2022年05月07日

異色車:山陽電鉄3619の引退に寄せて

山陽電鉄と言えば日本最初のアルミ電車を作った会社で、その後、一時期は大量増備の必要性から鋼製車に戻りながらも後にはまたアルミカーの天国となっていて、銀色の電車、もしくは鋼製車のクリームに赤黒の帯というのがイメージだ。
だが、その中にあってたった1両だけ、色が違う電車が存在していた。
山陽3619東二見.jpg

「いた」と過去形で書いたのは、この電車、クハ3619号はすでに「さようなら」看板取り付けによる運行を終え、一両だけ編成から外されて留置されているからで、山陽電鉄を取り巻く環境が激変でもしない限り、本線上を走行することもないからだ。
(以下本文ではクハ称号を省略、他の電車についてもモハ・クモハ・サハは省略する)
3619号は山陽電鉄で唯一の「白い」電車で、内部の人からは「白子」、口さがないファンからは「ニセアルミ」と呼ばれていた。
今、この電車はさる鉄道ファンが名付けた「ホワイトエンジェル」というちょっと風貌には似つかわしくない愛称をつけてもらっていて、山陽電鉄公式でもそう呼ばれるようになっていた。
0325加古川橋梁山陽3619ほか.JPG

記録によると、この電車は昭和44年11月に竣工した。
現在で登場52年と6か月となる。
同期製造には3620と3028・29・30・31・32・33がいて、翌月には3200・3201も竣工している。

永らく3619はアルミカー3100のTcとして活躍していて、それゆえに車体色をアルミカーに合わせた「白」とし、赤帯を腰に巻いている。
だが、登場時はまず、3028FのTcとなっていたようだ。
僕は残念ながらこの3028FのTc時代の写真は持ち合わせていないし、またそういう写真を見たこともないが、電鉄内部の方の話によると確かに記録はそうなっているらしい。
後に山陽3000系は電動車が偶数先頭、奇数二両目、付随車・制御車が電動車の半分の数字、例えば、3010・3011・3505・3605という風に綺麗に並べられたが、この3619号が出た当時は神戸高速開業直後でとにかく忙しく、増備も大量で、竣工した順に編成を組んでいたものらしい。
これには熱心な担当者が、車両管理の上でわかりやすいように並べ替えるという作業を実施したことで実現したらしいが、2000系改造の3550形の竣工もあって編成変更も頻繁だったのだろうか。

電動車に比して制御車が多く作られたのは、神戸高速開業後、激増する乗客に対応するためにすぐに4連の編成を増やす必要があり、さらに2扉クロスシートの2000系はラッシュに対応できなくなり、この2000系を3扉ロングシート化、3000系の中間付随車とする計画があったためのようで、3550形改造ができていくと、それに合わせて今度は電動車を作り、その編成に中間T代用となっていたTcを使うということだったようだ。
さて、僕が知っている山陽3000系はほとんどが4連で、3000F~3016Fまでの8編成(3000系の先頭車は必ず偶数になる)では中間に新車の3500~3508を入れて4連化されていて、3020F~3036Fまでの9編成では、中間に2000系改造3550形の3550~3558を入れて4連化されていた。
余っているのが3018Fで、この編成だけはTcを増やしすぎたのか、3018・3019・3619・3609という編成になっていた。
なので僕が写真を撮り始めた昭和50年以降では、件の3619が原色のツートンカラーを纏って先頭に出た姿は見たことがなかった。
この写真の2両目が3619だ。
360936194.jpg

こちらは須磨浦公園で、後尾から2両目に3619が入った3018F、最後尾は3609だ。
山陽3609旧色4連須磨浦公園.JPG

僕らはこの編成を「9-19の編成」と言っていて、なぜかこれが来ると嬉しかった。
当時の山陽電鉄は恐ろしく標準化が進んでいて、特に3000系は両数が多く細かな差異を除けばほとんど違いのない、単調さに見えたからだろうか。
山陽3609旧色須磨.JPG

さて、3000系の増備は3200系残り2編成を終えて昭和47年から、冷房付き3050形に移行。
さらに会社の経営状況の好転、あるいは車両メーカー側のコストダウン、製造工程の簡略化がなされた故か、3050形増備の途中、昭和56年からニューアルミカーの登場となる。
最初に登場したのがツートンカラーに塗られた3066Fだ。
この編成のM車が新工法のアルミカー試作車で、これにMcを追加してこれもツートンに塗装し、Tc3638は山陽電鉄最後の鋼製車となった。
山陽3066旧色林崎.JPG

この次の増備車から無塗装(実際はクリアラッカー塗装)となり、同じ昭和56年、3068Fが登場する。
電鉄明石山陽3068停車.JPG

さらに将来の6両運転への準備も始まった。
すでに、神戸高速開業までに西舞子以東の上下ホーム、大蔵谷の上りホームは6連化されていて、やがて明石高架により、明石・人丸前駅も6連対応になる。
6連となれば、特急4連ゆえに乗り入れ先が阪神大石、阪急御影までなのが延長できる可能性もある。

車両の準備には長い期間が必要だろう。
昭和58年、3070Fと同時に竣工したのが、2連で下り側に運転台を持たない3100Fだった。
この2連は、既存の4連にラッシュ時のみ増結して6連とする構想で誕生した。
だが、テストはできてもまだ山陽の全駅が、いやせめて特急停車駅全てが6連化されているわけではなく、実際には使えない編成だ。
そこで「とりあえず」、余っている制御車3619に白羽の矢が立った。
けれど、3100・3101はアルミ無塗装となり、これにツートンカラーの電車を繋ぐというのはいかにも異様でもある。
そこで、車体を白に塗り赤い帯を回し、客用ドアをステンレス無塗装とし、アルミカーに合わせたイメージとなった。
この時、アルミに似せたからと言って銀に塗らなかったのは、賢明だったと僕は思う。

