昭和40年代、京阪の主役級電車には3つの顔があり、一つはオール転換クロス2ドアの3000系、そして卵型断面の車体形状を持つ2000系から始まり2600系までの可愛い京阪独特の表情の電車たち、そしてもう一つがラッシュ輸送に威力を発揮する5000系だ。
日本の鉄道車両に3扉が入ったのは明治期まで遡るはずで、では4扉はというと、戦時の鶴見臨港鉄道で激増する工員輸送のために日本で最初の4ドア電車、クハ220、サハ260を作ったのが始まり、ただしこれは17メートル級で4ドアにするとドア間二箇所の窓のうち、開閉できるのは一箇所のみ、車体片側で開閉窓は五箇所のみという結構きつい設計となったようだ。
戦時に国鉄が出した4扉電車、モハ43改造車やモハ63一党、32系改造車が戦中戦後日本の激増する通勤需要を支えたのは読者諸兄には十分ご存じのことだろう。
京阪は車体長18メートル級であり、鶴見臨港の最初の例にあったように4ドアにするとかなり無理がある設計となってしまい、在版私鉄でもラッシュ輸送の激化には頭を悩ませていたが3ドアが基本の会社でもある。
しかし、昇圧工事や京都市内地下線開業、そのほか駅設備などの改良までは編成長は7連に限られることから、特に混雑の激しい区間のラッシュ輸送用に登場したのが片側五扉をもつ本系列だ。
両開きドアの時代になっていたとはいえ、4扉でも厳しい18メートル級車体に5扉を設定するので、ドア間の窓は一か所のみ、しかし、鶴見臨港の時代と大きく異なるのは冷房装置が取りつけられる時代になっていたという事で、車内環境の快適さは維持することが出来た。
京阪5000系は4扉を超えるドアの数を持つ車両としては日本で最初の例になったが、ただ単に5扉にしたのではなく、ラッシュ時は5扉として、昼間はうち2箇所を締め切り、3扉として運用、締め切ったドアのところには座席をセットするという凝った設計だ。
また、編成全てが5扉で統一され、編成全体で非常に大きな輸送力を発揮できる。
この点ではバブル期以降に東日本の各社で登場した多扉車とは発想そのものが違う。
JR東や東急、京王、東武、営団で登場した5扉~6扉の車両は昼間もドアの開閉数は同じで、一部の系列ではラッシュ時は座席を収納してしまい、昼間は座席を引き出して使えるというものもあったし、京王以外の各社では編成全体が多扉車とはならなかった。
また、多扉車ではホームにおけるドア位置が異なり、整列乗車に問題が生じると考えて小田急・営団ではワイドドア車の導入も進められたが、結果としてドアの開閉に時間を要し、その間にどんどん駆け込み客が乗り込んでしまい、遅延解消にはならなかったともいわれている。
これを考えると、多扉車としての京阪5000系はその嚆矢ではあるものの、設計思想は非常にきめ細やかで、ラッシュ輸送に特化せず、日中の乗客にも十分配慮したものになっている。
京阪5000系以後、ラッシュ輸送の激化に悩む関東でこの手の車両が出るのに時間を要したのは、結局は京阪の用意周到な設計思想と製造コストを天秤にかけざるを得なかったというのではないだろうか。
京阪5000系は高価な電車だ。
車体はアルミ製で、山陽2000・3000系、国鉄301系くらいしかまともな量産車がない状況の中の採用だたが、これはドア構造に多くの重量を必要とするために、アルミ製として根本的な軽量化を図っているが当時、アルミは非常に高価な材料でもあった。
また、座席昇降装置も高価な買い物で、それをしてまで乗客への適切なサービスを実現しようとした京阪電鉄の精神は賞賛されてしかるべきだろう。
この時代、3000系特急車も製造され、あちらはオール転換クロスに補助椅子とテレビ付き、京阪間ノンストップで乗客には少しでもゆったりしてもらおうという思想が具現化したものであり、京阪電鉄は一見すると両極端なサービスを行っていたように見えるが、実はそれぞれの乗客への適切なサービスというものを掘り下げて考えていった結果に他ならないだろう。
ラッシュ輸送の激化は特に萱島以西での区間急行で顕著だったらしく、5扉5000系は主にこの列車用として集中的に投入された。
ただ、僕自身が5000系を見るために京阪を訪れたことは一度もなく、5000系はほかの2000番台系列や1000系などと同じく、「来たら撮る」レベルだったのは自分として大変にもったいないことをしたと後悔もしている。
5000系はほかの京阪電車のような柔らかな曲線では構成されておらず、アルミ車の製造工程簡略化ゆえの角ばった車体デザインだが、それでも、方向版を使用していた初期には一種独特の風格があったように思う。

しかも落ち着いた緑濃淡、もちろん、濃いほうが下にあるほうがイメージとしては落ち着いて見えるわけであり、特急車と比較しても決して写真映えのしない車両ではなく、むしろ来てくれると嬉しい電車でもあった。

関西私鉄では塗装変更が各社行われているが、近鉄のマルーンからツートンへの変遷以外に、新塗装化でイメージがうんとよくなったわけではなく、いったい何のための新塗装化かと会社担当者の意識を疑いたくなるような結果になっていることが多いが、緑を捨てた南海や、野球球団を持ちながら自社球団のライバルカラーに電車を塗ってしまった阪神と比すれば、京阪はまだ色のイメージは残っているから「マシ」なのかもしれない。
だが、新塗装は5000系には似合わない。。

並べてみると明らかで風格というののが消えてしまっている気がする。
この点、同じ京阪でも6000系以降の車両には似合っているように見えるから不思議だ。

しかし、時代は変わる。
京阪でも地上側の設備改善は進み、列車編成は8連が主流になった。
関東各社で多扉車が消えたのはホームドア設置に際し、ドア位置が異なる車両への対応が難しいという理由が一番だし、少子高齢化、さらなるモータリゼーションの進化もあり、各社の乗客が増える時代は終わり、関東私鉄においても乗客減という現象が見られるようになってきた。
さらには感染症対策として詰込みは嫌われ、ラッシュの集中度も低下しつつある。
今からは乗客一人を大事にして、ゆとりある輸送サービスを展開するしかなさそうで、そこに多扉車の立ち入るスキはない。
5551Fトップ編成は数か月は残るという。
今一度、その雄姿を見に行きたいが、わずか一編成、果たして僕は5000系の生きているうちに彼らに会うことはできるのだろうか。
日本の鉄道、多扉車という分野にあって、最初に登場した系列、そして、ほかの多扉車が次々と撤退する中での最後の系列となった5000系、その姿は京阪電鉄、同社の利用客、ファンのみならず、日本の鉄道史に間違いなく残ると書いてもそれが大げさではないと思うのだ。