そこで数度は高砂工場での写真を見ていただきたいと思う。
今回は「事業用車両」、国鉄の用途別記号で「ヤ」「エ」と表記される職用車・・役所のヤ、救えのエ・・という噂だが・・彼らが全般検査もしくは廃車の際のカットからだ。
なお、今回は番号などの読み取りのために大半の画像をこれまでよりサイズアップした。
ただ、管理人に無断で使用しないよう、また使用される場合はご連絡いただけるようにお願いしたい。
(本ブログでは、事前に許諾の上、本ブログが出所であることを明記することで大半の引用を許可しています)
オエ71、番号不明。
17メートル級オハ31系列の出自だろうか。
70番台の形式以外にも二段の窓が戦災復旧車を物語る。
多分、その客車の台車。
TR23系だろうか。
オヤ304、吹田操車場で職員輸送に使われていた客車で、全般検査のために入場、しかし、検査のために解体作業が済んだ時点であまりの傷みの激しさに、オハフ33と差し替えることになり廃車となった。
オヤ304、手間にはこれも廃車のㇿヒ303。
オヤ304、出場時の姿。
廃車予定のオハフ33に状態の良いものがあり、それと差し替えられたわけ。
趣味的にはがっかりされた方も多いだろうが、現場では大変喜ばれたとのこと。
当時はオハフ33がまだ第一線で活躍していた時代だ。
オエ7028、鷹取にいた救援車。
見るからにもとは電車で・・・17メートル国電から変身したことを全身で物語る。
スエ71、番号不明。
これも戦災復旧車だがもとは客車のようだ。
スエ3015、姫路にいた救援車で、出自はオハ31系の郵便荷物車だったようだ。
キハ58、キハ65と並ぶ全検入場時の様子。
この車両の検査修繕を担当することになった。
アップ、二重屋根の好ましいスタイル。
サイドから。。
姫路機関区でも見た客車で、外観はとても美しかった。
車内、旧荷物室の様子。
戦後の荷物車は車内は薄緑塗りつぶしになったが、この客車はニス塗だ。
何やら天井妻に紋章のようなものが・・・
これは扇風機の台座カバーでこの部分が郵便区分室だったのだろうか。
銘板。
小倉工場で昭和26年に更新改造されているらしい。
反対側の妻部には小倉工場とともに、汽車會社の製造銘板が・・
達磨ストーブ。
救援車は蒸気引き通しがないので、達磨ストーブで暖をとるしかないが、もしかしたらこれも製造当時のものだろうか。
屋根の内側、外部は屋根布に覆われていても、内部はそのまま原型の屋根構造が残っていた。
屋根の窓は3枚が一組で、すりガラス開閉、すりガラス固定、板でふさいだ部分となっていた。
天井妻部の様子。
スエ3015の台車。
チョークで記されている「浜1」という記号は、2位側の前位という意味だ。
一位側は「山」と表記される。
スエ3127、向日町にいた救援車。
スハ32系の荷物車が出自だろう。
スエ3142、新見にいた救援車。
窓割を見ると何やら優等車の香りがする。
糸崎にいたスエ7121。
これも同系統の優等車出自だろうか。
戦災復旧車であることを形式が物語る。
同じクルマだと思うが、近づいてみた。
車体中央あたり。
反対側。
津山にいたスエ7144。
岡山にいたスエ7151。
その反対側。
車番部分。
その台車。
こちらは吹田操車場の職員輸送用、スヤ372、どうみてもスハ32そのものの外観だ。
全般検査時の待機の様子。
このクルマも僕は担当させてもらい、窓柱が真鍮になっている腐食対策など、昭和初期の国鉄の丁寧な車両づくりを実感したものだ。
スヤ372、その車内。
スハ32系原型の、斜めになった板摺りの背もたれが健在。
非常によく原形を維持していて、けれど当時はほとんど騒がれることもなかったように思う。
スヤ372、西鹿児島工場での更新修繕銘板。
マヤ431、宮原にいた検測車で入場時には車内には何もなく、デコラ張りの味気ない雰囲気だった。
最後に、草生した廃車解体場にて順番待ちのオエ71だろうか・・
第一線を離れ、車庫の片隅でのんびり余生を過ごしてきた彼らにもその役割を終えるときが来た。
高砂工場の一番南の端で海からの風に身を任せながら、これまでの生き方に思いを寄せているように見える。
ましてや70番台車は戦災復旧車だ。
あの戦災で民需用なのにいわれなき攻撃を受けて一度は廃棄の運命にあった彼の人生は華となる期間が短く、あとは苦労に苦労を重ねたものではなかったか。
そしてその後に訪れた長い余生。
当時の事業用車たちに魂があれば、人生をしみじみと思い起こしていただろうか。