他社では普通鋼に銀を塗った車両も存在していたが、ぎらつきが過ぎ、如何にも厚化粧に見えてしまう。
その点、白に塗った故、清潔感が出て、乗客やファンに愛される車両となった。
写真は「850形さよなら運転」時の際に、東二見工場で見せてもらったもの。
すでに3100Fは走っていたが、この時は折よく車庫に居て、じっくり見せてもらうことが出来た。
3100のアルミ地肌、銀が眩しい。
PICT1026.JPG

反対側。
東二見山陽3100B.JPG

そして3619。
こうして、中間にいるのしか見ることが出来なかった車両が、まさに「異色」の存在となって先頭に出たことは本当に驚いた。
PICT1043.JPG


以降、この編成は山陽電鉄の中の文字通り異色の編成として静かな人気を呼んだ。
「白子」と車内の人に呼ばれ、「ニセアルミ」とファンに揶揄われながら愛された。

大塩付近を走る3100F。
3619が先頭だ。
PICT3027.JPG

サイドビュー。
古い電車と新しい電車の組み合わせだと思われがちだが、3619は3000系最終増備車両の一つでもあるし、決して無理な抜擢ではなかったと思う。
PICT3028.JPG

姫路方向へ去る。
3619・3101・3100の編成だ。
PICT3029.JPG

ずっと3連で走っていたと思われるこの編成だが、ほかの編成の事故などの時、復旧までに3530形を間に挟んで走ったこともある。
霞ヶ丘付近で、中間には3540を挟んでいたかと思う。
山陽3619海看板霞ヶ丘.jpg

高架前の西新町で。
珍しく特急運用の姿。
山陽3100西新町.JPG

3連運用の印象に残った情景を少し。
大勢の帰宅客が待つ別府駅ホームにて、3100が到着する。
0325別府山陽3100ほか.JPG

舞子公園近く、築堤を行く。
1125舞子公園山陽3619.JPG

JR朝霧駅近く。
0218狩口山陽3100.JPG

後追い、3619。
0218狩口山陽3619.JPG

明石海峡と3619。
0630狩口山陽3619.JPG

加古川橋梁、南側から。
0505山陽加古川橋梁3619.JPG

遠望。
0601加古川橋梁山陽山陽3619.JPG

板宿駅。
0729山陽3619板宿.JPG

夕闇迫る舞子公園駅。
0103舞子公園山陽3619.JPG

夜の西新町駅。
0424山陽西新町3619.JPG

対向電車から滝の茶屋駅近く。
1211滝の茶屋車内から山陽3619.JPG

朝の明石駅。
0902明石山陽3619朝.JPG

JR明石駅から見る。
1110明石山陽3619.JPG

江井ヶ島近く。
0116江井ヶ島山陽3619.JPG

大塩駅に進入する3100.
0226山陽大塩駅西側3100.JPG

橋上駅が完成し、まだホームにドアカット表示の残る大塩駅で。
0226山陽大塩駅西側3619.JPG

夜の東二見で特急待ち。
0107東二見山陽3619.JPG

女性車掌がホームを監視する。
0402東二見山陽3619と女性車掌正面.JPG

まさに一服の情景だ。
0402東二見山陽3619と女性車掌.JPG

いよいよ、連休前から「さよなら」看板の取り付けが始まった。
昨今の「撮り鉄」の暴走行為が伝えられる中、それでも沿線利用客や沿線ファンに向けて謝恩の意味のある看板取り付けをよくぞしてくれたものだと思う。
これには、今回は引退とならない3100も加わり、そちら側にも3619の看板が取り付けられた。
永年の盟友との別れを惜しんでいるかのように見える。

看板付き列車を少し。
明石駅で。
0428明石山陽3619.JPG

塩屋駅。
042408山陽塩屋3619.JPG

後追い、3100。
042409山陽塩屋3100.JPG

高速神戸で阪神ジェットシルバーと出会う。
0428高速神戸山陽3619阪神5718.JPG

阪急神戸三宮のイメージでもある、ガードを行く3619.
電車はこのすぐ先で折り返す。
0428阪急神戸三宮山陽3619.JPG

阪急神戸三宮の大屋根の下。
0428阪急神戸三宮山陽3619停車.JPG

電車の車内には、社員さんが撮影したと思われる3619の写真がたくさん飾られていた。
0428山陽3619紗車内写真展.JPG

江井ヶ島駅。
042405山陽江井ヶ島3619.JPG

夜の西新町駅。
0424山陽西新町3619.JPG

3100Fはこの後もしばらく生き残る。
連結相手はなんと、3070FのTc3640・T3540とのことだ。
これはどうも3070Fがかつて、歩行者用踏切に無理に侵入した自動車との衝突事故で脱線大破した過去があり、それゆえ車両の調子も良くなかったのではないかと個人的には推察する。

その3070Fと3100の出会い。
0913垂水山陽3100・3070.JPG

今度は編成を外された3070・3071の動向が気になるところだ。

江井ヶ島付近を行く3100の流し撮り。
0428江井ヶ島山陽3100流し.JPG

編成中間3101。
0428江井ヶ島山陽3101.JPG

3619の流し撮り。
0428江井ヶ島山陽3619流し.JPG

異色の存在でありながらもシステム的には完成された3000系のものを持ち、安定した保守性ゆえに長生きできた3619。
僅か1両の車両のためにこのブログをここまで掘り下げるのは珍しいと自分でも思う。
だが、派手ではないものの、それがこの車両の人気だったと、輝きだったとそれが僕自身の気持ちでもある。
1102狩口山陽3619.JPG


お疲れさま、3619号。
0428高速神戸山陽3619サイド.JPG

ヘッドライトを点灯させて3619が発車する。
0428高速神戸山陽3619.JPG



posted by こう@電車おやじ at 09:59| Comment(0) | 関西私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年04月06日

和田岬線103系詩情

山陽本線の支線である和田岬線に103系が走り始めたのは平成13年(2001年)7月1日の全線電化による同線のダイヤ改正からだ。
0212和田岬線103-6_01.JPG

