昭和61年6月17日、札幌から乗っていた急行「利尻」は明け方の草原を走っている。
14系座席車の簡易リクライニングにはずいぶん慣れていて、ゆっくり寛ぐことができる。
時期的に夏至の頃、時刻は午前3時半ごろ、周囲の明るさに日本にも白夜というものがあるのかと、驚いた。
乗車した時は冷房がかかっていたが明け方には暖房が入っていたのも驚きだ。
乗車した時は冷房がかかっていたが明け方には暖房が入っていたのも驚きだ。
稚内着は6時ちょうど、どんよりと曇っていたが雨は降らなさそうだ。
どこかで宗谷本線の写真を撮影したく、一旦、稚内発6:35の始発で折り返す。
今なら抜海で降りるのだろうけれど、当時はほとんど情報のない時代、ただ、時刻表を見て7:04着の勇知という駅で降りた。
車掌車を駅舎に転用した不思議な駅だった。
どこかで宗谷本線の写真を撮影したく、一旦、稚内発6:35の始発で折り返す。
今なら抜海で降りるのだろうけれど、当時はほとんど情報のない時代、ただ、時刻表を見て7:04着の勇知という駅で降りた。
車掌車を駅舎に転用した不思議な駅だった。
30分も待てば急行が来るはずで撮影場所を探すも辺りは茫洋とした大地ばかりで、さして絵になるところもない。
とりあえず、反対方向の普通列車がキハ40で来たのでそれを撮影する。
とりあえず、反対方向の普通列車がキハ40で来たのでそれを撮影する。
後追い。
考えれば、この茫洋さこそ、関西にはないもので、それなりに満足もしてしまう。
やがて、DD51牽引の14系客車による急行「宗谷」がやってきた。
先ほどまで乗車していた「利尻」の折り返しだが、寝台車は座席指定で使われていたはずだ。
先ほどまで乗車していた「利尻」の折り返しだが、寝台車は座席指定で使われていたはずだ。
機関車と次位の寝台車。
この時期の北海道で見られた夜行列車の昼間運用、実際に乗ってみたかったと思う。
客車の後尾。
客車の後尾。
勇知8:46普通列車で稚内へ戻る。
これはキハ53-500だった。
これはキハ53-500だった。
稚内9:14着。
稚内の稚泊(ちはく)航路桟橋。
この当時はまだ、ほったらかしの状態で、訪れる人はほかに居なかった。
この当時はまだ、ほったらかしの状態で、訪れる人はほかに居なかった。
宗谷岬を見たかったが時間的に無理なのでノシャップ岬へ向かう。
市内のバスは案外頻発していて、すぐに乗れた。
向かったノシャップ岬はここもまた茫洋としたところだった。
向こうに見えるのは樺太ではなく宗谷岬の半島だ。
市内のバスは案外頻発していて、すぐに乗れた。
向かったノシャップ岬はここもまた茫洋としたところだった。
向こうに見えるのは樺太ではなく宗谷岬の半島だ。
掘っ立てたような看板。
タワーのようなものがあったかと思うが記憶が飛んでいる。
灯台。
灯台。
稚内駅に戻り、近くで食事をした気がする。
大衆食堂のようなものがあったような気がする。
大衆食堂のようなものがあったような気がする。
稚内から12:00の急行「天北」に乗る。
この列車こそ、写真が残っていれば素晴らしい記録なのだろうが、たぶん、酔っ払って乗車したのだろうか。
一枚の記録写真も残っていない。
この列車こそ、写真が残っていれば素晴らしい記録なのだろうが、たぶん、酔っ払って乗車したのだろうか。
一枚の記録写真も残っていない。
14系の座席車オンリーの編成で、僕が乗車したのは紛れもなく高砂工場で改造をして送り込んだ車両だった。
列車は南稚内から天北線に入り、宗谷本線とは明らかに軌道整備の異なるローカル線を淡々と走った。
景色はどこまで行っても茫洋とした草原や小山が広がるばかりで、ほとんど僕は居眠りをしていた。
列車は大変空いていた。
景色はどこまで行っても茫洋とした草原や小山が広がるばかりで、ほとんど僕は居眠りをしていた。
列車は大変空いていた。
やがて、音威子府から宗谷本線に戻り、乗り心地が回復する。
この時の僕の心境はまさに「空」ではなかったか。。
何も考えず、何の意志も持たず、ただ列車に揺られる。
この時の僕の心境はまさに「空」ではなかったか。。
何も考えず、何の意志も持たず、ただ列車に揺られる。
旭川17:10着。
このまま札幌まで乗ろうかとも考えたが、とりあえずここで降りて宿を探せればここで泊まることにしようと決めた。
幸い、観光案内所の紹介で駅前のビジネスホテルに宿をとった。
このまま札幌まで乗ろうかとも考えたが、とりあえずここで降りて宿を探せればここで泊まることにしようと決めた。
幸い、観光案内所の紹介で駅前のビジネスホテルに宿をとった。
余の寒さにホテルへ向かう前に地元のスーパーで長袖のトレーナーを買った。
それは、旅行の間、ずっと着ていたが旅が終わって洗濯してみると、女性用だった。
人が大勢行きかう街で、さして旨くもないラーメンを食い、この日はさっさと寝たが、まさか後に「旭川ラーメン」なるものが有名になるとは思わなかった。
旭川はこの後、観光で向かった時にもう一度訪問することになるが、非常に都会的で人が多く、いかにも「北の都」という言葉が当てはまるような印象を持った。