2018年09月26日

昭和62年、北海道の旅(その3)宗谷本線。

昭和61年6月17日、札幌から乗っていた急行「利尻」は明け方の草原を走っている。
14系座席車の簡易リクライニングにはずいぶん慣れていて、ゆっくり寛ぐことができる。

時期的に夏至の頃、時刻は午前3時半ごろ、周囲の明るさに日本にも白夜というものがあるのかと、驚いた。
乗車した時は冷房がかかっていたが明け方には暖房が入っていたのも驚きだ。

稚内着は6時ちょうど、どんよりと曇っていたが雨は降らなさそうだ。
どこかで宗谷本線の写真を撮影したく、一旦、稚内発6:35の始発で折り返す。
今なら抜海で降りるのだろうけれど、当時はほとんど情報のない時代、ただ、時刻表を見て7:04着の勇知という駅で降りた。
車掌車を駅舎に転用した不思議な駅だった。
S62勇知駅舎.jpg

30分も待てば急行が来るはずで撮影場所を探すも辺りは茫洋とした大地ばかりで、さして絵になるところもない。
とりあえず、反対方向の普通列車がキハ40で来たのでそれを撮影する。
S62勇知キハ40228.JPG

後追い。
S62勇知キハ40.jpg

考えれば、この茫洋さこそ、関西にはないもので、それなりに満足もしてしまう。
やがて、DD51牽引の14系客車による急行「宗谷」がやってきた。
先ほどまで乗車していた「利尻」の折り返しだが、寝台車は座席指定で使われていたはずだ。
S62勇知DD511093「宗谷」.JPG

機関車と次位の寝台車。
S62勇知急行宗谷DD51・14系.jpg

この時期の北海道で見られた夜行列車の昼間運用、実際に乗ってみたかったと思う。
客車の後尾。
S62勇知急行「宗谷」14系.jpg

勇知8:46普通列車で稚内へ戻る。
これはキハ53-500だった。
S62勇知キハ53504.JPG

稚内9:14着。
稚内の稚泊(ちはく)航路桟橋。
この当時はまだ、ほったらかしの状態で、訪れる人はほかに居なかった。
S62稚泊航路ドーム.JPG

宗谷岬を見たかったが時間的に無理なのでノシャップ岬へ向かう。
市内のバスは案外頻発していて、すぐに乗れた。
向かったノシャップ岬はここもまた茫洋としたところだった。
向こうに見えるのは樺太ではなく宗谷岬の半島だ。
S62ノシャップ岬海.JPG

掘っ立てたような看板。
S62ノシャップ岬看板.JPG

タワーのようなものがあったかと思うが記憶が飛んでいる。
灯台。
S62ノシャップ岬灯台.JPG

稚内駅に戻り、近くで食事をした気がする。
大衆食堂のようなものがあったような気がする。

稚内から12:00の急行「天北」に乗る。
この列車こそ、写真が残っていれば素晴らしい記録なのだろうが、たぶん、酔っ払って乗車したのだろうか。
一枚の記録写真も残っていない。
14系の座席車オンリーの編成で、僕が乗車したのは紛れもなく高砂工場で改造をして送り込んだ車両だった。
列車は南稚内から天北線に入り、宗谷本線とは明らかに軌道整備の異なるローカル線を淡々と走った。
景色はどこまで行っても茫洋とした草原や小山が広がるばかりで、ほとんど僕は居眠りをしていた。
列車は大変空いていた。

やがて、音威子府から宗谷本線に戻り、乗り心地が回復する。
この時の僕の心境はまさに「空」ではなかったか。。
何も考えず、何の意志も持たず、ただ列車に揺られる。

旭川17:10着。
このまま札幌まで乗ろうかとも考えたが、とりあえずここで降りて宿を探せればここで泊まることにしようと決めた。
幸い、観光案内所の紹介で駅前のビジネスホテルに宿をとった。

余の寒さにホテルへ向かう前に地元のスーパーで長袖のトレーナーを買った。
それは、旅行の間、ずっと着ていたが旅が終わって洗濯してみると、女性用だった。
人が大勢行きかう街で、さして旨くもないラーメンを食い、この日はさっさと寝たが、まさか後に「旭川ラーメン」なるものが有名になるとは思わなかった。
旭川はこの後、観光で向かった時にもう一度訪問することになるが、非常に都会的で人が多く、いかにも「北の都」という言葉が当てはまるような印象を持った。

posted by こう@電車おやじ at 20:31| Comment(2) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月12日