和田岬支線は元々、兵庫区の臨海工業地帯への通勤輸送として、貨物輸送と併用して運行されてきた路線だった。
神戸臨海部には東灘操車場と鷹取操車場を起点とする二つの貨物線が複雑に敷かれていて、僕も幼少期は目の前を貨物線が通る安アパートに住んでいたものだ。
貨物鉄道と市民生活はいろんな場面で直結していた。
だが、貨物輸送の相次ぐ合理化、企業の運営形態の変化で次々に貨物輸送が削減され、ついに神戸市臨海部から貨物線のすべてが消えた。
国際港湾都市であった神戸市は、貨物鉄道の衰退と合わせその機能を大幅に低下させ、国際競争力をなくし、今や大阪港にも後塵を拝する状況でもある。

今現在は「阪神港」として大阪港、周辺の港湾と合わせ一元管理されているようだが、ここでは港湾そのものには触れない。

さて、壊滅した(大阪港には今も安治川貨物駅が存在する)神戸臨海部の鉄道だが、唯一生き残っているのが和田岬支線だ。
貨物輸送としては沿線の川崎車両工場の搬入、搬出が残り、それは時として「甲種輸送」として鉄道ファンの熱い視線を浴びる。
そして旅客輸送の部分では朝夕にのみ運行される通勤電車が、減ったとはいえ大量の乗客を今も運ぶ。
0104和田岬線和田岬103.JPG

詰込みをしなければならない路線で、通勤型大量輸送用の103系と言えばまさに彼らにとっては願ってもない働き場所なのだろう。
そしてかつて3500両近くも仲間がいた、彼ら103系は、今や4線区に残るだけになっていて、九州の唐津に3両編成5本、播但線に2両編成9本、加古川線に2両編成8本、そしてここの明石支所(旧明石電車区)所属の6両編成一本の合計55両だけで、和田岬線103系は、実に本来の大都市通勤輸送で使われる唯一の103系という事になろうか。
九州のものは筑肥線でも西側区間でワンマン運転で使われているので、加古川・播但のワンマン運行と似た状況だと言えるだろう。

通勤電車であり、元より味のある設計ではない。
だが、昭和の高度経済成長時代のイメージを今に残すその姿は、時としてみる人、乗る人を記憶の彼方へ誘う。
かつては乗るのも見るのも嫌だった車両がいまや懐かしい、大昔の自分が若かった頃や、その頃に出会った人たちを思い出させる叙情すら感じさせるのだから、時の流れというのは不思議なものだと思う。

さて、和田岬線通勤列車と言えば高々2.7キロの路線を4~5分、一駅だけ走ればいいわけで、快適性より詰込みが効いて、乗降が素早くできればいいわけで、かつてはオハ61を改造した日本の鉄道史に残る究極の通勤車両オハ64、そのあとは気動車化され通勤気動車のキハ35をさらに専用車両化したものが使われていた。

あの阪神淡路大震災は平成7年(1995年)1月17日で、大被害を受けたJR神戸線同様、和田岬線も運行が休止された。
そして神戸線復旧の過程で、新長田駅部分の被害が酷く、被害の少なかった和田岬線連絡線(鷹取操車場~兵庫)に急遽、電化工事を施し、神戸線電車をそこに走らせたのが電化の始まりだ。
おりしも、兵庫駅付近は国鉄貨物駅の廃止により余った広大な土地を副都心に変貌させる「キャナルタウン」計画が始まっていて、和田岬線もそのために半高架化された。

震災でキャナルタウンの出来たばかりの建物にも被害が見られたが、それは外観部分が中心だったようでほどなく復興され、建設工事も再開された。
この町は震災直後の家を失った多くの神戸市民の住まいとして機能していく。
1018和田岬線兵庫103乗車風景.JPG

さて、鷹取から兵庫まで電化してしまえば、あとは和田岬まで3キロもなく、わざわざ検査に不便な気動車を使う意味もなく、所属の鷹取機関区はとうに廃止されていて、鷹取工場も網干へ移転、さらに広大な鷹取操車場を新しい神戸貨物ターミナルとして整備という話が出るに及んで、和田岬線の電化もあっさり決まった。
ちなみに、キハ35、キクハ35では、エンジンを半分撤去したことでバッテリーの充電に手間取り、一晩中、エンジンを駆動させる必要もあったとのことで、現場から気動車が扱いづらいと言われていた。

和田岬線電化と同じころに地下鉄海岸線が開通し、これができると和田岬線利用客が激減するとも言われたが、JRと新地下鉄の乗換駅である新長田には快速が停まらず(ホーム有効長が足りず停車できない)、停まったとしても朝ラッシュ時の快速は列車線を走っているわけでそもそも新長田にはホームはなく、反対側の神戸駅は新快速や快速が停車するものの、和田岬線乗客の流動の大半が神戸市西部、播磨地域から来ていることを考えれば、わざわざ通勤に遠回りをすることも考えられず、和田岬線を電化して車両を明石の所属にすることで、大幅なコストの低減ができるわけで、地下鉄と共存となった。

和田岬線電化開業は、平成13年(2001年)7月1日で、これは地下鉄海岸線開通の7月7日より僅かに早かった。
結局、この後地下鉄海岸線は輸送量の低迷にあえぎ、和田岬線は淡々と走る。
5年前のデータでは和田岬線の輸送密度は20万人に達していて、JR西管内では上位に食い込んでいる。
今は、和田岬周辺でも工場の撤退や合理化が相次ぎ、これよりはかなり数字を落としていると思われるが、それでも大幹線よりはるかに多くの輸送量を誇っているのは確かだろう。

長くなったがその和田岬線、103系もいよいよ終焉とのうわさもある。
これは、コロナ禍によるダイヤの見直しが通勤時間帯にも及ぶことで、多くの余剰車両が発生し、わざわざ古い103系を一生懸命に走らせる必要もなくなってきているわけで、もしかしたらこのブログを書いた直後にでも置き換えが現実のものになるかもしれない。
ただし、鉄道ファン諸氏の過激な暴走により、車両の引退にはJR各社は非常に気を使っていて、阪和線、奈良線の103系も何も言わずに「サイレント」引退となったことを思えば、和田岬線でも車両の置き換えに何らかの発表があるとは思えない現状だ。
これは同じ鉄道ファンとして哀しい。

さて、唯一生き残っている103系は色がスカイブルー、戸袋が埋められているとはいえ黒サッシのN40施行車で、このデザインは後の大きく変貌した張り上げ屋根・広窓のN40や、簡素化されたN30に比して、103系の良さを生かしたデザインで好感が持てる。
僕は震災前後に大阪環状線経由で通勤していたけれど、その頃に登場したのがこのN40だ。
そして、和田岬線103系は6両とも大阪環状線にいたわけで、彼らの環状線時代に僕も乗っていたかもしれない。

最後の通勤用103系の編成は次の通りだ。
和田岬側から
1両目クハ103-254
1018和田岬線兵庫運河東クハ103-254.JPG

2両目モハ102-553
1018和田岬線兵庫運河東モハ102-553.JPG

3両目モハ103-397
1018和田岬線兵庫運河東モハ103-397.JPG

4両目モハ102-545
1018和田岬線兵庫運河東モハ102-545.JPG

5両目モハ103-389
1018和田岬線兵庫運河東モハ103-389.JPG

6両目クハ103-247
1018和田岬線兵庫運河東クハ103-247.JPG

車内・・化粧板は張り替えられ、窓も交換されているが天井付近の造作は103系冷房車のオリジナルだ。
0104和田岬線103車内.JPG

扇風機は元々JNRマークのあったところをJR西日本に変更している。
0311和田岬線103系扇風機.JPG

午後の光が差し込む、休日の夕方。
MT55、110キロワット4M2T・・和田岬線には出力過剰だが、明石支所からの回送には、高速列車が頻発するJR神戸線を通るわけで、精いっぱいの高出力にしておかないといけないという事だ。
0104和田岬線103車内朝陽.JPG

さてその回送シーンだ。
明石支所からいったん、西明石駅ホームを通過して大久保へ向かう。
0105西明石103.JPG

大久保駅で折り返す。
これは、明石支所から直接には列車線に出でられないことによるもの。
0710大久保103.JPG

そのあとは西明石も明石も通過して鷹取まで「爆走」する。
この時のモーターの唸りはこの区間の名物でもある。

山陽電鉄人丸前駅の目の前を高速で通過。
標準時子午線の時計台の前を行く。
0512人丸前103前.JPG

山陽電鉄大蔵谷駅より
0428大蔵谷103.JPG

こちらは下り回送。
0313大蔵谷103系4_01.JPG

朝霧駅通過。
明石海峡を望む。
0129朝霧103.JPG

朝霧近くの高台を行く。
1206狩口103B.JPG

西舞子、大歳山公園から。
海と103系。
0910大歳山103回送1.JPG

舞子駅通過。
0728舞子103.JPG

舞子駅から東へ。
0728舞子103後追い.JPG

舞子駅を俯瞰。
舞子の松が鬱蒼と茂る。
0903舞子103系1.JPG

垂水駅を通過する下り回送。
0827垂水103系2.JPG


山陽本線をモーターをうならせて爆走した回送車は、やがて鷹取にていったん停止してゆっくり新長田へ。
0227新長田103系回送2.JPG

実は、ここの103系は一度、日根野で余剰になったより新しいタイプの編成と交換が企画された。
ただ、日根野から疎開留置を兼ねて送られた編成はクハのみN40、モハはN30で、結局それならこれまでの編成のほうが、気心が知れているし、何よりすべてわかっているというのが、これは想像だがお守する明石支所の方々の気持ちだろう。
疎開留置を終えて吹田工場へ廃車回送される編成。
0214大蔵谷阪和103回送1.JPG

兵庫駅での風景。
1018和田岬線兵庫103入線1.JPG

103系が専用ホームに入る。
1018和田岬線兵庫103入線2.JPG

発車していく103系。
1018和田岬線兵庫103発車.JPG

川崎重工(当時)前の国道から俯瞰。
1018和田岬線川重前俯瞰103上り2.JPG

川崎重工前にて。
1018和田岬線川重前103下り3.JPG

この先の兵庫運河旋回橋は和田岬線最大のポイントだ。
0104和田岬線兵庫運河下り103.JPG

夕方から夜にかけての情景が美しい。
0202和田岬103兵庫運河上り2.JPG

水鏡もいい。
0202和田岬103兵庫運河下り2.JPG

夜、すっかり日の暮れた旋回橋。
運河にはさざ波が立ち、通過する電車の窓からの光が波で滲んで反射し、この世のものとは思えぬ美しい光景が出現した。
0311和田岬線旋回橋下り103系4夜.JPG

103系は国鉄標準型の単なる通勤輸送用だ。
だが、詩情豊かな風景を時として見せてくれる。
夕景の播磨灘を望む。
20101226狩口103系と夕日.JPG

グローブ型通風機と播磨灘の夕陽。
1110狩口103屋根.JPG

夕景の明石海峡。
1112大歳山103A.JPG

詩情豊かに見るには、すでに引退が確実なものとして噂される今、時すでに遅しかもしれないが、僕は今日一昼夜勤務明けでほとんど寝ずに和田岬駅へ向かった。
今年で多分最後となるだろう、桜と103系の競演を見ておきたいし、それが彼らへの僕自身の惜別の気持ちということだ。
0406和田岬沿線桜と103系_01.JPG

和田岬駅に電車が到着した。
0406和田岬駅到着103系_01.JPG

駅に停車する103系。
大勢の乗客が降りてくる。
一時的に駅前の歩道が人であふれ、駅構内からの動きがとれないほどだ。
この写真はピークを過ぎたころに撮影した。
0406和田岬103系到着_01.JPG

駅前の桜。
まさに満開。
0406和田岬103系と桜_01.JPG

詩情を味わいに来られているのだろうか。
女性ファンの姿も。
0406和田岬駅女性と桜と103系_01.JPG

桜と103系。
本当はこの姿を来年も再来年も見ていたい。
0406和田岬駅桜と103系縦_01.JPG

神戸の夕景を背景に103系が行く。
この電車を最後に神戸市民が見ることが出来た倖せと、そして儚い希望とが交錯する。
0212和田岬線103-1.JPG





posted by こう@電車おやじ at 19:08| Comment(3) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年02月06日

221系の33年

平成と年号が変わったその時に合わせるかのように、平成元年(1989年)、JR西日本に新型電車が走り始めた。
国鉄改革から丸2年、JR各社は競って新型車両をデビューさせ、その華やかさは新生JRグループの先を明るく見せていたけれど、JR西日本には新車の話もなく、山陽新幹線リース料が会社の経営を圧迫する中、それでも最も効果的な新車の投入を模索していたのだろう。

だから221系の登場はまさに突然だったように見えた。
これまでの鉄道車両の枠を破った、純白の車体、そしてベージュ・青・茶の3色を重ねた腰の帯、流線形で大きな窓を持つ前頭部。
柔らかな曲線で構成され、そのサイズも度肝を抜いた大きな窓、窓回りには阪急のあの銀の縁取りに対抗したのか、黒い縁取りが白い車体を締める。
117系の2ドアから3ドアになったのは時代の流れか、それでも、3ドア車体でここまで美しい車両を作れることに僕もまた驚愕の想いで見たものだ。
足回りや制御装置は国鉄末期の205系、211・213系の流れをくむとはいえ、斬新でありながら落ち着いたデザインは一気に乗客や沿線住民の評判を呼んだ。
写真はその登場当時に、たまたま来てくれた快速電車で、正面の種別表示は青色だった。
須磨221系登場時快速.JPG

車内に目を向けると、117系譲りの転換クロスが並ぶ。
中間車の座席数は3ドアでありながら2ドアの117系に揃えたと64名分の座席いうのも驚きで、やや硬いシートもむしろ身体を保持するにはちょうど良く、また、車内妻部にはデジタル式の案内装置までついた。
最初はJRで混むのは、大手私鉄が並走していない区間だけだったのもあり、つり革も少なめでドア部にあるだけだったが、やがてつり革も増設、さらには車両全長にわたるようになっていった。
1231快速221車内.JPG

例えば朝の三ノ宮駅、上り方面は閑散としていて大半の乗客が阪急・阪神に乗り換えてしまう有様だったのが、221系が走り始め、やがて新快速に使われるようになり、そして新快速の117系を置き換えはじめ、新型車両の本数が増えてくると比例して乗客も増えていった。

117系は確かに沿線利用客を驚かせたが、それは新快速という列車の革命とまでは行かなかった。
だが、国鉄末期から新快速を列車線に移し徐々にスピードアップを始めていたその成果が221系で花開いたという感じだった。

阪急・阪神への乗り換え客が激減し、明石・加古川・姫路から大阪を目指す乗客がそのまま乗車するようになる。
それにはJRが行わず、私鉄がたびたびおこなった運賃改定での、私鉄との料金差が大きくなくなっていった営業政策も大きな背景にはあるだろうが、それをきちんと受け止めたのが221系だったわけだ。
須磨221系新快速海側から.JPG

アメニティライナーなどという愛称もついたが、それは関東のE電と同じく、広く浸透するにはいかず、沿線利用者からは「白い電車」で親しまれる。
こうなると、117系はまだ車内設備ではそん色がないものの、113系、それも非常に古い初期車両が大量に残っていた快速電車での大きな落差も乗客にとって問題となる。
221系が増えてきたころには113系を嫌って電車をやり過ごす乗客も増え、JR西日本はとにかく大量に221系を増備する。
当初、快速用を主に考えていたとされるが、その好評と、乗客の激増により2ドアの117系では徐々に対応が難しくなっていった新快速に中心的に投入されていく。
須磨221系113系.JPG

当初の6連はすぐに8連に、かの117系も8連に組み替えられ、221系に少しでも追いつけるように最高速度の向上もなされたが、117系の場合、4連・4連の組み合わせになるとM比が落ち、加速が鈍くなってしまう。
221系はまさに新時代の新快速として勢力を拡大していく。
須磨221新快速2002A.jpg

120キロ運転開始、阪神間ノンストップ19分運転。
この頃は221系新快速の最盛期だろうか。
新快速221系須磨下り.JPG

大和路線(関西本線)では京阪神地区と同じく当初から大量に221系が投入され、「大和路快速」の愛称もつけられ、一気に置き換えられる。
直通先の野田駅で。
221W野田.jpg

こちらは天王寺。
0629大和路線221-51天王寺.JPG

この京阪神の新快速、阪奈の大和路快速が当時のJR西にとって二本柱だったのだろう。
私鉄への負けが込んでいる区間で、私鉄を凌駕し、さらに沿線の豊富な人口を背景にした可能性のある区間という事だったのかもしれない。


阪和間もそのような区間であるはずだが、こちらは関西空港開港までは、大人しく鳴りを潜めていたのかもしれない。
関空開港で登場した空港アクセス関空・紀州路快速は223系になったが、そのエクステリアデザインは後のシリーズと異なり221系から発展したことが明確にわかる印象でもあった。
0527野田223-0.jpg

221系には実はプロトタイプが2種存在する。
ひとつは正面デザインの元、そして制御装置なども含めた原型という意味で国鉄213系、そのJR化後の増備車であるマリンライナー用クロ212だ。
昭和63年、改めて開業する瀬戸大橋経由の快速電車、「マリンライナー」は国鉄が用意した213系だけではなく、先頭部にグリーン展望室、指定席付きダブルデッカーを組み込んで華やかさをさらに強調した。
岡山駅マリンライナー全景.jpg

そして、これまた昭和63年に登場した近鉄の長距離急行用5200系だ。
近鉄5156堅下.jpg

近畿車両の設計した近鉄5200の基本デザインにマリンライナー用クロ212の前面デザイン、カラーリングを合わせれば221系のイメージになる。

設計期間を短く、設計コストを少しでも抑えるために近畿車両が前年に世に送り出した車両デザインを元に提唱したJR西日本向けの車両が221系という事になるのだろう。
だが、白い車体は華やかで地味な近鉄より人目を惹くし、車両のサイズが全長・全幅ともに近鉄とは大きく異なることで、新生JRらしいゆったりしたイメージの車両が出来たのだろう。
近鉄では全座席を転換式としたが、JR西では固定式ボックス座席の需要もあるわけで、転換クロスと固定クロスの組み合わせとしたと、言われるのも納得のいくところだ。
近鉄5200系の車内。
221系より座席の幅が狭い、車体幅が15センチも違えば当たり前のことか。
20170620近鉄5200系車内.jpg

221系の全盛。
新快速は12連で阪神間ノンストップ19分運転。
最高速度120キロを目いっぱい出して、その頃まさに僕はこの電車で通勤していた。
221系並走須磨.JPG

満員の帰宅時、座れるはずのない新快速の最後部車輛で流れる景色、ぐいぐい上がる速度計を見るのが楽しみだった。
鉄道ファンとしての活動がほとんどできない時代が僕にはあったのだが、それでも、どの駅も高速で通過し、あの153系だった新快速がこのような立派な列車になったことに感無量で、そして自分が鉄道ファンであることを思い出すひと時でもあった。
そして純粋に新快速が221系に統一されていたこの時代こそ彼らの全盛期だったのではないだろうか。
221系新快速須磨ベルコン.JPG

阪神淡路大震災は1995年の1月に起きた。
当時の僕は、神戸の垂水から大阪、OBPまで通っていたが、その通勤経路はずたずたに引き裂かれた。
新車の221系には大きな被害がなく、分断されたJRの最重要線区で東西に分かれて活躍していた。

路線の復旧が進み、新快速はやがて大阪から住吉まで19分で走ってくれた。
西側では快速電車の運行も再開されていたが複々線が使えず、221系は朝には各駅停車として走らざるを得なかった。
それも、日中に限り複線のまま新快速が復活、やがてわずか3か月足らずで全線復旧したJRは、工事が進まない私鉄各社の乗客を一手に引き受けることになる。

221系新快速の混雑は激しく、臨時に117系の新快速をも用意して、乗客を捌く。
須磨117新快速.JPG

時には福知山線用の車両も引っ張り出してくる。
一部ロングシート化されているがそんなことに拘っている場合ではない。
須磨117緑.jpg

この時、JRに移った乗客の大半は、元の私鉄が復旧してもそこに戻ることはなかった。
JR西は前倒しで223系の投入を決定、テレビコマーシャルで有名女優を起用して「223系しんかいそく~♬」と歌わせた。
223系登場時.jpg

震災の被害を乗り越えるどころか、むしろ大きく売り上げを伸ばし、今に至るJR優位の状況ができてしまう。
それでも、まだこの頃は223系は限定的で、221系は間違いなく京阪神のトップスターだった。
JR出会い221207201.jpg


221系はこの震災を機に、徐々にトップスターとしての活躍を後継に譲っていくことになる。

やがて新快速は130キロ対応の223系に移行、221系は快速や、さらには山陰線、奈良線などへ活躍の場を移す。
奈良線・宇治付近。
0104奈良線221系宇治.JPG

山陰線京都駅にて。
霜取りのパンタグラフ設置でまさかの前パンとなった編成。
京都駅JR2011年221系.jpg

嵯峨野線(山陰線)嵯峨嵐山駅近く。
嵐山221系俯瞰.jpg

大和路線今宮駅。
0818今宮221.JPG

王寺駅での奈良行きと大和高田行きの分割作業。
20110106王寺221系分割.jpg

一時的に福知山線にも入った。
黒井付近。
221系福知山線黒井.JPG

それでも車齢25年の頃から更新工事も始まった。
正面に行先表示が出るようになった。
0908須磨221更新快速.JPG

大和路快速の車両も更新される。
221系D11更新ホロ未設置野田.jpg

ただし車内では混雑時への対策として一部座席の撤去、折り畳み式補助椅子の設置も行われる。
0729関西線221リニューアル車内.JPG

この後、舞子駅での乗客転落事故を重く見たJR西日本は、通勤・近郊型電車の編成ごと連結部に転落防止柵を取り付けることを決定。
221系にもこの柵が設けられた。
しかし、元々のデザインにこの柵のない221系では、柵を白く塗ったこともあり、なんだか仙人のひげのように見えてしまうのは僕だけだろうか。
出来れば黒に塗れば全体のイメージにさほど変化がなかったのにとは思う。
0412大蔵谷221前幌.JPG

223系のさらに後継、225系も登場。
ここでまさかの近郊型電車が通勤型電車を駆逐する事態が発生。
JR西日本では大和路線・阪和線・大阪環状線においては全車両を3ドア車に置き換え、環状線ではロングシート3ドアの323系に、阪和線には新車の225系を、大和路線・奈良線では京阪神から追い出される221系に統一という方向性になった。
環状線の323系ですらゆったりしたロングシートで3ドアというのは、関東から見れば立派な近郊型だろう。

関西のJR線においては純粋な通勤型電車が走るのは、京阪神区間とJR東西線・学研都市線部分とだけになるという事になった。
今現在、201系・103系の置き換えにさらに奈良への転出が進んでいる。
ロングシート普通電車の置き換えにクロスシートの221系が投入される。
トップスターから一歩引いて、それでも活躍を続ける。
奈良にいる車両で6連、8連の先頭車は更新されても転落防止柵はつかない。
柵のない姿はやはり美しい。
221系D11更新ホロ未設置野田.jpg

いずれ221系も追われるときは来るのだろうが、いましばらくは彼らの活躍を楽しみたいと持っている。
ただ、僕にとってはやがて地元のJR神戸線では見られなくなるのが辛い。
塩屋にて223系との併結。
塩屋221.jpg

最後は大阪のシンボル、通天閣、天王寺公園とともに。
0524天王寺223.JPG



posted by こう@電車おやじ at 16:59| Comment(4) | JR化後の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月18日

犬山橋今昔

僕は今でも、名鉄を訪れると必ず立ち寄る場所、あるいは頻繁に行きたくなる場所がある。
犬山橋はその一つで、ここは初めて名鉄を訪問した昭和51年春には既に列車(それもHLの普通)で通過してその驚きは相当なものだった。
そしてかなり早い時期からここを目当てに名鉄を見に行くことになる・・
当時、好きだった美濃町線・揖斐線にも近く、そういう意味ではお誂え向きの場所だったのかもしれない。
しかかも、道路併用橋という事で列車の速度は遅く、路面から見上げるように列車のもっとも格好の良い姿を撮影出来たのだからなおさらだ。

ただ、どうも犬山遊園側、つまり愛知県側からの撮影はほとんど記憶になく、一度は行ったかと思うが好きになれなかったのかもしれない。
なので今回のエントリーで紹介する写真のうち、古いものはすべて鵜沼側、岐阜県側からの撮影だ。

まずは大好きな7500系から。
名鉄最高峰の高性能電車もここではゆっくり、自動車と合わせて走らざるを得なかったが、それがまた楽しかった。
7507F、急行河和行き。
名鉄犬山橋7507急行河和.JPG

中間車7667が、美しい車体を魅せる。
名鉄犬山橋7667.JPG

こちらは7524。
名鉄犬山橋7524.JPG

カラーで後追いを。
橋梁の反対側、如何にも路面電車然とした雰囲気は橋梁側に負けぬくらい好きだった。
名鉄犬山橋7500後追い特急犬山_01.JPG

特急河和行きを追うクルマの列。
未来的な特急電車が車の中に呑まれる不思議な光景。
名鉄犬山橋7500系後追い特急河和_01.JPG

7500系先頭車から見た犬山橋。
1990名鉄車中より犬山橋.JPG

ではそのほかの系列も
犬山橋は線路間の隙間が十分になく、幅の狭い名鉄車両といえど基本的には、すれ違わないようにしていたらしい。
7000系同士の出会いだが、片方の電車は通過を待っている状態。
犬山橋7000×2.jpg

しかし、時にはダイヤが押すのか、慎重にすれ違うシーンもあった。
キハ8000系がやってきた。
名鉄犬山橋8000カラー.JPG

ダイヤが押しているのだろうか…
対向電車の通過を待たずに気動車はどんどん橋梁に進む。
名鉄犬山橋8303.JPG

向こう側の線路には7500系が通過中だ。
名鉄犬山橋8001.JPG

7500系とキハ8000系のまさかの橋梁上でのすれ違い。
当時の僕も非常に驚いたと記憶している。
8000系は8200形が車体長が長い分、車体幅を抑えてあるらしいがこの車両はトップナンバー、キハ8001だ。
名鉄犬山橋8001前.JPG

旧型車もまだたくさん走っていた。
小牧線直通のモ804。
名鉄犬山橋801上飯田.JPG

HLク2702。
名鉄犬山橋2702.JPG

パノラマの車体を持つツリカケ車、7300系。
名鉄犬山橋7300系.JPG

SRの姿もいい。
5500系だ。
名鉄犬山橋5500系.JPG

こちらは高運転台5509か。
名鉄犬山橋5509高運.JPG

6000系がまだキラキラしていた頃。
6連で「ドラゴンズ」看板を付けていく。
名鉄犬山橋6000系中期車.JPG

こちらは2連回送。
名鉄犬山橋60000系2連中期車_01.JPG

パノラマデラックス登場!
本邦初、二階展望室を持つ観光電車だ。
名鉄犬山橋8800カラー_01.JPG

大きな窓、ゆったりした室内が垣間見える。
名鉄犬山橋8804.JPG

あまりにも意欲すぎた電車。
このあと、JRはじめ各地でこの手の車両が出てくるがまさに時期尚早。
名鉄犬山橋8803.JPG

8803と読めるから第二編成だろう。
このあと、これに乗りたくて新鵜沼駅に走ったのも懐かしい思い出だ。
名鉄犬山橋8803先頭2_01.JPG

ついでにこの素晴らしい車両の車内を。
当時310円の特急指定券がこの車両に限って510円。
今なら何とも思わない金額だろうが、当時はずいぶん高く感じたものだ。
名鉄8803車内区分室.JPG

展望室。
今のパノラマスーパーの源流を見る気がする。
名鉄8803車内.JPG

反対方向行きの写真も撮影していた
名鉄8800系2連犬山橋カラー.JPG

パノラマスーパー登場!
当初は全車指定席、4連で運用されていた。
この方向の展望車は今は見られない。
名鉄犬山橋1000系4連.JPG

後追い。
名鉄犬山橋1000系4連後追い.JPG
橋の中ほどで撮影したパノラマスーパー1000系。
名鉄1000犬山橋2002.jpg

木曽川の石票とパノラマスーパー。
2002犬山名鉄1000橋梁.jpg

パノラマデラックスも3連にされた。
名鉄犬山橋8800系3連2.JPG

後追い、この後はまさに活躍の場を広げてくれると信じていたが‥
名鉄犬山橋8800系3連3.JPG

6000系は非貫通、鉄仮面の顔となって進化していった。
名鉄犬山橋6000鉄仮面4連.JPG

こちらはさらにライト回りが簡略化された増備車、2連の6800系だ。
名鉄犬山橋6800系鉄仮面.JPG

高山線直通特急もキハ8500系にモデルチェンジ、ただ、この車両の活躍期間は短く、僕はこの時に撮影したのが唯一だ。
名鉄犬山橋8500系.JPG

1600系登場、当時は正面に「PanoramaSuper」のロゴが入り、7000系に対する7700系、と同じく、1000系に対する1600系だと思ったものだ。
名鉄1600系犬山橋.jpg

後追い。
名鉄1600系犬山橋 (2).jpg

白帯パノラマカー。
パノラマカーの魅力をさらに広げてくれたが全盛時はさほど長くは続かなかった。
名鉄犬山橋7000白帯特急_01.JPG

白帯車の回送。
名鉄犬山橋7000系白帯回送.JPG

こちらは白帯車の6連、その7700系との連結部。
名鉄犬山橋7000・7700白帯特急.JPG

20世紀末、1999年ごろに訪れた犬山橋。
そこを行く、ニューフェイス3500系。
ついに名鉄も純然たる通勤車両を作り始めた。
だがさすがにデザインセンスは良い。
ロングシートだが名鉄らしいデザインの車両だ。
名鉄3500犬山橋2002.jpg

SRの末っ子、5700系。
名鉄5700犬山橋2002.jpg

先頭車同士連結された部分、まるでキスをしているようだ。
名鉄5700横顔新鵜沼1991.jpg

ドラゴンズ看板付きの6000系初期車。
名鉄6000犬山橋2002.jpg

暫く名鉄に通えない時期が続いた。
その間に愛すべき鉄道は大変革をされていて、久しぶりに訪問した僕はしばし困惑した。
青い2000系ミュースカイと赤い2200系特急の出会い。
併用軌道はとうに解消され、鉄道専用橋に変貌していた。
犬山橋2000・2200.jpg

ステンレスカーの存在にも違和感を感じてしまう。
5000系を名乗るこの電車の足回りはかつてのパノラマスーパーだという。
0801名鉄犬山橋5105他8連.JPG

1800系増結車が後ろの1200・1000系からなる8連の先頭に立つ。
前は旧塗装、後ろは新塗装だ。
0801名鉄犬山橋1800・1200系特急.JPG

こちらは新塗装編成1200・1000系だ。
0324名鉄犬山橋1200系.JPG

6500系が健在だったのは嬉しかった。
0324名鉄犬山橋6500系4連.JPG

犬山遊園側から最後のSR、5700系を。
0826犬山遊園名鉄5805.jpg

今はパノラマスーパー展望車は、豊橋・河和方向にしか連結されないので、必然的にかっこいい車両を撮影しようとすると犬山遊園側しかチョイスできない。
橋梁上は歩道も撤去され立ち入り禁止だ。
1209名鉄犬山遊園1000系.JPG

遠い日の憧れだった車両たちの大半が去った今、それでも僅かに残る当時を知る電車や、心から愛したパノラマたちの余韻を求めて僕は犬山橋に立ち寄る。
彼らの姿など有り得ないのは分かっていながら。
0725犬山橋3200系.jpg
posted by こう@電車おやじ at 17:45| Comment(0) | 名鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年12月25日

島原・・遠い鉄道

気になりながらも行けない鉄道がある。
行きたくても行けない鉄道もある。
たぶん、僕は生涯、日本国から出ることはなさそうなので一度は見たい、米国・シカゴの「L」や欧州の路面電車は見ずに終わるだろうが、日本の中でも自分の経済力や時間的余裕を考えると、どうしても行きづらいところがあるのも確かだ。

島原鉄道はそういう鉄道の一つで、かつて頻繁に長崎電気軌道を訪問した折にも、途中の諫早で降りれば簡単に行ける場所でもあったのに、訪問はわずかに二回、それも島原以北だけの時間に追わた形となり、本当はもっとも見たかった南目線には足を踏み入れることもなかったのは返す返すも残念ではある。

そして島原鉄道と言えば名物役員だった宮崎康平氏のことも忘れられない。
激務で失明したと言われている氏だが、島原鉄道の先進的な取り組みには氏の功績が大きい。

写真は大三東で…
島原キハ2001大三東.JPG

初めて訪問したのは昭和50年代前半、急行「雲仙」を諫早で降りて、訪問したと記憶している。
その時、諫早から愛野までの強烈な高速運転に驚いた。
島原2601諫早.JPG

島原駅はまるで国鉄のような雰囲気で、歴史を感じさせてくれた。
島原駅舎.JPG

こちらは2エンジンのキハ5501。
島原5501島原.JPG

構内にはD3703 という機関車がいた。
島原D3703島原全景.JPG

この機関車は普賢岳災害復旧工事でも使用された後、廃車になり、今も保存されていると聞く。
島原D3703島原.JPG

福岡在住のこの道の先輩からは南目線廃線の前後に相当な情報をいただいた。
だが、僕は行けなかった。

二回の訪問とも大三東駅を訪れていたようだ。
島原大三東駅名標.JPG

波のほとんどない有明海に面した静かな駅で、当時の僕は非常に気に入ったのだろう。
国鉄から移籍したキハ17形がやってきた。
島原キハ17大三東.JPG

こちらは国鉄型をそのまま採用したキハ20形だ。
島原2001大三東.JPG

単行列車が去っていく。
島原2001大三東後追い.JPG

キハ4502、国鉄キハ44500形の車体にキハ45000形の機構を組み込んで登場させた意欲的な気動車で、島原鉄道の先進性を見ることのできた車両だ。
この頃はすでに活躍も少なくなっていた。
島原キハ4502大三東1.JPG

駅を出て下っていく。
島原キハ半流.JPG

後追い。
島原キハ4502大三東2.JPG

こちらはキハ5501による急行、国鉄準急用気動車の協力型を島原にアレンジして登場させた形式。
2エンジンの高出力車だ。
島原キハ5501大三東.JPG

キハの急行で島原を後にする。
島原5505急行島原.JPG

この頃は急行は日に数本走っていて、キハ26形や55形が使われていた。
列車によっては国鉄列車に連結し遠く博多まで行くのもあった。
キハ26は冷房化され、国鉄急行につながれていた。
しかもこの車両はエアサスを履いていた。
島原キハ2603博多.JPG

少しでも余裕ができれば、長崎県を再訪し、島原鉄道をゆっくりと楽しみたいと願う。
アクセクした鉄道オタクの動きではなく、ゆっくりと旅を楽しみに行きたいと思う。

あの大三東の風情は今も変わらぬようでぜひともまた行きたい場所の一つでもある。
島原キハ2001大三東入線.JPG
posted by こう@電車おやじ at 18:55| Comment(0) | 私鉄の思い出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする