハ2201・クハ2101からなる立派な観光電車だ。
明らかに輸送力過剰で、この日も大変空いていた。
車内は、両先頭車は密閉室では冷房付き、中間車と先頭車後部は開放感あふれる開放型でトロッコのようだ。
写真は先頭車の車内。
座席は観光バスから転用したクロスシートだ。

こちらは開放的な中間車、ベンチシートが海のほうを向く。
乗ったが、乗り心地はゴロゴロしていて、しかもナローゆえ、床が低く、踏切ではそこで待っている歩行者や車の運転者と目が合い、微妙に恥ずかしく思った・・

不思議な感覚にどうも足元が浮くような気分を覚えながら下津井に着いた。

メリーベル号の編成を。
なんだか、アメリカの古いインターバンの面影を見るような気がする。

モハ2001サイド。

サハ2201サイド。

クハ2101サイド。

あのクハ24・モハ103の編成は、なんと、フジカラー広告電車となっていた。

井笠のホジ3はきれいに保存されていた。

謎の蒸気機関車がいた。
本稿を書く前にSNSで友人たちに伺うと、下松工業高校が保有していた「下工べんけい号」とのこと。
この頃は動態復元がなり、全国で巡回して運転し、当時はここで落ち着いていたようだ。
元は、明治40年に東京の石川島で製造され、海軍徳山練炭製造所の専用線で使われいた機関車ではないかと言われているそうだ。
(製造元については諸説あるそう)

この機関車は下津井電鉄線が廃止された時に下松へ返還され、学校敷地で運転されたり、三重県阿下喜で保管展示されたりしていたようだ。
情報によると、今は下松市役所内で大切に保管されているという。
観光鉄道を目指した下津井電鉄線だが、わずか3年でバブルは崩壊、時を同じくして瀬戸大橋で沸いた観光地も静かになっていってしまう。
元々、大した観光客誘致が出来ていない鉄道線では、もはやその維持も困難となり、平成2年・1990年年末で廃止、せっかくの新車も僅か3年弱でその使命を終えた。
廃止の近いころ、輸送力過剰のメリーベル号の姿は見られず、もっぱら、車体の落書きを消されたモハ1001が走っていた。
写真はビニールハウス風の屋根も抜け落ちた構内に留められるメリーベル号。
貨車も残る。
構内の様子。
下津井駅跡では保存会の方々による整備が行われ、車両は往年の姿を維持している。
地域を支えた鉄道の歴史を、少しでも永く伝えていけたらと、今現在、自分も神戸のD511072の保存活動に携わるがゆえに、余計に強くそう思う。
立派な歴史・実績を持ちながらも、最後はバブルの夢があっという間に潰え消え去った小さな鉄道、それが762ミリ軌間、のナローゲージ軽便鉄道、下津井電鉄線だ。