昭和62年北海道旅行(その2)根室本線


昭和62年6月15日、青函連絡船1便は4:25に函館に着き、僕は大阪を出て三日目に北海道の地面を踏んだ。
函館駅のホームには、この7年前と同じように両側に特急列車が停車していたが、以前は右が「おおぞら1号」左が「北海」だったのが、今回はどちらも「北斗」になっていて、先発の「北斗1号」は全車座席指定、周遊券しか持たない僕は右の一部自由席「北斗3号」に乗るしかない。
車両は新鋭キハ183に代わっていて、スラントノーズの初期車だった。

車内に入ると、あのキハ80系の激しく痛んだ様子を覚えているものとしては、驚くほど清潔で明るい雰囲気に驚く。
函館駅では弁当も買うことができ、昨日は全く普通の食事ができなかったから、これは嬉しかった。
走り始めた「北斗3号」は以前のキハ80系をさらに上回るものすごい高速で、北海道の幹線に乗っていることを実感させてくれる。
車窓から駒ケ岳が見えた。
S62駒ヶ岳車窓から.JPG

噴火湾や都市化の進む道南を見ながら列車は快走、千歳空港(現南千歳)8:22着。
先発の北斗1号はこの列車より14分早く函館を出て、28分早く千歳空港についている。
もっと速いのだ。
「座席指定券買ってでも、乗りたかったなぁ‥」と、少し後悔する。

だが、ワイド周遊券で特急自由席にはそのまま乗れても、指定席に移ると座席指定との差額ではなく、丸々特急料金を請求されてしまう。
貧乏旅行にはつらい現実だ。

撮影する気にもなれず、千歳空港8:35「おおぞら1号」に乗り換える。
今度は全くの新車、キハ183-500だ。
車内は混んではいたが、座席は一つ空いていて、座ることができた。
北海道「の」新幹線と言われた石勝線を走るのだが、最初は平たんな原生林を、そして少し町が開けたと思ったらそのあたりが南夕張、そこから山岳地帯に突っ込んでいくが、函館本線ほどの速度は出ない。
ちょうどこの当時、早いといわれた湖西線が実はあまり速度を出さずにたらたら走っているような状態だったが、それに近いような気がした。
帯広でかなり空き、あとは列車は淡々と走っていく。

窓から海が見える区間があった。
あとでここで降りてみようと思う。
釧路12:45、すぐに接続する急行「ノサップ」に乗り換えるが、なんとキハ54とキハ22で、こんな急行がいまだにあるのがおかしかった。
12:50釧路発
S62釧路急行ノサップキハ54.JPG

外国人観光客も乗っていて、車内は賑やか、列車はかなりの高速で走っていく。
僕はキハ54に席をとり、茫洋と広がる窓の景色に見とれていたが、また腹が減ってきた。
といっても車内販売もないし、駅弁を売る駅もない。
車掌が回ってきたが、弁当ではなくオレンジカードの販売だった。
今もそうだが、僕はこの手の記念商品には興味がなく、カードはいいから弁当を売ってくれと思ったものだ。

135キロを129分で走った最果ての急行列車は、14:59、根室に着いた。
S62根室駅.JPG

何もすることがなく、雨が降り続いていて、観光などという気分でもない。
駅の公衆電話から時刻表に掲載されていた釧路のビジネスホテルに電話を掛けた。
何軒か断られ、空室のあった「東急イン」に決めた。

根室から折り返しは15:50発の普通列車で、さっき乗った急行の折り返しだ。
急行とは違い、釧路まで3時間を要した。
車窓は霧と雨ばかりでほとんど何も見えないというか、幻想の中を淡々と走っている印象しかない。

釧路18:54、駅から少し離れた宿にチェックインした。
思えば三日ぶりに布団で眠ることができるわけだ。

だがこの頃の僕は元気で、荷物を置いて、街に呑みに出た。
居酒屋風の店で「じゃがバター」とビールを頼んだらこれが非常に旨く、北海道にいることを実感した。
「鍋ラーメン」という変わったメニューがあったのでそれも頼んだ。
鍋焼きうどんをラーメンに変えたような、いかにも北海道らしいメニューで、これまた非常に旨かった。
考えれば、インスタントでも弁当でもない食事というのも三日ぶりだ。
夜の釧路を散歩する。
寒い・・・6月なのに…
幣舞橋から市街を見る。
S62釧路幣舞橋夜景.JPG

えらい遠くへ来てしもたなぁ・・と実感する僕の近くで暴走族らしいバイク集団が派手に爆音を上げる。
いろんなことがどうでもよくなってきた。

ぐっすり寝て翌朝、6月16日、釧路7:48「おおぞら4号」に乗る。
列車は空いていて、駅弁とお茶を買って席につく。
テーブルの扱いに慣れておらず、お茶をこぼしてしまったが、幸い、たくさんのティッシュペーパーを持っていたので後を汚すことなく処理できた。
仕方ないから弁当と車販で買ったビールで朝食にした。
すぐ次の停車駅、8:12、白糠で降りる。

乗ってきた特急列車が去っていく。
S62白糠キハ183おおぞら.JPG

あとからやってくる普通列車に乗り換える。
急行型の編成だった。
8:32発、すぐ次の音別で下車するのだが、16キロもあり、18分もかかった。
音別で乗ってきた列車を見送る駅員。
駅員音別 (2).jpg

音別駅の構内。
駅音別 (2).jpg

音別の駅舎。
音別駅舎.jpg

北海道に来てからまともな作品らしい写真はいまだに撮影していないが、ここでようやく、本気で写真撮影をする気になっていた。
田舎町とは思えぬ瀟洒な家並みが続く街で、不思議な気がした。
どうやらかつて大学が進出していて、若い人でにぎわったようだ。

街を外れ、海に沿って歩く。
やがて道はなくなり、黒っぽい砂浜を歩く。
ふっと、大きな犬のような動物が見えた。
向こうもこちらを気にしているようだ。
こんなところで野犬に襲われてはどうしようもないなと思った。
でも、どうしようもないし、どうでもいいし、つまり自分の人生にもある意味投げやりになっていたからか・・
僕は動物に向かっていった。
犬のような動物は僕を見てもじっとしていた。
よく見ると耳が長い・・「キタキツネか」と、やっと理解した。

キタキツネは逃げもせず、僕は何もリアクションをとらず、淡々と彼の間を歩いて通過した。
こういう時、生来の動物好きは下手に相手を驚かさないので助かっているのかもしれない。
ここがいいだろうと、堤防の切れた海岸線で、砂丘に登って列車を見ることにした。
タンポポの群れ・・
音別タンポポ.jpg

茫洋たる太平洋が広がる。
海の手前にレールがある。
音別海岸レール.jpg

昨日から降っていた雨が上がった。
「おおぞら6号」が淡々と走ってくる。
JR北海道音別キハ183.JPG

接近する、新車キハ183はキハ80の流れを汲みながら、それでもスマートでカッコいい。
S62音別キハ183おおぞら1.JPG

ハイデッカーグリーン車が太平洋を背に通過する。
海音別キロ183.jpg

去っていく特急列車。
S62音別キハ183おおぞら2.JPG

新得と釧路を4時間近くかけて結ぶ快速列車「ぬさまい」
キハ40とキハ22だ。
音別海岸キハ40.jpg

その連結面。
音別海岸キハ40・キハ22サイド.jpg

快速「ぬさまい」が去っていく。
S62音別快速ぬさまい.JPG

DD51牽引の貨物列車が来た。
先頭は1011号機、重連だ。
S62音別DD511011.JPG

音別駅に戻る。
「おおぞら1号」がやってきた。
昨日、乗車した列車だ、もちろん通過する。
音別おおぞら発車.jpg


去っていく。
音別おおぞら通過.jpg

音別から札幌まで乗りたい列車があった。
石勝線開業後も滝川経由で一本だけ残る急行「狩勝」だ。
釧路から帯広までは各駅停車の普通列車で帯広から急行になる。
音別12:09発。
列車の愛称板。
音別帯広駅狩勝.jpg

この列車に乗ると札幌着がずいぶん遅くなってしまうから悩んだが、もう、根室本線を完乗することなどありえないだろうと、乗車を決めた。
もとより、列車にはいくら乗っても疲れないタチでもある。
列車は淡々と走り、急行になってからもローカルムードはそのままに、やがて日の暮れた根室本線を行く。
うつらうつらと眠ったり、ぼうっと外を見ていたり、帯広で買った酒を舐めていたり・・実にゆったりと寛ぐ車中だった。
滝川からは嘘のような高速運転となり、10分後に出る電車特急にも抜かれず、札幌に18:33に着いた。
音別から6時間20分少々の心の休まる旅だったことは忘れない。
札幌で食事のできるところを探した。
地下街の端っこ、地元のサラリーマンが帰宅前に一杯やるようなラーメン屋でラーメン、チャーハン、ビールを頼んだ。
「多すぎませんか?食べられますか?」
と店の人が聞いてくれる。
いつもこれくらいは食ってるしと思って待っていると、ラーメンもチャーハンも巨大な大盛りだった。
しかし、非常に旨く、大瓶のビールも3本も飲んでしまい、おなかがはち切れんばかりになった。
ちょっとだけ路面電車を見に行ったようだ。
S62札幌市電334.JPG

711系の通勤列車の発車風景。
S62札幌駅711系発車前.JPG

乗る列車は21:50発、急行「利尻」で、懐かしい、高砂工場で改造した14系座席車だった。


posted by こう@電車おやじ at 17:55| Comment(2) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年09月05日

昭和62年6月、東北・北海道旅行記(その1)象潟・秋田

昭和62年6月13日、僕は大阪駅にいた。
国鉄休職中に、地元の写真店で技術を学び、けれどその店では僕が学べることは一年でなくなってしまった。
写真の道というのも、元々は自分が国鉄退職後のルートとして想定していた道とは異なり、いわばやむなく修正して進んだ道だったということがあるのかもしれない。
そこで技術を学ばせてもらった店をやめ、今一度、自分の進路を見直そうとしていた。

この頃には僕が一方的に惚れた女性への憧れもほとんど打ち砕かれていて、自分を変えたいという思いが強かった。
(この女性とは後に再開し、一時はとても良い友人になるのだから人生は分からない)

神戸の専門書店の社長さんにお会いできたことから、当初描いていた道にやや近い、その会社に就職することにしたが、やってみて自分の仕事ではないと‥すぐに気づいてしまった。
二日通って、終業時に事務の女性に「今しなければならないことがありますので」などと言い、その専門書店をいったん白紙に戻してもらった。
そして加古川市内の安アパートだった自宅に戻り、用意してその日の夜には大阪駅にいたというわけだ。

駅のポストから、二日間お世話になった会社へ詫び状と退職届を送った。

23:20、急行「きたぐに」は583系だった。
行きたいところに行こうと思いながら、切符は北海道ワイド周遊券を選んでいた。
ただ、このあと、翌朝まで写真を撮影していない。
自分への嫌悪感も生じていて、写真を撮影する気になれなかったのかもしれない。

「きたぐに」は空いていた。
ゆったりとしたボックスを一人で占め、失恋と失職のやるせない思いが闇の中に消えていく。
ただ、やはり列車に揺られると安心する自分があった。
国鉄への未練はないが、自分が鉄道ファンという人種だと改めて思ったひと時でもある。

翌朝、新潟に8:28に着き、8:52発、485系特急「いなほ1号」に乗り換えた。
乗り換えた時は「いなほ」は空いていたが、上越新幹線が到着したのだろうか、やがて恐ろしいほどの大混雑となった。
たしか「EEきっぷ」とかいう東日本管内のフリー切符が人気を呼び、それによって乗客が殺到していたようだ。
僕は海側に座っているので景色を見るに不都合はないが、混みすぎる列車もまた興ざめでもある。
このまま青森まで行っても、連絡船や北海道内の列車の接続はうまくいかず、それならと、秋田あたりで寄り道することにした。

酒田11:18着、ここで普通列車に乗り換える。
嬉しいことに50系客車で、831レ、11:52発だ。
特急の喧騒から逃れ、穏やかな走りをする客車列車は、当時は冷房などついていないが窓を開ければ十分快適だった。
走行中もレールジョイント以外の音は聞こえず、停車中のは全くの無音になる客車列車の快適さが身に染みる。
12:35の象潟で下車、あの、松尾芭蕉が読んだという象潟の今の風景を眺めたくなったのだ。
ここで初めて僕はカメラ、ニコンFEを取り出し、写真を撮影した。
牽引してきた機関車、ED75と鳥海山の風景だ。
1987秋田象潟ED75客レ.jpg

しばらく、象潟の駅近くを彷徨ってみた。
6月なのに十分暑かった記憶がある。
松尾芭蕉の頃には松島のような多島美を見せる風景だったようだが、地殻変動を伴う大地震から長い年月が流れ、かつての海は田んぼになっている。
だがそれでも、田圃の中に緑の小山がたくさん浮かぶ不思議な景観ではある。
1987秋田象潟風景.jpg

松尾芭蕉がここを訪れたのはまさに僕が今いる6月ころで、入り江に船を浮かべて優しい風景を眺めていたようだ。
松島と比べてこんな感想を残している。
「松島は笑ふが如く、象潟はうらむがごとし」
象潟で詠んだ句だ。
「象潟や雨に西施がねぶの花」
西施(せいし)とは中国古代の絶世の美女で、象潟に咲くねむの花が、まるで西施を思わせるという意味だろうか。
そこを特急「いなほ」が行く。
S62象潟485いなほ.jpg

後追い、松尾芭蕉はまさか、かつて海だったこの地に鉄道なる物ができるとは想像もしていないだろう。
1987秋田象潟いなほ485.jpg

貨物列車の後尾だ。
すでに車掌車は廃止されていた。
1987秋田貨物後尾象潟.jpg

象潟にいたのは都合2時間ほどだろうか。
次の下り普通列車833レであとにする。
象潟15:19発、秋田17:02着。
この列車も適度に空いていて、ゆったりと寛ぐことができた。
伝説「八郎」の舞台でもある男鹿線に乗ってみたい。

その前に秋田駅の跨線橋から485系特急「たざわ」と「つばさ」の並びを見ることができた。
S62秋田485たざわ・いなほ.JPG

ここは4方向から特急列車が来る鉄道の要衝で、「あきた」どころか見ていて飽きない。
「いなほ」編成で…
1987秋田485いなほ.jpg

「つばさ」先頭車改造の車両だ。
1987つばさ485改造車秋田.jpg

こちらはオリジナル300台「つばさ」
1987秋田485つばさ.jpg

さて、男鹿線列車は17:55発、これも嬉しいことに客車列車だ。
DD51がけん引する。
S62秋田DD51744.JPG

機関車と客車・・50系は新しいクルマだが旅情もたっぷりだ。
1987秋田DD51744後位.jpg

ゆっくりと客車列車に乗る。
通学の高校生で賑わうが混雑するというほどでもなく、列車は淡々と走る。
夕方の寒風山が美しい。
19:10、男鹿についても夕方だし、すぐに折り返すしかない。
男鹿の駅舎。
S62男鹿駅.JPG

ホームに停車する乗ってきた客車列車。
明日の通勤通学列車に使われるのだろう。
1987秋田男鹿駅ホーム.jpg

駅名標と客車。
1987秋田男鹿駅駅名票.jpg

構内、駅舎の線路側。
1987秋田男鹿駅構内側.jpg

男鹿を19:44に出る気動車(キハ47系だったと思う)で秋田に戻る。
周囲はただの真っ暗闇だ。
秋田20:44、さすがに客車列車に比して気動車は速い。

秋田で何か食べ物を探そうにも、今のようにコンビニがあるわけでもなく、ビールと菓子だけをもって列車を待った。
21:11、特急「白鳥」485系だ。
末端区間であり、空いているだろうという予想が外れ、EE切符を持った人で満員、乗れないかと思うほどに混んでいた。
そこで座席指定車へ行き、車掌から指定券を購入した。
「特別な切符を売るなら列車の増結が必要ですよね」と車掌に言うと、車掌もまた「私たちも困っているんです。切符を売るだけで、何の対策もしないんですからねぇ‥」と苦笑して返してくれた。

遅い時間帯だが車内販売のお嬢さんも回ってくれたが、弁当類は売り切れ、仕方なく、ビールとまた菓子を買う。
特急列車は闇の中を突っ走る。

この時僕は手帳に「特急白鳥、闇の中を突っ走る、目的地は希望か絶望か」と書いている。
普通列車では感傷的にならなかったのに、特急に乗ると現実に引き戻されるということだろうか。

白鳥は定刻、23:40に青森に着いた。
青函連絡船の待合室へ行くが、すでに乗船口で立って並んでいる人たちがいる。
僕は待合室の中で酒類とインスタントラーメンの販売機を見つけた。
やっと暖かいものが食べられる…
喜んでそれを食っていると、なにやら怒鳴っている人がいる。
「俺たちはここでずっと待っているんだよ、なぜ、待合室に居るままのやつらにも並ばせないんだ」
???待合室で待ってちゃいかんのか・・・
駅員がその乗客にこう返した。
「私たちは出航まで時間があるので、待合室でお待ちくださいとご案内を差し上げています」
「その連中が割り込んできて、俺が座れなかったらどうするんだよ」
「ご心配いりませんよ、連絡船の定員は2000名ほどあります。今夜のお客様は100人ほどですから」
怒鳴っていた客は黙り込んで、憤懣あふれた表情で待合室に入ってきた。

出航は6月15日0:30、1便で、確かに非常に空いていた。
おかげで僕は桟敷の一マスを占拠してゆったりと横になることができた。

この船に乗ったことで、僕はもう帰れなくなってしまった・・
手帳にそう書いた。
もはや後戻りができない状況に自分を追い込んだわけだ。
(続く)
posted by こう@電車おやじ at 00:20| Comment(4) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする